第五章 二十一世紀(8)

 染料で湿ったベッドの上にバスタオルを数枚敷いて、夏と並んで横たわり、数時間仮眠した。真っ黒い部屋に朝の光が差し込んで、黒いレースカーテンが輝いた。部屋の全景が光の中に浮かび上がり、僕は体を起して頭を掻いた。古代の古墳の中で目覚めたような気分だった。

 シャワーを浴びて服を着替えた。間に合わなかったのか、見落としていたのかは分からないが、夏がクローゼットの中まで真っ黒にしていなかったのは幸運だった。僕は着替えの服をバッグに詰め、夏の手を引いて家を出た。

 会社に母親が急病に罹ってしばらく休む旨の連絡を入れ、僕はトヨタレンタカーに行ってプリウスを借りた。レンタカーが手配されるのを夏と二人で長椅子に座って待つ間、健一に電話をした。

「明日、真中市に来れるか。難しければ明後日でもいい」

 明日の昼なら行けると思う、と健一は言った、〈どうしたんだ?〉

「夏と一緒に今から真中市に向かう。詳しくはそこで話す。大事なことだ」

 分かった、と健一は応えた。

「健一、誠二の居場所はやっぱり分からないよな?」

〈分からない。今どのあたりにいるのかも見当がつかない〉

 僕は天を仰いだ、「本当は、四人全員揃っていたかったんだけど仕方がない。三人で会おう。着いたら電話をくれ。駅まで車で迎えに行く」

 電話を切って車に乗り込むと、僕たちはまずコンビニで買い出しをした。ペットボトルのジュースを数本、おにぎりやパン、そして何よりも大量のスナック菓子を買った。

 僕は手持ちの携帯音楽プレイヤーをダッシュボードのジャックにつないで音楽を再生した。コールドプレイ、カニエ・ウエスト、マルーン5、スフィアン・スティーブンス、アーケード・ファイア、ジョン・メイヤーといった面々の音楽が、ランダムに再生された。

 真っ青な空に太陽が煌々と輝く、完璧なドライブ日和だった。夏は助手席でドンタコスをさくさく食べながら、僕の方をちらちら見ていた。

「裕司、今日は仕事行かなくていいの?」

「今日は行かなくていいんだ。今日は俺が行きたいところに行くから、付き合って欲しい」

 東京から真中市までは西に400キロほどだ。ゆっくり走っても今日中には辿りつくだろう。東名高速に乗ってひたすら西に向かった。僕たちはほとんど会話をしなかった。

 代わりに歌を歌った。僕はカーステレオから流れる音楽に合わせてコールドプレイの「イン・マイ・プレイス」やジョン・メイヤーの「ネオン」を歌った。夏は黙ってそれを聞いていた。

 だが、ニール・ヤングの「ドント・レット・イット・ブリング・ユー・ダウン」のライブ盤が流れ始めたとき、夏も歌い始めた。僕たちは二人でその歌を合唱した。とても古い歌だった。

 


  老人が道端に倒れている

  その脇をトラックたちが通りすぎていく

  青い月が その荷の重みで沈んでいく

  そして空に突き刺さるビル

  冷たい風が夜明けの路地を切り裂いていく

  朝刊が舞い上がり

  死人が道端に横たわり

  彼の目に日の光が射している


  こんなことに挫けちゃいけない

  ただ城が炎上しているだけ

  跳ね返してるやつを見つけるんだ

  そうすれば 君はやっていけるよ



 僕は部分的にしか覚えていなかったが、夏は完璧に歌った。そう言えばニール・ヤングは中学生のころに夏に教えてもらったのだった。僕はその頃はもっと明るい音楽に夢中で、正直言って良さが全く分からずに素通りしてしまっていた。でも今はこの曲の素晴らしさが心から分かった。とても短いこの歌を歌いながら、なんて美しい歌だろうと思った。

 僕は夏に合わせて、僕たちがかつて良く聞いた、90年代より前の音楽を流すことにした。ビリー・ジョエル、スティービー・ワンダー、ボブ・ディラン、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、REOスピードワゴン、ニューオーダー、ディジー・ミズ・リジー、そしてビートルズ。

