第五章 二十一世紀(7)

 翌朝、顔を洗ってスーツに着替え、寝ぼけ眼の夏に部屋のスペアキーを渡し、行ってきますと言ってアパートを出た。行ってらっしゃい、と夏に見送られると、角を曲がったところで僕はポケットから携帯電話を取り出した。

 健一に電話するためだった。コール音が5回鳴ったところで彼は電話に出た。

 短い挨拶の後、夏が見つかった、と僕はすぐに言った。

 本当か、と健一は言い、沈黙し、深く息をついた、〈良かったな〉

 ああ、と僕は答えた。「昨日の真夜中、俺のアパートの玄関前に座ってた」

〈お前の家に?〉

「東京のあの人たちに頼んだんだ」と僕は言って、簡単にこの半年してきたことを説明した、「そのお陰としか思えない」

〈間違いなくそうだよ。やっぱりそうだった。お前なら絶対に夏を見つけるだろうと思った。夏は元気か?〉

「まだ良く分からない。昨日はほとんど話ができなかった。ただ、昔と全く顔は変わってない。全部あの頃のままだ。

 いや違う。それだけじゃない。

 普通に話をしたんだ。俺がおやすみ、って言ったら、あいつがおやすみなさいって応えた。物凄く自然だった」

〈夏は今どうしてるんだ?〉

「今日は俺が帰ってくるのを待つって言っていた。今は顔でも洗ってると思うけど、俺が戻るまでどうするつもりかは分からない。仕事があるようには見えなかったから、どこかで適当に時間を潰すんだろうが、ふらっと出て行って、そのまま戻らないとも限らない。分からないんだ」

〈いいや、それは無い。だって夏はお前に会いに来て、お前を待つって言ったんだろ。ならそんなことあり得ない〉

 僕は頷いて、俺もきっとそうだと思う、と言った、「でも不安なんだ。保証なんか何もない。あいつ、少なくとも何日かは俺の家に泊るつもりでいるらしいけど、何のためにそうするのかがまだ分からない。やっぱり変なんだよ。俺とあいつがいきなり普通に話をするなんて変なんだよ。もっと話をしなくちゃならない」

〈裕司、分かってると思うけど、じっくりやれよ。焦ることなんか何もない〉

 そうしてみるつもりだ、と僕は言った、「結局、会って話したかっただけだ。ゆっくり話す」

〈とにかく良かった。あいつが、無事で生活ができていたみたいで良かったよ。それが一番重要だっただろ?〉

 ああ、と僕は言った、「健一、夏に会いに来いよ」

 健一は、少し沈黙した後で答えた。

〈あいつが俺に会いたいと言ったときにそうする〉

「会いたいに決まってるだろ」

〈あいつがそんなに余裕があるかどうかまだ分からないだろ。仕事で毎日子供たちを相手にしていると分かる。話し合う時には一対一が良い〉

 その通りかもしれなかった。僕は近いうちに彼が東京に来るか、僕たち二人がそちらに行くかどちらかにすることを約束して、電話を切った。

 午前中の仕事の効率は恐ろしく悪かった。会社のデスクで冊子やダイレクトメールの見積りを作りながら、僕は夏のことを考えていた。あの人たちの誰かが夏を僕の家に導いたのは間違いなく、それは夏がまだあの人たちの一員であることの紛れもない証拠だと思った。そうでなければ彼らの声が彼女に届いたはずがない。昨日の彼女の声は透き通っていた。悩みとか疲れとか、僕や健一にはこの十年間で染み付いてしまったものを一切感じ取ることができなかった。僕はそれをどうこうしたいと思うのだろうか。分からなかったが、健一に言った通り、とにかく彼女と話がしたかった。話すことは無数にあるはずだった。これまで何をしてきたのか。今何をして生活しているのか。今も絵を描いているのか。だとしたらそれはどんな絵か。あの夜に戻って、今日までの全てを辿り、僕の方も自分の話をしなければならないとしたら、全てを話しつくすには何日かかるか分からない。それは美しくまとまった一冊の書物になどなりようがない。僕が日々工場から送りだす、新聞に折り込まれて関東一円に散らばっていくチラシのように、夥しい量のページがあちこちに分断され、どこから拾い集めたらいいのか分からない。

