第五章 二十一世紀(6)

 僕は夏の実家を後にすると、健一に電話した。夏はいなかった、東京にいるらしい、だけどそれ以上はどこにいるのか見当もつかない。

〈分かった。俺は教員の知り合いのつてを辿って、美術関係であいつに関わった人間がいないか探してみる〉

「頼む」

〈裕司はどうするんだ?〉

 僕は天を仰いだ、「正直、何の当ても予測もない。今の夏が行きそうなところなんて、全く想像がつかない」

〈どうする。興信所にでも問い合わせるか?〉

 そうだな、と僕は呟いた。そしてそのまま押し黙った。空を見上げたまま、ポケットから煙草を取り出して火を点けると、煙は吐き出した傍から金沢の灰色の空に溶けていった。

「仕方がないから東京中を歩いて探してみる」

〈だけど東京の人口は俺たちの町のざっと200倍だぞ〉

 俺たちの町、と僕は健一の言葉の一部を呟き返した、「あの時もあいつを見つけるのは大変だった。もう二度と会えないかと思った。でも必ずもう一度会える気もした。今も、あの時と同じ感覚がする」

 分かった、また連絡する、と言って、健一は電話を切った。

 新幹線で東京に戻ると、僕は健一に言った通り、東京中を歩いて回りはじめた。東から西に、地図を塗りつぶしていくように一区画ずつをくまなく歩いた。家々の合間をしらみつぶしに歩きまわり、軒先や路地の隙間やマンションの上階に目を凝らした。同じような風景が続き過ぎるのに疲れると、僕は人通りの多い場所に出て行った。浅草寺の周囲や、上野動物園やその周りの美術館界隈、秋葉原の電気街や銀座のブティックの前、新橋や品川の駅前の改札前の雑踏に何時間も立ち尽くしたり、皇居の堀を一周したり、浜離宮や新宿御苑のような公園を散策し、渋谷や原宿や池袋の街を通り抜けて自分とは一回り世代の離れてしまった大量の少女たちとすれ違い、西へ西へと進んで行った。だがそうしながら、人が大量に集まるそうした場所に夏がいる気はしなかった。彼女はどこでもない場所にいるような気がした。僕は東京の街を行ったり戻ったり立ち止まったり通り抜けたりし続けた。

 誰もが足早に通り過ぎて行き、彼女に似た人間さえ見つからなかった。僕は彼女の顔をはっきり覚えていた。少なくとも覚えていると信じていた。僕が追っていたのは夏の顔の造形と言うよりも、彼女のイメージだった。そのイメージは僕の中で点滅していた。ぼやけたり、背景に溶けて消えたり、そして時々眩しいほど燃えあがった。そんな時は、どこにも彼女の姿が見えないのに、すぐ傍に夏の存在を感じた。彼女が生きていて、歩いたり絵を描いたりしている姿が、他のどの現実よりもリアルに感じられた。僕の胸は焼けるように痛み、その度に歩く速度を上げたり煙草の煙を深く吸い込んだりして、その熱を冷まさなくてはならなかった。

 仕事を休んだまま毎日東京中を歩いて回り、やがて年末の時期になった。東京の街から人の数が減る。僕は母親に電話をして、今年の正月は帰れないと話をした。

 いいのよと母は言った、「少し元気になったみたいね」

 そうかな、と僕は応えた。元気になったわけではなく、ただ必死なだけだ。

 父の四十九日に合わせて帰る約束をして、僕はまた歩き続けた。

 大晦日がやってきて、正月になり、何も変わらず歩き続けていると、まるでそうしていることが宗教的な儀式のように思えてきた。お遍路や百観音巡礼やハッジのように。まるでそうすることが、今はまだこの世に存在しない、僕のイメージの中だけにある夏を、どこでもない場所から召喚する儀式のように感じられたのだ。これが良い傾向なのか悪い傾向なのか、僕には分からなかった。そもそも無意味で無駄で非効率極まりない、論理性とかけ離れた捜索だったのを、自分の精神が無理やり正当化させようとしていただけかもしれない。健一がすぐ僕に提案したとおり、普通に考えれば探偵か何かを雇った方が遥かに効率が良いに決まっていた。だがそうしたくなかったのだ。夏がそうされたがっているとも思えなかった。相変わらず僕は矛盾していた。彼女を心の底から見つけたいと思っているのに、そうするための最も正しい行動ができないのだ。僕は、いつまでもこうしていることはできないとも思ったし、自分は彼女が見つかるまで永久にこうしているような気もした。