 僕たちはほとんどの歌を覚えていた。大体二人とも覚えていたが、僕が覚えていない曲は夏が覚えていて、彼女が覚えていない曲は僕が覚えていた。僕たちはひたすら歌い続けた。僕のプレイヤーには一万曲以上の音楽が入っていて、次から次にどこまでも続いて行った。

 しかし、御殿場を通り過ぎたところで僕は全身が眠気に包まれていることに気が付いた。この数日、2、3時間ずつしか眠っていないのだから当然と言えば当然だった。

 少し休憩してもいいかな、と夏に言うと彼女は頷いた。

 パーキングエリアで車を停め、売店の前にあったコカコーラの長椅子に横たわり、頭の下にタオルを敷いた。夏は僕の頭の隣に座った。太陽が高く昇り、周囲の空気は完全な夏と化していたが、日蔭のそこには若干涼しい風が吹いていて、あっという間に僕は眠りに落ちた。意識が消える直前に、夏の手のひらが僕の額にそっと被さるのを感じた。




 内容の思い出せない夢から目覚めると、既に正午を回っていた。寝汗をトイレの水道でぬぐった後、夏と二人で売店に行き、僕は冷やしたぬきうどんを頼み、夏は何も注文しなかった。半分くらい食べたところでどんぶりを彼女に差し出して、少しだけ食べないか尋ねると、夏は間を空けて頷いた。

 夏は割りばしを握ったが、その手は少し震えていた。僕は彼女の隣に中腰に立ち、彼女の手を握って、箸で掬ったうどんを口元までゆっくり持っていった。彼女はうどんを噛み切り、麺の切れ端がどんぶりに落下していって汁が跳ねた。売店には点々としか客はいなかったが、何人かの視線を感じた。だが全く気にならなかった。僕と夏は何十分もかけてゆっくりとうどんを食べた。

 うどんを食べ終わると、僕たちはバニラソフトクリームを二つ注文して外のベンチに並んで座って食べ、再びドライブに戻った。

 相変わらず空は良く晴れていた。絵の具で塗りつぶされたかのように微動だにしない完ぺきな青だった。そして並走する車がほとんどなく、プリウスのエンジンは異様に静かに回転し、行く手に陽炎が揺らめいて、カーステレオからジョニ・ミッチェルの「コヨーテ」が流れ、僕は夢を見ているような気分になった。何もかも、今いる時空が昨日までと同じ世界には全く見えなかった。昨日までの仕事とも、朝までいた部屋の中とも、全てが全く違っていた。僕たちは誰もいない世界で、波風一つない鏡のような広大な湖をどこまでも滑走しているような気分だった

 夏がボタンを押して窓を開けた。ごうごう音を立てて風が車内に吹き込み、空になったスナック菓子の袋が舞いあがった。夏は少しだけ窓の外に顔を出して、目を閉じて風を浴びた。ちらりと見たその横顔は、相変わらず能面だったが気持ち良さそうに見えた。

 途中に少しずつ休憩を挟んだが、夕方まで延々と車を走らせ続けた。このまま走り続ければ、夜になる頃には真中市に辿りつくだろうと考えた。気が付くと、夏は隣の席で僕の方に顔を向けて音もなく眠っていた。僕はカーステレオの音量を下げ、ゆっくりと走り続けた。

 まだもう少しだけこうしていたい、と僕は思った。あと一日、あと数時間でいいからこうしていたい。

 僕は高速を降りて、進路を更に南へ切った。しばらく走るうちに海が見え、海岸沿いを走った。ヨットハーバーを通り過ぎ、民宿や旅館街を抜けるうち、港の桟橋の向こうで太陽が少しずつ傾いて行った。

 僕は海開きしたばかりの遊泳場の駐車場にプリウスを停めた。夏はまだ眠っていた。静かなエンジン音が完全に停止して、物音を立てずにそっと外に出て煙草を吸った。煙が全身に染み込んだ。太陽は間もなく山と森の向こう側に落ちていくところで、海面が薄闇の中で弱い黄金色に染まっていた。僕は目を細めてその光の反射を見つめた。地元の子供たちが数人波打ち際で遊んでいたが、しばらくするうちに散り散りに去っていき、誰もいなくなった。僕は駐車場の端の防波堤に上って腰掛けて、ゆっくりと煙草を吸った。

