数を食べる

 退屈な話の代表格といえば、数学の話と、他人の見た夢の話だ。

 だからこの話は、世界でいちばん退屈な話かもしれない。なにしろ、わたしが見た夢の話で、しかも、数学の話なのだから。


 その日のわたしは高校1年で、4限の小テストがあまりに悪かったので、仲のいい子たちで机を囲んで弁当を食べながら「虚数」に対する不満を語っていたところだった。

 3を2乗すると9になります。では2乗するとマイナス1になる数はなんでしょう。そんなものは存在しない、と言えばいいものを、そのために虚数iを導入しますと言われたあたりでわたしがブチ切れたのだ。

 方程式が何かしら社会の役に立つ、ということはわたしも認める。わからないものをエックスと書いて、それが何なのか突き止める作業は世の中の色々なところで使いそうだ。二次方程式の解の公式がやたら複雑であることも、まあ、ギリギリ許そうと思う。

 でも、答えのない方程式があったから虚数という、という話でいよいよ堪忍袋がキャパ超えた。政治家じゃあるまいしそんな詭弁を見せないでほしい。こちとら未成年じゃ。

 てなことをもう少し身内感のあるテンションで話して、

「政治家かよ」

 とタンカを切ると、女子高特有のテンションでみんなガハハハと笑った。そのときの空気の弛緩をついて、

「ゆっきー、そのサクランボ食べないならちょーだい」

 と、あざやかな手つきで右隣のゆっきーの小さな弁当箱から赤い実をふたつ抜き取って、するっと口に入れた。その頃わたしはバスケ部にいて、他人のボールを奪うことにかけては学年で一番だと思っていた。

「あっ」

 とゆっきーが声をあげた。クラスで一番勉強のできる子だけど、この学力至上主義の進学校でもあまり偉そうにせず、どちらかというと聞き役タイプの子だった。そんな彼女でも大事にとっておいたサクランボを奪われたことにはさすがに怒ったらしく、

「それじゃ、ふーちゃんは数を見たことがあるの?」

 と、その時のゆっきはー、わたしが見たことないくらい怖い目をしていた。


 そんなかんじでお昼に糖分をたっぷり摂ったので、午後いちの英語の授業をまるごと寝てしまった。うちの高校は進学校にありがちな放任主義で「居眠りの生徒は起こさない。置いていかれても自己責任」という教育方針なので、藤井先生のくせのある英語を子守唄に50分たっぷり眠った。

 そして夢を見た。

 ゆっきーとふたりで、放課後の数学室にいた。

 ここから先は夢の話なので、ちょくちょくおかしな描写がある。まずうちの高校に「数学室」なんて部屋はない。理科室があるのに数学室がないのはちょっと不公平な気もするけど、数学室に置くべきなんてものをわたしは聞いたことがない。でも脳のどこかが眠っているせいで、そういうことに「おかしい」とは思わないのだ。

 長机にわたしとゆっきーが向かい合わせに座っていた。よくある数学室の机だった。「よくある数学室の机」なんて誰も見たことないと思うけど、とにかく夢の中のわたしにはそれが「よくある数学室の机」と見えた。

 理科室の机みたいに黒塗りの天板がついているけど、水道やガスバーナーの栓はない。太い4本の足が直接床に固定されていて、引き出しはない。そんな作りだった。職員室の使い古しを回してきたような古いスチール製のキャスター椅子がいくつも並んでいた。

 机の上には白い陶器のお皿があって、その上にはリンゴが3個並んでいた。

「これ何?」

 とわたしが聞くと、

「ふーちゃんと食べようと思って」

 とゆっきーは答えた。手のひらにおさまるくらいの、ちっちゃなリンゴだった。ヨーロッパのリンゴはこのくらいの大きさだと前に読んだ気がする。『はてしない物語』でバスチアンが食べてるようなやつ。