 だが僕の思いがどうあれ、正月休みの時期が終わると、僕は二者択一を迫られた。未だ会社という組織の一員であるからには、これ以上仕事を休み続けることはできなかったのだ。迷った末、僕は会社に復帰した。このまま仕事を辞めることも真剣に考えた。この数年で使い道のない貯金はどんどん増えて行き、数か月くらいならばふらふらと東京の街を歩き続けていられる余裕はあったからだ。しかし結局そうしなかった。理由は幾つかあったが、結局重要だったのはたった一つで、それは、いつか夏に会った時、自分は「お前の為に仕事を辞めた」とは絶対に言えないと思ったからだ。自分の選択が正しいのかどうか分からなかったが、どんなにつまらないものであれ、生活は続いて行かなくてはならないと思った。僕は再び激務の海に飲み込まれていった。そして、毎日夜一時間、適当に選んだ都内の駅で途中下車して街を歩いてから家に帰った。仕事が休みの土日は、一日中歩き続けた。あっという間に僕はくたくたに疲れ切っていったが、止めようとは一度も思わなかった。

 健一とは何度か電話で話し、互いに何の進捗も無いのを確認し合った。容易な捜索ではないことも、諦めずに探し続けるしかないのも二人とも最初から分かっていたので、そのやり取りはいつも航空管制の通信のように直接的で簡潔だった。

 彼女の気配が近づいたようにも遠ざかったようにも感じられない土曜日の昼、荒川区と台東区の境をふらふらと歩いているとき、僕は橋の上ですれ違った男に声を掛けた。

 反射的だった。自分で気が付いた時にはもう彼に話しかけていた。

「すみません。訊きたいことがあるんですが」

 彼は僕の方に振り向いた。おさげ髪がその勢いで振り回されて、セーラー服を身に纏った彼の肩に引っ掛かって止まった。彼の履いたスカートからは青白い足が伸び、足元はルーズソックスにローファーだった。彼は僕の方をまじまじ見つめ返していた。その顔には白いものの交じった濃い髭が生え、分厚いレンズがはまったピンクのフレームの眼鏡は今にも鼻からずり落ちそうな重みを感じさせた。

 真冬にミニスカートのセーラー服を着て街を闊歩する中年の男。

 どこからどう見ても「あの人たち」だった。懐かしいと思うよりも早く、僕の過去の習慣が体を突き動かした。

「わたし?」

 中年男の甲高いファルセットが僕の耳を突いた。僕は頷いた。そしてたぶん、微笑んでいたと思う。

 あの人たちに会うのが何年ぶりのことか、咄嗟には思い出せなかった。きっと僕はこれまで既に東京の街の中でも、何人かのあの人たちにはすれ違っていたのだと思う。しかし僕の観察眼と直感は昔よりも衰え、あまりにも人の数が多すぎたせいで、ほとんどの場合、単なる狂人とあの人たちとの違いを見分けることができなくなってしまっていたのだ。

 しかし目の前にいる男は、間違いなかった。本物だった。観れば分かる。

「そうです。ちょっと訊きたいことがあるんです」

「ふうん、なにかしら?」

 男は僕に対して半身になって、おさげを指で撥ね上げ、膝をくねらせる気持ち悪いしなを作った。僕は苦笑いしながら、懐かしさで胸がいっぱいになった。これまで一度も会ったことが無いこの男のことを、僕はずっと昔から知っていると感じた。あなたは何も変わっていませんね、そう声を掛けそうになった。