 物音に気が付いて振り返ると、夏が目を覚まして車の外に立っていた。太陽に今日最後の光を投げかけられながら、彼女は僕の方を見ていて、同じように防波堤を上って隣に座った。

「ここはどこ?」

「俺も正確には分からない。でももうすぐ真中市だよ」

「みんなどこに行ったの?」

 夏は周囲を見回しながらそう言った。

 彼女が言う通り、あたりには人の気配がしなかった。微かに、風の音や、鳥の鳴き声や、遠くから車のエンジン音が聞こえたが、時が止まったような感覚がするほど、僕と夏以外に生きる者の気配がしなかった。

「どこかにいるよ。僕たちが今、どこだか分からないところにいるのと同じだ」

「裕司、煙草のにおいがする」

 嫌いか、と聞こうとすると、夏が顔を寄せてきて僕の口をキスで塞いだ。

 夏はゆっくりと唇を離し、至近距離で僕を見つめた。近すぎて、彼女の目と鼻しか見えなかった。

「二回目だから、今度は私がした」

 夏は小さな声でそう言った。覚えてたのか、と訊くと夏は、覚えてる、と言って頷いた。

 あの時、僕たちは十五歳だった。彼女の家の近くで、僕は彼女の肩を掴んでそっと口付けした。

 あの日、別れる直前に彼女に言いたかった言葉を、僕は思い出した。

 どれほど君のことを大切に想っているか。

 どれほど君の傍にいたいか。

 どれほど君を愛しているか。

 あの時僕はそう言えなかった。

 今なら言える。

 それは同じ言葉の繰り返しではない。新しい言葉だ。言葉は感情と混ざり合って、僕の胸の中にあり、すぐ目の前に見えている。手の中にある本の僅か数ページ先に、奏でられている音楽のほんの数小節先に、その言葉がある。

 僕は夏の手を握り、無表情の顔を見つめた。明日僕たちは真中市に辿り着く。そして再び去る。どこへ行くかはまだ分からない。だがその時、僕は彼女にその言葉を告げるだろう。




 近くの海辺のホテルに泊った翌朝、僕たちは港を散策して歩いた。特に会話はなく、特に目的地もなく、ふらふらと歩いた。桟橋にカモメたちがわらわらと舞い降り、水平線の向こうからゆっくり船が近づいてきた。この港は真中市からせいぜい五、六十キロ程度しか離れていないはずだったが、僕はこういう風景が僕たちの県に存在することを知らなかった。

 僕のポケットで携帯電話が振動した。健一からの電話だった。

〈今から新幹線に乗る。昼過ぎにはそっちに着く〉

 分かった、迎えに行く、と僕は応えた。そして、夏、健一だ、と言って携帯を夏に渡した。夏は携帯を握ってしばらく沈黙していた。

 やがて小さな声で、「もしもし」と夏は言った。

 そして、うん、うん、と何度か頷いた。無表情のままだったが、彼女が健一の声を覚えていて、彼の声に集中していることは分かった。

 何度か、うん、とか、ううんとか言った後で夏は、分かった、と言って電話を切った。

「健一、何て言ってた?」

「何で俺たちが真中市に集まるのか、お前知ってるか、って。知らないって返事した」

「そしたら健一は何て言った?」

「俺も知らないから裕司に訊いてくれ、って。分かった、って答えた」

「そうか、俺言ってなかったんだっけ」

「何しに行くの?」

「何しに行くのか分からないのに、何で健一はすぐに来るし、夏は黙ってついてくるんだろう。ただ俺は、来てくれって言っただけなのに」

「裕司、私たち、これから何をするの?」

「葬式だよ」

「葬式? 誰か死んだの?」

「たくさんの人が死んだ。俺たちが知ってる人も、知らない人もたくさん死んだ」

「誰の葬式をするの?」

「みんなだよ。死んだ全員の葬式だ」

 携帯電話を夏から受け取って、僕たちはホテルに戻った。チェックアウトして再びプリウスに乗り込み、名古屋駅に向かった。

 駐車場に車を停め、近くの喫茶店で時間を潰した後、改札口で健一を待った。

 僕が気が付くよりも早く、最初に夏が手を振った。僕が彼女の視線の方向を辿ると、そこに松葉杖を突いた健一がいた。彼は笑っていて、声に出さずに口を動かした。久しぶり、とその動きが読めた。

