月面巨大広告枠

 月は巨大な広告枠となった。

 ある夜は Apple のロゴが、ある夜はナイキが、ある夜はマクドナルドが東の空からのっそりと昇り、太陽の軌跡を追うように、あるいは追われるように宙を横切り、西の空にゆっくりと沈んだ。

 満ち欠けという概念はすっかり過去のものとなり、人々は日々変化する天上のロゴを見ながら、明日はなんのロゴが昇るのだろうかと思いを馳せた。ロゴと連動して行われるキャンペーンにも思いを馳せた。

 どの国にも一定数存在する回顧主義者たちは「なぜ月が広告枠になってしまったのか」と嘆いたが、その答えは彼らにもわかりきっていた。他の用途がなかったからだ。


 もともと人類の月面植民は、太陽風によって月表面に貼り付いたヘリウム3の採掘が目的だった。ヘリウムを地球に運んで核融合させれば、人類社会に必要な電力を永遠に供給できるはずだった。

 しかし何十年もの苦難を経て月面のヘリウム採掘ラインが稼働しだした頃、地球では重水素による核融合炉が普及し、全ての電力を賄えるようになっていた。重水素は海水からいくらでも取り出せるので、月まで行って燃料を掘る必要性は皆無となり、ヘリウム採掘事業を主導していたルナティック・パワー社は事業撤退の危機に直面していた。

 ここで問題となったのは、採掘ラインの従業員とその家族3000人だった。彼らは1/6の重力に適応しきっていたため、いまさら地球で生活するのは難しい。なんとかして月面上に彼らの仕事を創出せねばならなかった。

 最初に提案されたのが「月を火星植民のための中継地とする」だった。ヘリウム3による電力で極地方の氷を分解し、液体酸素と液体水素からなるロケット燃料を生産するというものだ。

 だが「月でも仕事がないのに火星行ってどうする」というのは誰の目にも明らかだった。往復に2年かかる上にネットも遅く、インスタ更新はできるものの Netflix が見られない惑星に一般人が居住するのは現実的ではなかった。結局、火星はNASAの宇宙飛行士が数十人ほど往来しただけで終わった。

 その次に出されたのが「月面巨大広告枠構想」だった。

 月面に約10キロ間隔で塔を建設し、その上に赤・緑・青のレーザーを地球に向けて設置したのである。これが地球から見ると解像度400×400の円形ディスプレイとなる。ありあまる月の電力を全投入するためその出力は月自体よりも明るく、三日月でも新月でも関係なく円形の広告枠として使うことができた。

 光害がすさまじいので天文学者は大反対であったが、代わりに月の裏側に大規模な天体観測施設を設置するというのでうまくごまかされた。人類史のほとんどの時期において学者は民間企業より弱い。

 そのころインターネットの世界では、広告ブロックとトラッキング拒否がOSレベルで実装されていたため、パーソナライズされたネット広告は縮小の一途をたどり、マスマーケットに向けた壁面広告が勢いを取り戻しつつあった。「月面広告」はこのような潮流の最先端に位置していた。

 月は壁面広告に比べて見かけのサイズが小さいので、表示できるのはせいぜい企業ロゴだったが、それでもブランド価値の向上には大いに貢献した。高層ビルが立ち並び夜空が狭い時代においても、夜空に浮かぶ月を見ると、人々はそれが人智を超越した存在であるかのように感じ入るのであった。たとえマクドナルドのロゴでも。

 ただ課題となったのがロゴの向きだった。月は見る地域によって角度が変わるのである。この点がベンツを除くほとんどの広告主に問題視された。

 広告のターゲットとなる国や地域を向ける案が有力だったが、経済のグローバル化により国境がほとんど無意味となっていたため、いちばん人口が密集する地域で正しい角度に見えるように調節することが決まった。

 人口密度の判断には夜間照明の強度が使用された。重水素によって供給される無尽蔵の電力を人類は無節操に使ったため、人のいる都市は常に明るかった。

 その後、月面広告事業は漸進的に自動化が進み、月住民に対しては特殊な訓練による地球帰還事業も進んだ。最後まで月に残ることを選んだ住民たちが老衰による死を迎えると、月はふたたび無人の地となり、機械たちが地上を企業広告で照らし続けた。


 それから100年ほど後、いろいろあって地球文明は崩壊した。

 科学文明は石器時代のレベルにまで後退し、地球から月へのアクセスは完全に失われた。

 月面においてはヘリウム3の採掘と発電、老朽化した部品の交換に至るまですでに自動化されていたため、無人の広告は通常運営を続けていた。

 地球上から広告更新のデータが送信されなくなったため、最後に更新されたスタバのロゴが、永遠に地球に向かってレーザー照射されつづけることとなった。昼となく夜となく、スタバのロゴが地球に向けて射出されつづけた。

 隕石でレーザー塔自体が破壊されるとさすがに再建は行われなかったが、そのような事故は極めて稀であり、400×400本の塔のほとんどは数千年にわたって正常稼働を続けた。

 人類は科学文明を完全に忘却したため、空に浮かんでいる緑色のロゴを「天上の女神スタバ」と呼んでいた。人類の言語は徐々に分化し女神の呼称もストゥバ、サタバ、アスタファ、といった具合に変化していったが、その神秘的な緑色の輝きが、かつて祖先によってつくられた人工物であるとは誰も想像しなかった。


 何千年も経たある晩、シベリアの森林で大規模な山火事があった。

 落雷にともなう自然現象であったが、この火を人工照明と勘違いした月面広告システムが「人口密集地」という判定を出し、スタバのロゴが大きく回転した。長らくロゴが動くのを見なかった人類は大騒ぎになった。

 この奇跡は世代を経て地域から地域に伝わり、幾度かの同様の事件を経たあと、

「強い火を焚けば、女神が自分たちの方を向く」

 という文化が人間たちの間に定着した。ゾロアスター教に似た拝火教が各地で勃興し、中央集権体制を確立し、ピラミッドに匹敵する巨大な竈が建設されていった。

 やがて人々は火では飽き足らず、銅を精練して磨いて鏡としたり、マグネシウムを燃やしたり、天に向けた巨大な灯台を建設したりと、ありとあらゆる手で強力な光を求めた。すべてはスタバのロゴを振り向かせるためであった。

 光学技術を軸にして文明再興を果たした人類には、いつしか科学万能主義が浸透し、もはや女神への信仰心はなく、ただ強力な光への憧れだけが残った。さらなるエネルギー源を求めてヘリウム3を回収しに月に向かうのは、そう遠い未来ではあるまい。


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