 昼が近づく頃、のろのろ働いているわけにはいかないことに気が付いて、僕は思考を停止した。そして集中して仕事に取り掛かった。少しでも早く仕事を終わらせて、少しでも長い時間を夏と過ごさなくてはならない。誰かを待たせる、というのは自分に馴染まない感覚だった。仕事でも生活でも、誰かや何かを待つのはいつも自分の方だった。




 夜の十一時過ぎにアパートに帰ると、夏は昨日宣言した通り、僕を待っていた。リビングの小さなテーブルの前の小さな座布団に座り、ポテトチップスを齧りながらテレビを観ていた。そのニュース番組はイギリスのグラスゴー国際空港で起きたテロの続報を伝えていた。

 ただいま、と僕が言うと、おかえりなさい、と夏は答えた。

 僕はテーブルの上に散乱した、カールやおっとっと等のスナック菓子の空き袋を眺めた後で、背後のキッチンに振りかえった。ガスコンロが使われた様子は無かった。ジャケットを脱いでネクタイをはずしてハンガーにかけ、冷蔵庫のペットボトルから麦茶をグラスに注いで、夏の隣に腰を下ろした。

 裕司、お風呂借りたよ、と夏は言った。僕は頷いた。

 夏と二人でポテトチップスを齧りながらテレビを観て、夕飯は食べたのかと僕は尋ねた。今食べてる、と夏は答えた。僕は再び頷いた。

 しばらく無言でテレビを見つめた後で、僕は立ち上がり、シャワーを浴びた。バスルームから出てきても、夏はさっきと全く変わらない姿勢で黙々とポテトチップスを食べ続けていた。テレビの音のボリュームは小さく、彼女の咀嚼音が微かに聞こえた。

 僕はゆっくり息を吸い込んで、呟くように夏に声を掛けた。

「今日はどうしてたんだ?」

「散歩して、テレビ見てた」

「退屈だっただろ?」

 夏は首を横に振った。

「裕司のことを考えてたから退屈じゃなかった」

「俺の、どんな事を考えてたんだ?」

 夏はポテトチップスの油が付いた指先を舐めながら、僕の方を見た。

「裕司、映画が好きだったよね」

「ああ」

「今も好き?」

 僕は夏の目を見返した。僕はこの数年、特に就職して働き始めてから、ほとんど映画を観ていなかった。小説もあまり読んでいなかった。ただ大量の音楽を通勤電車の中で聴いていただけで、具体的な物語は体の中に一つも刻まれていなかった。