 改札を通り抜けてやって来た健一に、僕は、久しぶり、と言った。

「夏、変わってないな」

 健一が夏を見て、笑顔でそう言った。

「健一、足どうしたの?」と夏が訊いた。

「切れたんだよ。でももう大丈夫だ」

 健一をプリウスに乗せ、僕たちは真中市に向かった。後部座席に座った健一は、それで、と言った。

「それで俺たちこれから何をするんだ?」

「お葬式をやるんだって」と夏が言った。

「葬式? 誰の?」

「全員だ」と僕はハンドルを握りながら言った。「最初から今日まで、僕たちの周りで死んだ人、いなくなった人、全員の葬式だ」

 少し準備する必要がある、と僕は言った。僕は真中市に入る前に、ホームセンターや洋服チェーン店やおもちゃ屋に立ち寄って棚を物色した。そして、おそらく他人の目には何の目的でそれらを買うのか、組み合わせが意味不明な様々なものを大量に買い込んで、車に戻った。

 辿りついた真中市は、僕たちが去った十年前と、全く変わっていなかった。僕たちは車の中からその光景を眺めた。

 もちろん、造形が全く変わらないというわけではない。近所の本屋が潰れて薬局になっていたり、水田の幾つかが塗りつぶされて民家になっていたり、ぼろぼろだった市役所は建て替えられていた。アスファルトが補修されたり、ガードレールが新設されたりする一方、一部の道はより荒れ果てたりしていた。

 だがそれらは些細な誤差であり、イメージの変化ではなかった。

「何も変わってないな」と健一が言って、僕は頷いた。

 どこからどう見ても、何の特徴もない、日本中のどこにでもある、普通の街だった。

 そして僕たちはあの場所へ向かった。

 秘密基地があった場所、雨の後ゴミの山になっていた場所、健一と僕が月光仮面を殺した場所だ。

 かつて四人で良く歩いた水田の合間のあぜ道を、プリウスでゆっくりと走っていき、何もない空間にたどり着くと、僕は車を停めた。

 車から降りると、僕は空を見上げた。昨日と同じように完璧な青空が広がっていて、柔らかい風が吹いていた。周囲に広がる水田は背の高い稲で埋め尽くされ、緑の草原と化していた。遠くに民家が広がる風景も、良く見慣れたものだった。背後のしばらく向こうに、無表情な日光川の堤防がある。そして足元の周りを見回すと、十年前と同じ空白だった。

 健一と夏も車を降りて、僕の隣に立った。

 何もない。ススキが点々と茂り、あとは大きさのまばらな砂利が転がっているだけだ。あえて言うならば僕はその空間を昔よりも小さく感じたが、違和感を覚えるほどではなく、全く何も変わっていないと言ってよかった。あたりには誰の姿もなく、それもあの頃と同じだった。

 やろう、と僕は言った。

 僕はプリウスのトランクからホームセンターで買い込んだ大量の物品を下ろした。

 最初に必要なのは木材だった。僕は地面をスコップで掘り、できた穴に自分の腕の半分くらいの太さの木材を一本一本立てていった。あっという間に全身から汗が噴き出した。僕は額を拭いながら木材を隙間なく並べ続けた。

 健一と夏は僕の作業をじっと見つめていた。

 やがて、手前に木材数本分だけ空きのある、小さなロの字型の囲いができた。囲いの中に切り取った段ボールを何枚も敷き詰めた後、僕は立ち並ぶ木材の上に、薄く幅広の四角い木の板を被せ、足元の石ころを幾つか拾ってその上に重しとして載せた。