「でも、3個のリンゴをふたりで分けるのって、無理じゃない?」

 とわたしは尋ねた。他に聞くべきことが一杯ある気がするけど、夢の中では疑問に疑問を持てないのだ。

「大丈夫。こうすればいいの」

 ゆっきーは3個のリンゴを両手で包んで、マッサージをするように優しく表面を撫ではじめた。その手付きをじーっと目で追っていると、手の動きに連動して、リンゴがふにゃふにゃのぐずぐずになっていくように見えてくる。目の前で鉛筆を振るとぐにゃぐにゃに曲がって見える現象みたいに。

 すぽん、と気の抜けた音がして、3個のリンゴは「3」と「リンゴ」に分かれた。彼女の両手には「3」が優しく包まれていて、お皿の上にはリンゴだけが残った。

「はい、どうぞ」

 とお皿をわたしのほうに寄せた。あっけにとられているわたしをよそに、ゆっきーは3をむしゃむしゃと食べ始めた。数のないリンゴよりも、わたしはゆっきーの食べている3から目が離せなかった。

 考えてみるとわたしは今まで「3個のリンゴ」とか「3キロの通学路」とか「3連休」は何度も見てきたけど、それは全部モノにくっついた3であり、モノから剥がれた「3」そのものを見るのは初めてだった。

 当たり前だけど数字の「3」や漢字の「三」とは全然違う形をしていて、ゆっきーの食べる動きに合わせてにゅるにゅると動いていた。剥がすところを見てなかったら、それが「3」だとわたしは気づかないだろう。

 怪訝な目で見ているわたしとは対称的に、ゆっきーは暖炉の前で編み物してるみたいな穏やかな顔だった。

「それ、おいしいの?」

 とわたしが聞くと、

「にがい」

 とゆっきーは答えた。

 お皿には数のないリンゴが残っていた。わたしはそれを手にとって、唇をあてて歯をたてた。スーパーで買うものよりも少し硬い。小さい分だけ実が締まっているような気がする。前歯で皮をやぶると、くしゅりと果汁が口の中に飛び出す。酸っぱくて少し甘い。そのまま食べるよりも、ジャムを作るのに向いている気がする。

 わたしはリンゴを噛み続けて、ゆっきーは3を食べ続けた。ふたりの咀嚼音だけが誰もいない数学室に静かに響いた。グラウンドからソフトボール部のかけ声が聞こえてくる。そういえばバスケ部の練習行かなくていいのかな、とちょっと気になったけど、夢なのでそれ以上は気にならなかった。

「ねえ、どうしてこのリンゴ、食べてもなくならないの?」

 しばらくしてわたしは尋ねた。手はもう果汁でベトベトになっている。

「ふーちゃん、何言ってるの。リンゴは食べても減らないでしょ。減るのはリンゴじゃなくて、だから」

 そう言いながらゆっきーはまだ3を食べ続けていた。

「じゃ、その3が2になったりしないの」

「これはもうリンゴの数じゃなくて、ただの3だから」

 と言った。なるほど、たしかにわたしがリンゴを食べたからって、ゆっきーの食べてる3が2になったら気持ち悪い。

「ねえ。それわたしも食べてみたい」

 と言うと、ゆっきーは口から3を離して、わたしをじろりと見た。

「食べかけだよ」

「それでいいよ」

「待って。べつの3を用意するから」

 と言ってゆっきーはきょろきょろと周囲を見回した。それから手に持っていた食べかけの3を口の中に入れて、黒板のほうまで歩いていった。数学室の黒板はあまり使われた形跡がなく、ゆらゆらと黒光りしている。

 粉受けから3本の白チョークを拾って、机の上に直列に並べた。新品なのでまっすぐ並べると長い1本になったように見える。1本なのか3本なのかよく分からないこの並べ方が数を抜き取るにはきっと重要なんだろう、とわたしは感覚的にわかった。