「女の子を探してるんです」

「女の子? 私のこと? やだあお兄さん。わたしそんな安い女じゃないわよ」

「いや、そうじゃなくて、僕の知り合いを探してるんです」

「お兄さんの知り合い?」と、男は露骨に不機嫌そうな声と表情で訊き返した。

「そうです。友達です」

「嘘おっしゃい、惚れてんでしょう。その面見りゃわかるわ」

 僕は笑った。

「彼女はよく絵を描いていたんです。ちょうどこんな橋の下で、河川敷で川を見つめながらずっと、一日中絵を描いていた。朝も昼も晩も、少しぐらいなら雨の日も。だから絵はぐしゃぐしゃだった。たぶん、今もそうしているんじゃないかと思う。そうじゃなければそれに近いことをしているんじゃないかと思うんです。名前は上村夏。僕と同じ二十五歳です。もう十年も会っていないので、今どんな顔をしているのか分からないけど、最後に会った時は、少年と少女の中間みたいな顔で、眉毛が太くて、頬が真っ白で、相手を貫くようにも包みこむようにも見える目をしてた」

 僕が伝えられることは漠然としていた。普通ならほとんど何の役にも立たない情報だ。だが、あの人たちに別のあの人たちの情報を伝える場合なら、そうとは限らない。

「要するに美人ね」

 僕は頷いた、「ほんの少しでいいんです。何か知っていることはありませんか?」

 セーラー服男は、首を横に振った。

「見かけないわ。お兄さんが惚れるような女は」

「見かけたら、教えてくれますか?」

「いいわよ」

「そしてあいつに会えたら伝えて欲しいんです。上村夏に、中原裕司がお前を探していたって。会いに行けって。あなたの言うことなら聞くかもしれないから」

 僕は自分の名前と連絡先を書いたメモを男に渡した。

 いいわよ、と男はメモを受け取った。「それじゃあ手始めに私とそこのサ店でお茶でもしない?」

 僕は、いま急いでいるので、と言って断り、手を振って男から立ち去った。男の罵声が背中に届くのが聞こえたが無視して歩き続けた。




 僕はその日から、夏と同時に、あの人たちを探して東京を歩くことになった。

 かつてと違い、あの人たちはひっそりと暮らしている。それにこの街はあまりにも人の数が多いので、僕は意識を集中しなければ彼らを見つけられない。

 彼らがその生態において独立した個人として生きており、ほとんどの場合ネットワークを形成していないことは、過去の経験で知っていた。あの人たちの人伝いに、僕が夏を探していることが知られて行き、情報が自動的に収集されるという期待はほぼない。しかし同時に、僕は彼らにはテリトリーがあることも知っていた。彼らの行動範囲は限られているが、その代わり自分の領域内に足を踏み入れる者のことを驚くほど熟知している。自分のテリトリーの中に別のあの人たちが存在すれば、彼らがそれを察知しないはずがない。つまり、多くのあの人たちに会えば会うほど、僕は夏の捜索範囲を広げることができ、東京の街を塗りつぶしていくことになる。

 その結果、数多くとはいかないが、僕は何人かのあの人たちに出会った。出会ってしまえば、それまで遭遇しなかったことが不思議に思えるほど、彼らははっきりとあの人たちだった。

 飯田橋で出会った、上から下まで真っ白い服をきた中年の女。頭には宇宙飛行士が被るようなヘルメットの上にショールを掛けていた。彼女は東京中に有害なガスや電波が立ち込めていて、白い衣服だけがそれを跳ね返すことができると信じていた。僕は夏のことを彼女に尋ねつつ、そんなに危ないなら何故東京から出ていかないのかと訊いた。すると彼女は、近所に旨い蕎麦屋があって、三日に一度はそれを食べないと生きていけない、と答えた。僕は納得して、夏に出会ったら、彼女に僕に連絡するよう伝えてほしいと頼んで別れた。