 だが僕は、今も好きだよ、と言った。

「どうして好きなの?」

 僕は少し考えた。

「正直だからだ。それに、正直以上のものがあるからだ」

「正直なものが好きなの?」

 僕は頷いた。

「どうして?」

「どうしてなのかな。ずっと昔からそうだった。正直でいることが美しいと思ってたし、憧れていた」

「裕司は正直じゃないの?」

「分からない。昔はそうだと思った時もあったけど、今は何が正直なのか分からなくなったな」

 僕がそう答えると、夏は僕の目を見つめながら、ポテトチップスをさくさくと前歯で噛んだ。

「私も」と夏は言った。

 夏のポテトチップスが空になった。彼女は指先を舐め、僕はボックスティッシュを彼女に渡した。夏はそれで指先と口の周りを拭いて、僕に返した。

 沈黙が部屋の中を包んだ。ボリュームの絞られたテレビから微かな笑い声が聞こえた。

「散歩しよ」、と夏が言った。

 僕は頷いた。

 サンダル履きでアパートの外に出ると、近くに雨の気配がした。夜のうちか明日にはひとしきり降りつけるに違いないと僕は思った。

 僕と夏は点々と街灯が立ち並ぶ住宅街の静かな通りを並んで歩いた。無言だった。

 僕はポケットから取り出した煙草に火を点けた。暗い夜の空に向かって煙を吐き出すと、夏が僕の横顔をじっと見つめていた。

「物凄く白い部屋だね」

 俺の部屋のこと? と僕が訊くと、夏はそうだと言った。

「ずっとあの部屋に住んでるの?」

 僕は頷いた、「東京に出てきてから三年間は、そうだ」

「私が裕司のことを探してたの知ってた?」

 僕は夏の顔を見返した。

 表情からは、何も読み取れなかった。夏の表情には、昨日から今に至るまで、一瞬たりとも全く変化がなかった。

 僕は素直に彼女に訊くことにした。

「いつから?」

「ずっと前から。東京で裕司のことをずっと探してた。知ってた?」

 僕は首を横に振った、「ごめん、知らなかった」

「凄く長い時間が掛かったけど、やっと見つかった。話したいことがあって」

「何を?」

「忘れた」と夏は言って首を横に振った、「時間が掛かり過ぎて忘れた」

「思い出せる?」

「分からない」

 通りがかった煙草屋の前の灰皿に煙草を捨て、僕はポケットに手を突っ込んだ。

 それから僕たちはまた無言になった。ひたすらまっすぐ歩き続けた。時折見かける道路標識で、自分たちが大体どのあたりにいるのかは分かったが、どれくらいの時間歩き続けていて今何時なのかは、あっという間に分からなくなった。

 やがて雨が降り始めた。弱い、静かな雨だった。僕は失敗したと思った。傘を持ってこなかったのはともかく、合成レザーのサンダルと足の裏の間に雨が入り込んでずるずると滑るようになったのだ。

「帰ろう」

 そう僕が言うと、夏は頷いた。

 頷いたのに、彼女はどんどんまっすぐ歩き続けた。サンダルを引きずるように歩く僕よりもペースを上げて、僕と彼女の距離は少しずつ広がっていった。僕は歩く速度を何とか少しでも上げようとしたが、彼女はそれよりも少しだけ更に加速した。

 夏、と僕は声を掛けた。

 彼女は振り向かずに足早に歩き続けた。

 あたりはほとんど音の無い雨に包まれている。やがて夏は走りだした。彼女はどんどん遠ざかっていき、その半身を、道を走る車のハイビームが照らした。その部分だけが燃えるように眩しく煌めいた。

 僕は、夏、と大声で呼んだが、彼女は一切減速しなかった。跳ねるように走り続けた。

 僕はサンダルを脱いで片手に抱え、裸足で全速力で走った。十歩も走らないうちにアスファルトの破片か何かが足の裏に突き刺さったが、気にせず走り続けた。僕は彼女の背中を、視線だけで引き寄せられるほど思い切り睨みつけて、ぐいぐい彼女に近付いて行った。静かな雨の中で、前を走る彼女の激しい呼吸が聞こえるような気がした。僕はその息を吸い込んで引っ張るように意識して走った。

 目の前に夏の右耳が見えたとき、僕はもう一度彼女の名前を呼び、右腕を思い切りつかんで引き寄せた。僕は止まり、夏は走り続けようとしていたので、踏ん張った足が地面に擦れた。彼女の体はぐるりと回転し僕に衝突して止まった。受け止めようとして、右手に持ったサンダルが地面に落ちた。

 夏と正面から向かい合って、僕は彼女の両肩を掴んでいた。彼女も僕も荒い息をついていた。僕は少し身を屈めて夏の顔を覗き込んだ。濡れた髪の下の彼女の表情は、呼吸が乱れている以外には、走り始める前と全く変わらなかった。

「走るの速いね」と夏は言った。

「毎日物凄く歩いてるから」と僕は言って頷いた。

「今何時?」

「分からない」

 僕はそう答えた。時間どころか場所も分からなかった。僕はあたりを見回したが、全く見覚えのない住宅街だった。家の明りは全て消えている。

 僕は夏の肩から手を離し、代わりに左手を握りしめた。そして落ちたサンダルを拾い上げ、裸足のまま、もと来た道を引き返して歩き始めた。

 夏は黙って付いて来た。

 僕は何も言わなかった。彼女の手を引いてまっすぐ歩き続けた。雨の音だけが静かに僕たちを取り囲んでいた。

 握りしめた僕と夏の手は互いの体温で熱くなっていった。彼女はずっと僕の方を見上げていて、僕はその目を正視することができなかった。雨が止むことなく静かな一定のペースで降り続けていて、僕は裸足のまま歩き続けた。一歩足を踏み出すごとにぴりぴり痛んだが、僕は歩調を変えなかった。