 我ながらそれは滑稽なほど不格好に見えた。粗雑で、小さく、イメージが弱い。十五年前の自分たちが見たらきっと笑うだろうと思った。

 あのころとは違うけど、と僕は断って二人に言った、「これは俺たちの基地だ。この街で最初に死んだこいつを、葬る。そして、今日の火葬場も務めてもらう」

 僕が二人を見つめると、健一は静かな眼で僕を見返し、夏の顔には感情が無かった。

 僕には、その夏の顔が、さっきまでの単なる無表情ではなく、凍りついているのだと分かった。

 僕は、買い込んだビニール袋や紙袋の中身を、一つ一つ取り出して地面に置きながら言った。

「もう何も残ってない。俺たちは死んだ人の多くの本当の名前も知らない。遺品もない。でも、誰かが俺たちに言った。神様が現世に降りるときには、依り代になる物が必要になるって。この世に存在していないものが存在するようイメージするために、目に見えないものを見ようとするために、何か代わりの物があればその助けになるってことだ。死んだみんなの依り代がここにある。俺が用意した物はみんな偽物かもしれないけど、今日はそれを燃やして葬式にしよう」

「その前に教えてくれ」と健一が言った、「裕司、どうしてなんだ? どうして葬式をするんだ?」

「やってないからだよ」

 僕はそう言って、夏を見つめた。

「夏、お前が言ったんだ。十五年前にお前が言ったんだ。私たちは葬式をしようって。遅くなったけど、今からそれをやろう」

 夏は僕の目を見て、首を横に振った。

 何度も首を横に振った。

「嫌だ」と夏は言った。

「やるんだ」

「嫌だ」

「どうして嫌なんだ?」

「みんな生きてるのに」

 僕は首を横に振った。静かに、何度も首を横に振った。

「みんな死んだ。殺されたり、病気で死んだり、いなくなったりした」

「生きてる」

「死んだんだ。俺の父さんも、健一の母さんも死んだ。悲しいけど、でも大丈夫だ。何とかやっていける。やっていくしかない。どうしてか分かるか?」

「分からない」

「俺たちが生きてるからだ。お前と一緒に生きたいからだ」

「裕司が何言ってるのか分からない」

「俺だって理由は分かんないよ。だけど俺は、お前にだけは絶対に嘘はつかない。子供のころから、お前や、健一や、誠二にだけは、絶対に嘘はつかなかった。俺がお前に嘘ついたことあるか?」

「ない」、と夏は言った。「でも分からない」

「分かってる。俺が悪かったんだ。俺が間違ってた。それだけじゃ駄目だったんだ。俺は大切なことを何も言ってなかった。俺はお前に隠してたことがある。怖かったから言えなかったことがある。

 夏、みんな死んだんだ。でも生きてる人もいる。だから俺たちが葬式をしてやろう」

 夏は僕をじっと見つめた。微かに彼女の眉間にしわが寄った。

 夏はほんの少しだけ頷いた。

 僕は足元からコカコーラの缶を拾い上げた。プルトップを開けて、ひっくり返して一気に飲み干した。口を拭って、夏にその空き缶を渡した。

「空き缶で家を作った、空き缶おじさんの代わりだ」

 そして夏に、木囲いの中にそれを入れるよう促した。夏は両手で空き缶を握って恐る恐る歩き、囲いの隙間に空き缶を差し入れた。

 僕は頷き、次に料理用のおたまを取り上げて、健一に渡した。自宅の前で延々料理を作っていた「料理おばさん」の分だった。健一はおたまを囲いの中に入れた。

 僕は映画「トイストーリー」に出てきたエイリアンのぬいぐるみを夏に渡した。公園で宇宙船を呼び寄せようと毎日祈りをささげていた「エイリアンじいさん」の分だった。夏は巫女のような厳粛さで、それを囲いの中に入れた。