 門前仲町で出会った、念仏を唱え続ける男。彼は延々と言語にならない唸り声のような念仏を唱えながら、手に持った撥で木魚の代わりに自分の頭をたたき続けていた。木魚は所詮架空の存在を無理やり形象化した代替物に過ぎず、そんなものを幾ら殴ったところで煩悩からは解放されない。煩悩を抱えているのは我々自身の頭である。したがって撥で叩くべきなのは我々の頭である。それが彼の理屈だった。もし論理的にそれが正しかったとしても、人通りの多い街角でそれを実践する人はほとんどいないだろうと思ったので、僕は感心した。僕が夏という名の女を探していることを相談すると、彼は、それは煩悩だと言った、「執着すればロクなことが無いぞ。特に女については。忘れた方がいい」。でもどうしても会って話したいことがある、と僕が食い下がると、しばらく逡巡した末に彼は一緒に夏を探すことを約束してくれた。「君は若いのにまるで現世に未練を残した幽霊のようだ。迷える衆生の救いに手を貸すのは、仏の道を行く者の務め」、と言って、うーえーむーらーなーつー、と唱える念仏に彼女の名前を混ぜながら歩き去っていった。

 そして僕は中野坂上で、手に空のギターを抱えた格好で演奏を続ける男に出会った。金色に染まった髪が四方八方に突き出し、全身レザー製の服を装備して、異様に紐穴の多い編み上げブーツをはき、足元にギターアンプを立て、コードを体に巻き付け、激しい動作でリフを弾いている、ように見えるが、手にはギターが無い。眼を閉じて眉間にしわを寄せて、ヘッドバンギングしながら大きく口を開いたり閉じたりしているが、ただ動いているだけで一切声を発してはいない。そのため当然、何の音もそこには存在しない。彼に声を掛けるのは若干の勇気を要した。僕に対して微笑みながら見返した彼の瞳はらんらんと輝いていて、一見薬を極めているとしか思えなかった。だが僕は知っている、それはただ彼らの脳内麻薬の分泌量が異常なだけだ。僕が、上村夏という女を探している、と伝えると、彼は声を発さず口だけ大きく動かし、う、え、む、ら、な、つ、と復誦した。知っているか、と僕が訊くと、し、ら、な、い、とまた口だけ動かした。僕は夏の特徴を伝え、もし会えたら中原裕司が探していたと伝えてほしいと頼んだ。彼は、わ、か、っ、た、と口だけ動かし、また空の演奏とヘッドバンギングに戻っていった。良く見るとその空の口の動きは、う、え、む、ら、な、つ、という形に動いていた。彼は僕が立ち去って、振り返ってもまだ、何度も何度もひたすらそれだけ歌い続けていた。

 3月の頭ごろには、目黒の川沿いでウサギとカメを連れて散歩する女に出会った。ウサギには首輪を、カメには胴体にひもを巻き付けて、しかし彼女は川沿いでじっと立ちつくしていた。右手に持ったリードの先のウサギはどんどん進んで行こうとするのだが、もう一方のカメは一歩も動こうとせず、それどころか頭さえ見せず殻の中に閉じこもっていて、彼女はその中間でどちらにも行けずにウサギとカメと川の流れを順々に見つめていた。3月の東京はまだ冬のままで、カメは凍えていて動けないのだ。全く動かないので、ひょっとして死んでいるのではないかとも思った。僕が彼女に声を掛けると、彼女は心の底から困り果てたという顔で僕を見返して、申し訳ありません、この通りゼルダちゃんは今調子が悪いのです、と言った、「うちのゼルダちゃんは引っ込み思案なもので」。そう言う間にも、ウサギの方は彼女の持ったリードをぐいぐい引っ張っていた。別に僕はカメに用があるわけではなかったが、凍えて動けないんじゃないでしょうか、と言った。「どうすればいいのでしょう?」と彼女がすがるような眼で僕に訊ねた。仕方がないので僕は近くのコンビニに行って、右手に持った紙コップにポットのお湯を入れ、左手の紙コップにトイレの水を入れ、女のもとに戻ってくると、二つを同時にカメの背中に注いだ。数十秒のち、ゆっくりとカメの手足と頭が甲羅から這い出てきた。僕と女は拍手した。ありがとうございます、どうお礼を差し上げればよいか、と女が言うので、僕は、上村夏という女に出会ったら中原裕司が探していたと伝えてくれと頼んだ。