 アパートに着いた時には午前三時になっていた。あと四時間後には起きなければならない。僕と夏の全身は水浸しだった。シャワーを浴びるかと僕は夏に尋ねたが、彼女は首を横に振った。僕と夏はバスタオルで体を拭いた。

 頭をごしごしバスタオルで拭いている隙間から、目の前で夏がシャツを脱ごうとしているのが見えた。僕は彼女から背を向けた。彼女が着替え終わり、ベッドに入る音がするまで、僕は背を向けて、被ったバスタオルで頭を掻き続けた。

 汚れて擦り切れた足の裏を拭い、濡れたTシャツを洗濯機に放り込み、新しいシャツとハーフパンツに着替えると、僕は明りを消して、ベッドの横に敷いた布団に潜り込んだ。

「裕司」

 夏が呼んだ。寝転がっている僕からは、ベッドの上の彼女の顔は見えなかった。

 どうしたのかと訊く前に、夏の体がもぞもぞと動き、彼女の左手がベッドの縁から垂れ下がって床に触れた。

「手を握って」

 僕は差し出された手をそっと握った。彼女はベッドの端ぎりぎりまで身を寄せていたので、今度はその表情が見えた。夏は暗闇の中で僕の目をじっと見つめていた。僕は、夏の手を握ったまま起き上がり、彼女の腕をベッドの上に置き直させた。

「その姿勢じゃ肩が痛いだろ。寝るまでこうしてるから」

 夏は首を横に振った。

「眠ってもこうしていて」

 僕は頷いて、分かった、と言った。夏は微かに頷いて目を閉じた。

 しばらく彼女の閉じた瞼を見つめた後、夏の手を握ったまま、彼女に背を向けてベッドにもたれかかり、俯いた。外でまだ雨が降っているはずだが、何の音も聞こえない。彼女の手の温かさと、ひりひりと痛んで熱を放つ足と、体の先端にある二つの異なる感覚の真ん中で、僕は眠りに落ちた。




 翌朝、シャワーを浴び、昨日と別のスーツを着て、昨日と同じように夏に行ってきます、と言って家を出た。夏はまだほとんど眠っていたが、僕の方は、四時間も眠っていない割には頭ははっきりしていた。痛みのせいだ。裸足で無茶をしたお陰で足がかなり痛んだが、奇妙な姿勢で眠ったせいで右肩と首筋も痛んでいた。職場になど向かわずマッサージに行きたいところだった。

 それでも僕はいつもと同じように資料を作り、メールを返信し、営業に出かけた。働きながら、しまったと僕は考えた。今日は深夜に印刷物の入稿があり、帰りは相当遅れることになっていたが、それを夏に伝えるのを忘れていたのだ。家に置き電話は無いし、夏は携帯電話を持っていない。仕事の合間で時間を見つけて、一度家に帰って伝えられないか画策したが、そんな間合いはどこにも存在しなかった。新規の依頼や急な予定の変更が、昼食を食べる暇も僕に与えないほど連続で押し寄せて、それらにつつがなく対処していくだけで精いっぱいだった。

 あっという間に夜になり、入稿用の完成チラシのデータの上がりを、受け取り先のデザイン事務所の待合室で煙草を吸いながら待った。予想した通り、データの進行は順調に遅れていた。待つことは常に僕に課せられた最重要の任務であるので、普段であれば何とも思わなかったが、二十三時半を過ぎた腕時計を見て僕は焦れていた。