 僕は次々に自分が用意した依り代を夏と健一に渡した。

 ペットボトルのロケットで空を飛ぼうとした「ロケットおじさん」の為の空きのペットボトルを。

 街を一人で毎日行進して平和を訴えていた「軍隊じいさん」の為のドックタグを。

 日光川で毎日河童を探していた「河童おじさん」の為の白い小皿を。

 ドラえもんののび太のコスプレをして歩いていた青年の為の紺色の半ズボンを。

 毎日倉庫の壁に向かってドッジボールをしていた「ドッジボールおじさん」の為のバレーボールを。

 日本中の神社を歩き回って、祝福された鏡を探していた男の為の小さな鏡を。

 いつも一人で教室で音楽を聴いていた、横山の為の黒いイヤホンを。

 そして僕はプラスチックのおもちゃの拳銃二丁を取り上げた。

 月光仮面の依り代だった。

 僕は一つを健一に渡し、もう一つを自分で囲いの中に入れた。

 健一は静かな表情で、僕に続いてそれを差し入れた。

 僕は細い木材と着火剤を取り上げ、囲いの前に屈みこんで、安置された依り代たちの周囲に立て掛けるように木々を組み、着火剤を振りかけた。細く丸めた新聞紙にライターで火を付けて入れた。何本も同じものを作って入れ、やがて光とともに黙々と煙が立ち上り始めた。

 僕は少し後ずさり、夏と健一と並んで、それらが燃え上がるのを見つめた。焚火のような、ささやかで小さな炎だった。

 青い空に向かって黙々と煙が立ち上り、僕たちの額を汗が静かに流れ落ちた。やがて屋根代わりの板が焼け、囲い全体に火が回った。

 青い空と草原のような水田の風景の中に、種々の物品が様々な色の火を上げて燃え上がった。黒や白や緑や青やオレンジや、色がめちゃくちゃに混ざり合って判別することができなかった。今まで嗅いだ事のない、良く分からない匂いがした。

「裕司、夏、俺お前たちに言ってなかったことが二つあるんだ」

 健一が静かな声で言った。

「一つは、俺はこれまで何回か死のうと思ったんだ。

 もう一つは、俺はもうすぐ結婚する」

 健一は僕と夏の方を見て、やがて微笑んだ。

「結婚式をやるつもりだから、二人で来てくれるか?」

 必ず行く、と僕は微笑んで答えた。夏は、分かった、と頷いた。

「綺麗な火だな」と健一が言った。「夏、これは何色なんだ?」

「分からない」

「夏」、と僕は彼女に呼びかけた、「もう黒い絵を描くのやめろ。つまらないから」

 分かった、と夏は言った。

 そして僕たちは無言で炎を見つめた。手を合わせることもなく、目を閉じることもなく、祈りの言葉もなく、ただ三人で並んで炎を見つめた。

 炎が煌々と盛り、屋根が完全に燃え落ち、木の囲いも完全に火に包まれたとき、健一が言った。

「なあ裕司、日光仮面の葬式はやらないのか?」

 健一とともに、夏も僕の方を見た。

 僕は頷いた。そして、無意識のうちに空を見上げた。煙がもくもく立ち上り、空に混ざって消えていくその境目を見て、僕はズボンの後ろポケットから、手帳を取り出した。

 日光仮面の日誌だった。

 僕はそれを両手で持ち、少しだけ俯いた。

「ありがとう」

 僕はそう言った。そしてもう一度空を見上げた後で、視線を篝火まで下ろそうとした時、人影に気が付いた。

 数十メートル向こうの堤防の上に、誰かが立っていた。

 全身白い服の男だった。

 その男がいつからそこにいたのか、僕には分からなかった。たった今現れたのか、ずっとそこにいたのか。僕は目を見開いた。視界を遮るものが何もない青い空の真下に仁王立ちしているその男を食い入るように見つめた。

 彼は少し両足を広げ、両手を腰に当て、僕たちを見下ろしていた。

 彼が背負ったマントが、風にはためいている。

 全身が白い。

 健一も夏も、その男に気が付いた。僕たちが見つめていると、彼はゆっくりと歩き出した。堤防の雑草の生い茂る斜面を確かな足取りで降りて、僕たちの方にまっすぐ向かってきた。