 そして僕はJR神田駅の下で、見えない電車を運転する男に出会った。がたんごとん、がたんごとん、と唱えながら、空を握った両手を前方に突き出して、肩を揺らして山手線の下を歩いていく。彼自身が知っていたかどうか分からないが、それはまるで黒澤明の映画の1シーンを切り取ったような光景で、僕は強烈な既視感に襲われた。がたんごとん、の合間に、次はーあきはばらーあきはばらー、とやたら低い声の車内アナウンスが混ざる。僕が声を掛けると、この列車は緊急停車いたします、と彼は低い声で言い、立ち止まった、「こちらはJR東日本お問い合わせセンターです。ご用件をどうぞ」。僕は要件を言った、「上村夏という女を探しているので、見つかったら教えてください」。そして僕は夏の特徴と、自分の連絡先を伝えた。男は、「お忘れ物ですね。センターに届けられましたらご連絡いたします。届けられたお忘れ物は、システムに登録されるまでに時間がかかることから、ご案内にお時間をいただくことがございますのでご了承ください。またのご利用、お待ちしております」と言って、発車します、と宣言し、またがたんごとんがたんごとん、と唱えながら秋葉原方面に歩き去っていった。

 彼らは僕を懐かしい気持ちにさせ、僕の生活に昔のリズムを差し込んだ。まだ何者でもなく、何にでも変身することができたころの自分が、久しぶりに僕の頭の中に現れた。それはごく小さな姿だったが、確かに僕の日々の暮らしの中に居座って僕とともに生きるようになった。小さくて弱く、今にも消えてしまいそうなイメージだ。それは新しく出会ったあの人たちに対するイメージでもあった。僕の目には、新しいあの人たちは、かつて真中市で出会った人たちよりもおとなしく、精神においても行動においても狭い場所にとどまっているように見えた。どうしてもそうしたくてこうしていると言うよりは、どこにも行くところが無く、何もやることがないのでそうしているようにも見えた。それは僕の思い込みかもしれない。変わったのは僕の方で、彼ら自身はあの頃と何も変わっていないのかもしれない。しかしどちらにしても止むを得ないと思った。一番重要なのは生き残っていくことで、そのために彼らは彼らのやり方を続けている。その点においては僕も彼らも変わりがない。

 これらの出会いに意味があったのかどうか僕には分からなかった。僕が目論んだとおりに、彼らが僕の願いを真剣に聞き入れ、本当に夏のことを気に留めてくれようとしたのかどうか、僕には全く確信が持てなかった。僕の言葉は馬耳東風、彼らの頭を通り過ぎてすぐに忘れ去られてしまったとしても、全く不思議ではなかった。と言うよりも、僕が知っているあの人たちならば、間違いなくそうだったろう。彼らは他人に興味を持たない。自分のやるべきことにしか意識が無く、他人の言葉は基本的に届かないのだ。だから僕は自分がしていることに期待をしていなかった。彼らと話し、彼らと別れてしまえば、この願い事は演奏の終わった音楽のように空中に溶けて消えてしまうだろうと思った。

 だが僕は同時に、彼らはきっと僕の言葉を覚えていてくれるだろうとも思った。ほとんど忘れてしまっても、ほんの少しだけ、それこそ街角で聞いた音楽のように、意識の片隅に残るだろうと思った。

 音楽は、再会した時にその本領を発揮する。一度聞いただけの音楽が、時間が経ってもう一度出会ったとき、心の奥深くに突き刺さる。初めて聞いたときは何とも思わなかった曲が、改めて目の前に現れたとき、過去の記憶と結びつき、映画のように鮮明に動き出す。その無意識の瞬間は誰も避けることができない。彼らが夏とすれ違えば、彼らは必ず僕の言葉を思い出し、彼女がその女だと理解するだろう。