 待ちながら、僕はこの二日間のことを考えていた。

 何故僕は喋らないのだろうか、と考えた。話したいことは山ほどあるはずなのに、僕はこの二日間、具体的なことをほとんど何も話していない。彼女の顔を見て、彼女の言葉に反応する、ただそれだけだ。僕は今更怯えているのだろうか。僕が何かを話すことで、彼女の中の何かが砕け、それとも僕と彼女の間の何かが壊れ、彼女が去ったりするとでも思っているのだろうか。もしくは僕は、何を話したらいいのかまだ分からないのだろうか。散らばったページのどれを拾い上げて読み始めるか、自分では決められないのだろうか。

 五本目の煙草を吸い終わったところでデータが完成した。デザイナーからデータを受け取り、原稿の色味その他諸々のデータ上の注意点を確認して、タクシーに乗って工場に直接向かった。残っていたスタッフにデータとともに差し入れの栄養ドリンクを渡して、データチェックに入ってもらった。僕の方は赤のボールペンを握って、出力見本を広げ、改めて頭から最後まで文字校正する。デザイナーとクライアントが何度もチェックしてきた結果の完成物であるから誤りはないはずだったが、日付や値段の表記間違いは決まっていつかどこかで発生する。正解の情報源が僕の手元にあるわけでもないから、全てのチェックが僕に可能なわけでもなく、またもし間違いがあったとしても僕の責任ではない。僕の責任は、預かったデータの通りに印刷物を仕上げることだけだ。だが僕は他の営業と同じように、必ずこの確認作業をした。必要だからだというよりも、そうしなければ僕の仕事はただの伝書鳩と同じことだったからだ。

 全ての確認が終わった時には午前二時を過ぎていた。僕は体を伸ばして深呼吸して工場を出た。朝からほとんどまともに食事を取っていないことに気が付き、近所のコンビニでおにぎりとチキンとペットボトルのジュースを買い、タクシーに乗った。運転手に、臭って申し訳ないんですが飯を食っていいですか、と断ってチキンを頬張った。

 タクシーを降りて、アパートの自室を見上げた。明かりは消えている。足音を立てないようにアパートの玄関前まで歩いて行き、鍵穴に静かにキーを差し込んで、ゆっくりとドアノブを回した。微かな摩擦音を立ててドアが開いて行き、僕は外の暗闇から中の暗闇に足を滑りこませ、自分にも聞こえないような小さな声で、ただいま、と言った。

「おかえりなさい」

 暗闇の向こうからいきなりその声が聞こえて、僕の全身は反射的にびくりと大きく震え、靴を脱ぎかけだった中途半端な姿勢が崩れ落ちそうになった。

 僕は顔を上げて正面を見た。真っ暗でほとんど全く見えないが、リビングに続くドアの前の狭い廊下に、夏のシルエットが微かに揺れるのを感じた。

 完全に不意を突かれた。

「起きてたのか?」

 僕がそう尋ねても、夏は無言だった。頷いたのかもしれないが、僕にはその動きは全く見えなかった。僕は手探りで玄関の明かりのスイッチを探して押した。

 ソケットが明滅した後で、白熱灯が点灯した。玄関と、そこから繋がる小さなキッチンと、直立して僕の正面に立っている夏の姿が照らし出された。

 ただいま、と僕がもう一度言うと、おかえりなさい、と夏ももう一度言った。

「起きてると思わなかった。遅くなってごめん」

 夏は首を横に振った、「大丈夫」

「明かりが消えてるから寝てると思った。眠くなかったのか?」

「裕司、何でこんなに遅かったの?」

「ごめん、言い忘れちゃったんだけど、今日は遅い時間に仕事が入ることが決まってたんだ。夏に言っておけばよかった」

「帰って来ないかと思った」

「帰ってくるよ。どれだけ遅くても。できるだけ徹夜はしない主義だ」

「明日は?」

「明日はもっと早いと思う。8時とか9時とかには帰って来れると思う」

 僕は玄関から上がり、夏の隣を通りすぎてリビングに向かった。すれ違う時、夏の手や腕が塗料のようなもので黒く汚れているのが見えた。

 だからどこかに二人で食事にでも行こうか、そう言いながらリビングへの戸を開け、明かりを点けた瞬間、僕の言葉は断ち切られた。

 最初に僕に感じられたのは臭いだった。ペンキのような、乾き切らない塗料の猛烈な臭いだ。玄関のドアを開けた瞬間から微かに感じてはいたが、暗闇の中の夏に驚かされている間にそれを咀嚼する暇がなかった。だが、どちらにしてもその嗅覚の刺激もすぐに掻き消された。蛍光灯が点灯しきったところで、僕は目の前に広がる光景に完全に絶句した。