 彼が顔に掛けたサングラスがはっきり見えるまでの距離に近づいたころ、歌声が聞こえてきた。



  どこの誰かは知らないけれど

  誰もがみんな知っている

  日光仮面のおじさんは

  正義の味方よ よいひとよ

  疾風のようにあらわれて

  疾風のように去っていく

  日光仮面は誰でしょう

  日光仮面は誰でしょう



 濃い色のサングラス。頭に巻かれた白いタオル。巨大で素朴な白いガーゼマスク。肌にぴったりと張り付いたタイツ地の白いスーツ。缶詰の空き缶の側面に穴をあけて作ったベルトのバックル。白いカーテンを裁縫したマント。そして軍手。

 歌い終わり、彼は僕らの目の前に立った。

 それは日光仮面だった。

 僕は、開いた口がふさがらなかった。

 彼は背筋をまっすぐ伸ばして、両手を腰に当てて、僕たち三人の顔を順々に眺め、そして僕をまっすぐに見つめてきた。

「繁、久しぶりだな」と日光仮面は言った。

 僕は首を横に振った、「しげるじゃない、中原裕司」

 そして僕は指を日光仮面に向かって指し、何か言おうとした。だがすぐには言葉が出てこなかった。

「何だ、何か言いたいことがあるのか? まさかサタンの爪か。奴が現れたのか」

 僕は首を横に振った、「あんた誰だ?」

「私は日光仮面だ」

 ちょっと待て、と僕は言って、再び首を横に振った。

 あり得ない。

 日光仮面がいるはずがない。目の前にいる男は、どこからどう見ても日光仮面だが、彼がここにいるはずはないのだ。彼が本物の日光仮面のはずはない。目の前の男は、偽者だ。

 僕は僕たちに向かって仁王立ちしている、怪しさの塊のような男をじっと見つめた。サングラスは濃く深く、その中の目を見通すことはできなかった。

 日光仮面はもういない。月光仮面もいない。二人ともいなくなった。

 それなのに、どうしてだろう、と僕は思った。僕には全く分からなかった。この男が偽者なら、どうしてこんなに懐かしいのだろう。

 僕は混乱した。全く訳が分からないのに、胸の震えが止まらなかった。僕は手に持ったままの日誌と、目の前のサングラスの男を何度も見比べた。

 夏が一歩進みでて、男に向かって右手を差し出し、唐突に言った。

「久しぶり、誠二」

 僕と健一は、夏に振り返った。彼女の差し出された手は、まっすぐだった。

 彼女はわずかに微笑んでいるように見えた。

 男は夏の手を取り、首を横に振った。

「お嬢さん、私は誠二という名前ではない。私は日光仮面だ」

 夏は頷いた。彼女は今度こそはっきりと笑った。

「これで四人みんな揃ったね」

 夏は僕たち三人を見回して、笑った。

 僕たちは夏のその笑顔を中心にしばらく突っ立っていた。やがて笑い声が上がった。健一の声だった。彼は表情を崩して笑い、声を上げた。そして日光仮面の肩を叩いた。

 久しぶり、と健一は言った、「久しぶりだな、誠二。会いたかった」

「私の名は誠二ではない、日光仮面だ」と日光仮面はもう一度言った。そして彼は健一が差し出した手を握った。

 そして日光仮面は僕の方に向き直り、手を差し出した。軍手の表面の黄色い滑り止めが、薄く汚れている。僕はもう一度彼の全身を頭からつま先まで眺めた。

 その姿の向こう側に、懐かしい顔が見えた。僕が困った時にいつも助けてくれた、誰よりも頭がよくて、誰よりも信頼していた少年の顔が見えた。

 僕は笑った。僕にも分かった。

 僕の大切な友達。

「久しぶり、誠二」と言って僕は日光仮面の手を握った。

「私の名は誠二ではない、日光仮面だ」と彼は再び言った。

「ここで何をしてるんだ?」と僕は尋ねた。

「もちろん、この街の平和を守っている」

「いつから?」

「長い間ずっと。君たちがいなくなってからずっと私はここにいて戦い続けてきた。そして、これからもずっとだ。真の平和が訪れるその日まで」

「どうして今日ここに、僕たちが来ると分かった?」

 日光仮面は、誠二は、首を横に振った。

「分からないものがあるか。君たちが、正義の味方を呼び求める声が聞こえたからだ」

 僕は頷いた、「ずっと呼んでた」

「困っていることは何だ? 助けてほしいことは何だ?」

 僕は、周囲に生えたススキを四本引きぬき、一本は自分で持ち、他の三本を、夏と、健一と、日光仮面にそれぞれ渡した。

「葬式をしていたんだ。僕たちの周りで死んだ人たちの。それで最後に、それ以外のみんなを弔いたいんだ。僕たち四人で。僕たちが知らない人たち、知らないところで死んでいった人たちを。手伝ってほしい」