 僕は日光仮面のことを思い出していた。彼は僕の願い事をいつも必ず聞いてくれた。僕はずっと、それは彼が僕に興味があったからではなく、彼がヒーローだったからだと思っていた。ヒーローは下々の戯言に耳を傾け、どんな小さな悩み事でも、それが目前で助けを求めている者であれば、手を差し伸べる義務があるからだ。しかし、それだけではないと僕は思うようになった。日光仮面にとって僕は特別な存在だった。僕にとって彼がそうだったように。僕にとって彼が真中市の象徴であったように、彼にとっては僕が、救うべき無辜の市井の民の代表者だった。誠二の説によれば、日光仮面は家族を病で失っていたが、僕は彼の子供の代わりであり、未来を託す者だった。僕はもう一度日光仮面に会いたかった。彼に、夏を探して欲しいと頼みたかった。でももちろんそうすることはできない。かつて日光仮面が僕の願いを何でも聞いてくれたように、今度は僕が誰かの願いを聞かなくてはならないのだ。




 冬が終わり、短い春が終わり、季節は夏になっていった。夏を探し始めてから半年以上が経ち、就職してから既にまる三年以上が経過し、僕は二十六歳になった。健一と電話で何度か情報を交換し合ったが、お互いの捜索には進展のないままだった。

 僕は同じ会社で仕事を続けていたが、同期は既に半分以上辞めていた。特に女は、もともとの数も少なかったが、全員辞めた。単純に仕事がきつくて辞めた数人と、後の全員は結婚して退職した。七月の終わりに、その最後の一人の結婚祝い兼送別会が六本木で催され、僕も参加した。

 彼女は会の最後に、ありがとうと言って泣いた。そして全員と握手した。僕も彼女と握手して、おめでとう、お幸せに、と言って微笑んだ。

 全員で彼女を駅まで送り届け、何人かはそのまま帰り、残りの男たちはラーメンを食いに行こう、と誘いあった。律儀な同僚が僕も誘ってくれたが、僕は、少し歩いて帰る、と言って、一人で六本木の街を歩いた。乃木坂を通り、外苑前の方に向かった。

 いつもの習慣の通りに、一人の女とあの人たちを探して、あたりをゆっくりと見回しながら街を歩いた。六本木の一帯では僕と同じような年恰好の仕事帰りの連中と次から次にすれ違ったが、トンネルをくぐって乃木坂方面に向かえばそこには誰もいなかった。僕のすぐ傍を車が断続的に通り過ぎていく音だけがトンネルの壁の間に響いた。

 青山通りで通りかかったバーの軒先から音楽が聞こえてきた。ギターのイントロが特徴的な曲で、僕はかつてその音楽を聴いたことがあった。それはラーズの「ゼア・シー・ゴーズ」だった。

「彼女がやってくる。また彼女がやってくる。僕の頭を駆け巡る。僕には抑えられない。残されたその感覚を」

 そんな歌詞の歌だった。美しい歌だ。僕は乾いた唇に、歌詞を乗せて微かに動かした。僅かに体内に含んだアルコール分は、ほぼ完全に蒸発していた。

 終電ぎりぎり、地下鉄銀座線から電車を乗り継いでアパートに帰った。ほかの乗客とともに電車を降り、交差点を渡って歩いて行くうちに、人通りはあっという間に消え去る。家々の明りはほとんど消えていて、風も全く吹いていないので、自分の足音しか聞こえなかった。僕は十年前の真冬の夜、月光仮面のもとに向かって歩いて行った時のことを思い出していた。この時に限らず一人で歩く静かな夜はいつも、あの芯から凍りついた、何もかもが静止した夜のことを思い出した。その情景は僕の頭の中に一枚の絵となって掲げられ、目の前に差し出されている。あたりがどんなに暗かろうと、その絵は必ずそれよりもさらに暗い。僕はその絵に向かって歩いて行くのだった。