 そこは僕の部屋ではなかった。

 少なくとも、僕の部屋の色をしていなかった。

 もともと殺風景な部屋ではあったが、視界にほとんど暗闇しか映らないので、空き巣でも入ったのかと反射的に思った。もしくは蛍光灯が故障しているのかと思った。

 しかしそうではない。明かりは既に点いている。一面、何か濃く黒いものが塗りつけられた蛍光管が、暗い弱弱しい光で部屋を照らしている。

 僕は視線を下ろした。その瞬間、部屋全体の形が歪んだように見えた。そしてたった一つの色が、僕の目に向かって殺到した。

 それは黒だった。

 それ以外には何も無かった。

 僕の部屋が、何もかも真っ黒に染まっていた。

 隅から隅まで、壁中、天井、カーテン、カーペット、テーブル、ベッド、全てだ。見渡す限り何もかもが、黒いペンキや絵の具で真っ黒く塗りつぶされていた。

 僕の頭から、言葉が吹き飛んだ。

 代わりに暗闇と黒だけが体の中を駆け巡り、僕は目を見開いた。

 今朝見た部屋の面影は一片も残っていなかった。全体が濡れていて、深海の底のようだった。一様に全てが黒いのでどこに何があるのかよく分からない。それに蛍光灯の管にペンキが塗られて明かりが弱いせいで、部屋の奥行きも分かりにくい。だが、目を凝らすと、そこにあるのは確かに、僕が買い集め、僕が洗濯したり掃除したりし続けてきたものが置かれた僕の部屋だった。ただ全ての色が消えてしまっただけだった。ベッドの布団やシーツは染料のようなもので染められきちんとベッドメイクされている。本棚もそこに収まった本の背表紙も、全て黒くベタ塗りされ、全ての題名と著者名は消え、ただの壁にしか見えない。ステレオやテレビまで真っ黒に塗られている。もともと黒いテレビの液晶まで全面ペンキが塗りたくられている。良く見ると、テーブルの上に置かれたリモコンまで真っ黒になっていた。

 僕は目を細めた。何かを見つけようとしていたが、何を探しているのか自分でも分からなかった。僕は思い出したように鼻と口を手で押さえ、凄まじい臭いを一度に吸い込んでしまわないよう、ゆっくりと呼吸した。

 振り返ると、玄関前の廊下は夏のものと思しき黒い足跡で点々と黒に染まっていた。バスルームのドアを開けると塗料の缶が転がっていて、バスタブは墨汁のような真っ黒い液体で一杯になっていた。

 僕はしばらく立ち尽くした後、部屋の中に足を踏み出した。床を埋め尽くす半乾きのペンキが靴下を引っ張った。テーブルの上のテレビのリモコンを取り上げて、電源を入れようとしたが、ペンキで固まっていてスイッチが動かなかった。