「分かった」と日光仮面は言った。

 僕たちは炎を前にして、横一列に四人並んだ。健一、夏、僕、そして日光仮面。

 僕はススキを火の中に投げ入れた。次に健一が、その次に夏が投げ入れ、最後に日光仮面がススキを火にかざした。

 それはあっという間に燃え尽き、煙と灰になって消えて行った。

 僕たち四人は並んで、全ての火が燃え尽きるのを見ていた。囲いが落ち、灰となり、極彩色に煌めいた炎が小さくなり、風が吹いて燃えかすを遠くに運んでいった。

 火の爆ぜる音が消え、あたりは静寂に包まれた。風の音しかしなかった。

 僕たちは一言も声を発しなかった。互いの顔を見ることも無く、長い時間、四人で並んで立っていた。火が燃え尽きた跡をじっと見つめていた。

「終わったようだな」と日光仮面は言った。

 僕は頷いて、終わった、と言った。「お前に渡すものがある」

 僕はポケットに突っこんでいた日誌を再び取り出し、日光仮面に差し出した。

「受け取ってほしい」

「いいのか?」

「お前のものだ」

 そして日光仮面は日誌を受け取り、ベルトの間に挟んだ。

「みんな、もう行くのか?」と日光仮面が訊いた。

 僕は頷いた、「健一は今の自分の街に戻る。僕は」

 僕は夏を見た。夏は僕の手をそっと握った。

「僕は夏と一緒に行く」

 分かった、と日光仮面は言った。

「誠二はこれからどうする?」

「言っただろう。いつまでもこの街の平和を守り続ける」

「必ずまた会おう。四人で」

 日光仮面は頷いた。

 約束だよ、と夏が言った。日光仮面は再び頷いた。

「正義の味方は約束を破らない」




 燃え尽きた灰をかき集めて日光川に流して捨て、僕たちは別れた。あぜ道をプリウスで引き返しながら、夏は窓の外に顔を出して遠ざかっていく日光仮面に手を振り続けた。日光仮面は、去っていく僕たちをずっと仁王立ちで見つめていた。彼の姿が小さくなり、やがて水田の向こうに消えて行った。

 ターミナル駅に辿り着くと、健一を下ろし、改札口の前で、結婚式には必ず行くともう一度約束した。

「夏、裕司を頼む」と健一は言った。

 分かった、と夏は言った。

 何でいつも夏に俺を頼むんだよ、と僕は笑って尋ねた。

 健一は首を横に振った。

「ありがとう裕司。もう一度俺たちを会わせてくれて、ありがとう」

 健一は改札をくぐり、何度か振り返りながら、大阪方面のホームに向かって杖を突いて歩いて行った。僕と夏は、健一の姿が完全に見えなくなるまで手を振った。見えなくなっても、しばらくその場に立ちつくしていた。

 やがて夏の手を取って歩き出し、僕たちは車に乗って再び長いドライブを始めた。走るうち、太陽が沈み、夕闇が空を覆い、完全な夜がやってきた。

 真中市に向かって走っていた時と同じように、カーステレオからは小さなボリュームで音楽が流れていた。懐かしい古い歌だった。

「裕司、新しい歌が聴きたい」

「どんな歌がいい?」

「新しくて、聴いたことがない歌なら何でもいい」と夏は言った。「教えてくれる?」

 分かった、と僕は答えた。

 自分の胸の中に響いている音に耳を澄ました。様々な音楽が混ざり合う中、やがて音は一つの楽曲を指し示した。僕はプレイヤーを操作して、再生ボタンを押した。



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真中市から遠く離れて 松本周 @chumatsu11

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