 安アパートの外階段を上りきって、廊下に出たところで、僕の部屋のドアの前に誰かがうずくまるように座っているのが見えた。僕は立ち尽くして、そのシルエットを見つめた。街灯も月明かりも遠く、その場所はほとんど完全に影に包まれていて、彼女は半分以上溶けて消えてしまっているように見えた。

 夏だった。

 何故彼女だと分かったのか、自分でも分からない。だが、どんなにあたりが暗くても僕には一目で分かった。

 彼女は少し俯いていて、身じろぎ一つしなかった。眠っているのかもしれない、と僕は思った。そうでなければ僕の足音が聞こえたはずだったからだ。僕はゆっくりと彼女の方に歩いていき、その隣に屈みこんだ。瞼を閉じた彼女の横顔がはっきりと見え、僕は、夏、と声を掛けた。「俺だよ、裕司だ」。

 彼女は貼りついた瞼を引き剥がすように目を開き、顔を上げ、ぱちぱちと瞬きした。そして僕の方に顔を向けた。

 彼女の顔はあの時のままだった。あまりにも何も変わっていなかった。微かな月明かりを反射させてほんの僅かに輝く彼女の眼は、僕の眼を貫くようにも包みこむようにも見えた。

 瞬間的に、時間が十年前に戻った。僕はまだ十五歳で、彼女も十五歳で、僕と彼女が手を振って別れたあの瞬間に全てが戻ったような感覚がした。

「遅いんだね」と夏は言った、「ずいぶん待ったよ」

 僕は頷いて、ごめん、と言った、「会社の送別会があって。結婚して辞める同僚がいたんだ」

「お尻がすごく痛い」

「どれくらい待った?」

「分からない。長いこと」

 僕は気が付いた。彼女に会うのは十年ぶりのことだったが、彼女の声を聞くのはそれよりさらに久しぶりの、あの大雨の夜以来のことだと。あの時の彼女の声は不安げだった。良くないことが起こるのを知っている声、そこから自分たちが逃げられないのを知っている声だった。目の前にいる夏の声からは、日常の響きしかしなかった。

「家に入ろう」

 僕は夏の腕をつかんで立ち上がらせてから、ドアノブに鍵を差し込んだ。

 狭い玄関の目の前に狭いキッチンがあり、狭い廊下を通り抜けてドアを開けると十畳程度の部屋がある、シンプルなワンルームの僕のアパートは、客人を歓待できるようなホスピタリティに欠けた空間だった。ソファもなければクッションもなく、腰を落ち着ける設備としてはベッド以外には安っぽく小さなテーブルと小さい座布団が一つあるだけだ。

 部屋の明りをつけ、夏にその座布団に座るように促し、何か飲むか、と聞いた。冷たいお茶が飲みたい、と夏は答えた。

 冷蔵庫の中から麦茶が入ったペットボトルを取り出し、二つのグラスに注いでテーブルに戻り、一つを夏に差し出した。僕はすぐ隣のベッドのふちに腰掛けて、グラスの中身を一気に飲み干した。ひどく喉が渇いていたのは僕の方だった。

 夏は上から麦茶の表面を覗き込んでじっとしていた。

「腹減ってる?」

 僕がそう聞くと、夏は首を横に振った。そして肩に下げていたボストンバッグからかっぱえびせんを取り出して、さくさくと食べた。夏はそれを僕にも差し出したので、受け取って僕もさくさくと食べた。

 見れば見るほど彼女は昔と変わっていなかった。勿論体の線は完全な大人の女に成長しているのだが、あの頃から太りも痩せもせず、彼女が十年前に保持していた彼女の要素は全て残っているように見えた。それは正確に言えば、東京の街を彼女を探して歩きながら頭に浮かんだ彼女のイメージそのものだった。実際には彼女は変わったのかもしれない。しかし僕にはそれが全く分からなかった。