 僕はもう一度振り返り、夏を見た。彼女は昨日と全く変わらない無表情で僕を見返していた。

 僕たちは無言で見つめあった。僕は何度か呼吸して、夏と、洞窟の奥底のような暗黒に包まれた部屋とを見比べた。

 何かを話さなくてはならないと思ったが、言葉がすぐには出てこなかった。

 やがて僕は、なんだ、これ、と独り言のように呟いた。

 夏は何も反応しなかった。それで僕は、夏に向かって真っ直ぐ訊かなくてはならないのだと理解した。

「夏がやったんだよな?」

 夏は首を傾げた、「やった、って何?」

「この、全部真っ黒にしたのは、夏がやったんだよな?」

 夏は頷いた。

「どうして?」と僕は訊いた。

「白かったから」

「白かったって何が?」

「部屋が白かった」

「部屋が白いと黒にしなきゃいけないのか?」

 夏は頷いた、「白かったから、黒にしようと思って」

 僕は真っ黒く染まった部屋と、その入り口で佇んだままの夏を交互に何度も見返した。

 僕はまだ手に仕事カバンと、ペンキが塗りたくられたリモコンを持っていた。カバンから手を離してその場に下ろすと、微かにべちゃっという音がした。べたべたするリモコンをテーブルの上に置くと、僕の手のひらに塗料が移っていた。

「気に入った?」

 夏は相変わらずの無表情でそう言った。

 僕と夏の間の黒い空間を、塗料の強烈な臭いが微かに風となって通り過ぎた。

 僕も夏も、そのほんの少しの空気の流れの中で、突っ立って何も言わなかった。代わりに僕はその臭いを深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

 ひどい臭いだった。

 夏は僕の顔をじっと見返していた。彼女とまっすぐ見つめ合っていると、僕の唇の両端が吊り上がり、微かに息が漏れた。初めはゆっくりと、口と鼻から断続的に息が漏れるだけだったが、次第に、声に出して、くっくっと笑った。

「もう駄目だ」と僕は笑いながら言った。

 僕は笑いだした。口を大きく開け、目を細め、顎を上げた。体の中で笑いが爆発し、あっという間に僕の全身を覆い尽くした。僕は声を上げて、身をよじらせ、思い切り笑った。次から次に腹の底から津波のような笑いが押し寄せてきて、止まらなかった。やがて立っていられなくなり、僕は真っ黒に染まったベッドに腰掛けて笑った。座るとベッドはまだ湿っていて、じゅわっと音がした。それもまた僕の笑いを助長した。僕は湿ったベッドの感触を何度も手のひらで確かめ、スーツの生地を通り抜けて尻にしみこむ冷たい染料の感触を味わって、爆発的に笑い続けた。真っ黒い部屋の真ん中で僕の笑い声が響き渡った。

 僕が笑っていると、夏が隣にやってきてベッドに腰掛けた。僕は彼女の顔を見つめ、手を握って笑い続けた。彼女の手は真っ黒に染まっていて、それを見ていると更に笑いがこみあげてきた。しかし何より傑作なのは彼女の完璧な無表情だった。この無表情のまま今日一日黙々と僕の部屋を真っ黒に塗りつぶし続けていたのだと思うと、腹筋が攣ってしまいそうだった。

 笑いで窒息しそうになりながら、僕は言った。

「気に入るわけないだろ。俺、これから、こんなホラー映画みたいな部屋で、どうやって生活して行ったらいいんだよ」

 そう言って、僕は呼吸困難になりながらまた笑い続けた。もし暮らしていけても、このアパートを引き払う時に大家に殺されるだろう、そう思うとまた笑いが止まらなくなった。

 人生でこんなに笑ったのは初めてのことだった。やがて笑いすぎて僕は激しくせき込み、体を折り曲げてごほごほと酸素を求めた。

 夏が僕の肩と背中を撫でた。

「大丈夫?」

 僕は首を横に振った、「大丈夫じゃない。大丈夫なわけないだろ。お前なんてことしてくれたんだよ。想像もしてないよこんなこと。夜中の2時過ぎまで働いて、疲れきって、やっと家に帰って来れたと思ったらこんな大惨事になってて大丈夫なわけないだろ」

「怒った?」

 僕は首を横に振った。

「怒ってない。怒ってたら笑えないだろ」

「どうして笑うの?」

「分かったからだよ。明日の朝、すぐに行こう」

「どこに?」

 僕は夏の手を強く握った。僕の中に直感が生まれていた。何年も、ひょっとしたら生まれてから一度も、出会ったことのない感覚だった。それは強く激しく、僕の背中を押していた。

「真中市だよ。俺たちの街に帰ろう。俺たちはあそこでやることがある」

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