 その状態からゆっきーは、魚から背骨を剥がすように、するっと「3」を取り出した。リンゴの時のような長い前置きはなく、思わず拍手したくなるくらい鮮やかだった。

「はい」

 と、ゆっきーはわたしに3を渡した。

「え、でもこれ、チョークの数でしょ。食べられるの?」

「もうチョークから剥がれたから、リンゴの3と一緒だよ」

 と言いながら、彼女は個数のないチョークを黒板の粉受けに戻した。

 わたしはゆっきーから手渡された3を両手に乗せてしばらく眺めた。はじめて手にするむきだしの3は、それまでわたしが見たどんなものにも似ていなかった。生きたウナギみたいにウネウネしていて、下手に力を入れると手から滑り落ちそうな気がする。

「あんまり持ってると、ふーちゃんの手が3本になるよ」

 というので、わたしはあわてて3に噛み付いた。

 はじめて食べる3は意外と柔らかくて弾力があるけど、なんの味もしなかった。噛み続けたあとのガムみたいな感触だった。期末試験の追い込みで徹夜をした時を思い出した。

「どう、美味しい」

「わかんない」

 と、わたしは口に3を入れながら声を出した。手に持ち続けるのが怖かったからだけど、こうしていると舌が3枚になったりしないのかな、とちょっと不安になった。

「そう。でも、数の味なんてわからない人の方が多いから」

 ゆっきーは冷たい声で言った。なんだかわたしに素質が無いと言われてるような気がした。そりゃ数学の才能がないなんてことはずっと前から知ってるけど。

 しばらく噛み続けると、3は口の中ですーっと溶けるように消えてしまった。飲み込んだのではなく口の中で消えたんだ、という不思議な印象が舌のまわりの残った。

「3って、食べると2になるんじゃないの?」

 とわたしが聞くと、

「ならないよ。3から2を作ろうと思ったら、食べるんじゃなくて、1を抜き取らないと」

「そんなことも出来るの?」

「私は無理」

 誰かはそれができる、というニュアンスだったけど詳しくは聞かなかった。モノから数字が取り出せる人がいるってだけで既に混乱してるのに、ここで数を食べる人たちのコミュニティの話をされたらわたしの精神的キャパを軽くオーバーしそうな気がする。

「ゆっきーは、いつもこうやって3を食べてるの?」

「3じゃない時もあるよ。でも、3がいちばん剥がしやすいの」

「どうして?」

「フィーリング的なものだから説明しづらいけど、たとえば……1個のリンゴから、1を剥がすのが難しいってのは分かるでしょ?」

「いや、全然分かんないよ」

「そう? リンゴの1個って、ほら、リンゴにべったりと貼り付いてて、無理に剥がすと壊れそうな感じがするでしょ。でも、3個のリンゴを並べてじーっと見てると、その真ん中に3の尻尾みたいなのが見えてくるの。化けそこねたタヌキみたいに。それを指でつまんで、引っ張り出せばいいの」

「冠詞の a みたいな話?」

「英語の話じゃないよ。数の話」

「じゃ、4とか5は?」

「5は甘くておいしいよ。3がわからなくても、5は味がするって人多いし。でも、5個のものを用意するのは大変だから」

「さっきのチョークは?」

 と言ってわたしが粉受けを見ると、3本のチョークから個数を抜いてしまっていて、まだ数の残っているのは2本だけだった。

 なぜかその時わたしは「甘くておいしい5」がむしょうに食べたくなって、ペンケースを取り出して中身を机にぶちまけた。シャープペンが1本、3色ボールペンが1本、蛍光ペンが2本、消しゴムが1個。

「全部で5個だ」

「形が違うものが混じってると、難しいよ」

「そうなの?」

「だって、ここに5個のモノがあるって認識しないといけないんだから。これじゃ4本と1個でしょ」

 とゆっきーは言うけど、わたしがどうしてもとお願いしたら、しゃーないなー、という顔で数剥がしをはじめた。

 はたから見ているだけでも、その作業はリンゴの時よりもずっと難儀そうだった。目を細めたり見開いたりして、そこにあるのが4本のペンと1個の消しゴムではなく5である、と自分に言い聞かせようとしていた。

 やがて何かを掴んだのか、蛍光ペンのお腹のあたりをぎゅっとつまんだ。

「あっ」

 ゆっきーが微かに声を出したかと思うと、2本の蛍光ペンから2が剥がれてしまった。蛍光ペンの先が2に引っ張られて少し持ち上がったあと、自重で剥がれてぽとりと机に落ちた。ゆっきーは割り箸に失敗した時みたいな悔しそうな顔をしていた。