「裕司、東京に住んでたんだね」

 僕は頷いた、「三年前から。大学を卒業して働き始めてから住むようになった」

「仕事は上手く行ってる?」

「忙しいけど、何とかやってる」

「明日も仕事?」

「ああ」

「じゃあもう寝なきゃね」

「その前に、シャワーを浴びるよ。夏はどうする? 先に使ってもいいよ」

「裕司の後でいい」

 僕は頷いて、バスルームに向かった。シャワーの温水を頭から被りながら、自分の頭の中から言葉が消えていることに気が付いた。彼女と何を話せばいいのか全く分からなかった。それも当然で、僕は過去、夏と話すときに、何を話すべきか考えたことなど一度もなかったのだ。夏がこのアパートに泊るつもりであることだけは分かっていた。終電はとっくに終わっている。彼女が持っていたボストンバッグ。着替えやら何やらが詰めこまれているに違いないボリュームだった。それに、もし彼女が帰るつもりだったとしても、僕はそうさせなかっただろう。たったひとつその意志だけは自分の心の中に読み取ることができた。だがそれ以外は全く思考が前進しなかった。

 僕が出てくるのとほとんど入れ替わりに、夏はバスルームに入っていった。短い髪を乾かしながら、僕はベッドの端に腰かけて麦茶をゆっくりと飲んだ。

 扉の向こうのバスルームで夏がシャワーを浴びている。そう自分の頭の中で言い聞かせ、その情景を思い浮かべるのだが、僕の心は完全に凪いでいた。美しい肌に水滴が弾けて、僕と同じシャンプーで彼女が髪を洗っている。リアルに想像できるのだが、それはただ美しいだけだった。まるで美術館の壁に掛かった絵のようだった。僕はじっと頭の中のその絵を見つめて彼女が出てくるのを待った。

 彼女はTシャツに柔らかい生地の綿パンを履いた姿で現れ、僕にドライヤーはあるかと訊いた。小さなスタンド鏡とともにドライヤーを渡すと、彼女は座布団の上で胡坐をかいて髪を乾かした。

 僕は手持無沙汰になり、買ったはいいが生活の中で全く出番のない液晶テレビの電源を入れた。スポーツニュースをやっていて、中日が巨人に逆転で負けていた。外国人選手の3ランホームランだった。

 髪を乾かし終わり、簡単に化粧水をつけた後、夏が僕の方に向き直った。

「裕司、今夜泊めてくれる?」

「ああ」

「明日も泊めてくれる?」

 僕は頷いた。

「明日何時に帰ってくる?」

「分からないけど、たぶん夜の十二時前くらいかな」

「そんなに遅く?」

「いつも忙しくて、どうしてもそれくらいになる」

「そんなに働いてたら、疲れてるでしょ?」

 僕は首を横に振った。

 少しだけ、感情が波打った。

「大丈夫だ。夏は明日どうする? 俺が帰ってくるまで」

「待ってる」

 僕は頷いた。「分かった。今日は寝よう」

 僕は夏をベッドに寝かせ、自分はクローゼットから替えの敷布団とタオルケットを引っ張り出して寝転がった。目覚ましをセットして明りを消して、おやすみ、と言うと、おやすみなさい、と夏は応えた。

 まもなく彼女の安らかな寝息が聞こえてきたが、僕は眠れなかった。静かに体を起こし、ベッドに横たわる夏の顔を見つめた。彼女は僕の方を向いて半身になって眠っていた。カーテンの隙間から漏れる微かな月明かりの中で彼女の輪郭が見えたが、かつて何度か見た彼女の寝顔と全く同じだった。

 僕は自分の胸に手を当てた。鼓動が静かに僕の体を打っていた。

 しばらくそうした後で横たわり、眼を閉じると、彼女のイメージが瞼の裏に浮かんだ。それは点滅せず、燃えることも消えることもなく、実体と影の中間の姿で、僕の頭と瞳の真ん中で漂っていた。

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