 むき出しの2は、わたしがそれまで見たどんなものよりも奇妙だった。それがそこにあるだけで視界全体が雑なコラ画像みたいになって、世界の現実感が少し下がったような気がした。そんなものをこの世界にハダカで置いといちゃダメだろ、という圧迫感があった。

 でも、それよりも気持ちが悪かったのは残った蛍光ペンのほうだった。赤と黄緑の2本の蛍光ペンから2を抜いて出来たのは、赤と黄緑の蛍光ペンだった。3色ボールペンみたいな意味じゃない。そこにあるのは1本のペンですらない赤と黄緑の蛍光ペンだった。

 赤でありながら黄緑でもある蛍光ペンは、見ている間にチラチラと色が変わった。点滅してるんじゃなくて、わたしの認識のほうがチカチカと動いているのだ。ルビンの壺とか、アヒルとウサギの錯視みたいに。見ると気分が悪くなって目をつぶったけど、それでもしばらく頭の中で赤と黄緑のチカチカが消えなかった。

 リンゴやチョークはほとんど区別がつかないから数を抜いても大丈夫だったけど、色違いの蛍光ペンから数を抜くだけでこんなことになるなら、文房具5個から5なんて取り出されたら大変なことになっていたかもしれない。

 と、ここでわたしの非数学的な脳が、ひとつの考えに思い至った。

 ここにはわたしとゆっきーの、つまり2人の生徒がいるわけだけど、もしゆっきーがその手で「2」と「生徒」を分離してしまったら、「2」のほうはともかくとして、残った生徒は何になるんだろう? そういうこともできる人がいるんだろうか?

 なんだか、すごく恐ろしいものができてしまいそうな気がする。


 そこまで考えたところで、5限の終業を告げるチャイムが鳴った。

 目を半分開いてぬーっと顔をあげると、教科書を閉じた藤井先生がじろりとわたしを見たが、進学校特有の放任主義を発動して何も言わずに教室を出ていった。額のあたりに寝跡の圧迫感がある。机の上にはヨダレがついていた。

 ふたつ前の席でゆっきーは普通に座っていて、英語のノートをカバンに仕舞っているところだった。机にはリンゴもなければチョークもないし気持ち悪い蛍光ペンもない。むき出しの数字も置いてない。

 休み時間にゆっきーの席に寄って行って「夢の中にゆっきーが出てきて、リンゴから3を剥がして食べた」という話をしたが、ゆっきーも他の子たちも「はぁ?」という顔をしていた。そりゃそうだ。自分でも話してて意味がわからない。

「でも、ゆっきーって数学超得意だから、本当に数くらい剥がせそうな気がしたんだよ」

 とわたしがムキになって言うと、他の子たちはドッと笑った。ゆっきーも笑いながら、

「私は無理だよ」

 と言っていた。サクランボのことはもう怒っていないみたいだった。

 その後は普通に授業を終えて、バスケ部の練習に行って普段の練習メニューをこなして部内の 5on5 をして回ってきたボールをドリブルしながら、突然ゆっきー(現実)の声を思い出した。

「私は無理だよ」

 って、まるで「自分以外で剥がせる人はいる」みたいな言い方だな。

 急に背中がゾクッとして、持っていたボールを同学年の子にあっさり奪われてしまった。ボーッとしてんなよ試合だと思ってやれ、と先輩にきつめに叱られた。確かにそのとおりだ。普段のわたしなら同学年の子にボールを奪われたりはしないけど、ゆっきーのサクランボを奪った罰だ。


 その後も「歳の数だけ豆を食べる」みたいな話を聞くたびに時に、リンゴから取り出された3を食べるゆっきーの顔を思い出す。

 でも、この話はできるだけ誰にもしない方がいいな、と思っている。

 だいたい、他人の夢の話とか数学の話なんて、面白いわけがないのだ。

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