第五章 二十一世紀(5)

 翌日会うべく、健一と約束した場所は、真中市から西に数百キロ、かつて、ちょうど僕が、左右に引かれた直線の西端に設定した都市にあった。僕は始発に乗ってその街に向かったが、僕がいた場所が幾分「直線」から離れ過ぎていたためずいぶん時間がかかり、着いたのは昼前だった。

 健一が指定した場所は、中央通りから路地を二つ三つ曲がった先にある喫茶店だった。看板に潔く「珈琲」と書かれているだけの、蔦が這った古臭い面構えの店で、客は僕たち以外には老人が三人いるだけだった。彼らは見るからに、一杯のコーヒーだけで一日中粘り続けて毎日この店に常駐している風情だった。そして彼ら以外に新規でやってくる客はきっと数人といまい。

 健一は窓際のテーブル席にいた。彼が座っている隣には松葉杖が立てかけられていた。

「この店何年前から営業してるんだ?」

「俺たちの倍くらいの年齢じゃないかな。家から近いんで、楽なんだ」

 健一はそう答えた。そして微笑んで、久しぶり、と言った。

 僕も同じように微笑み返して、久しぶり、と言った。そして左手で軽く握手をした。僕たちは二人ともブレンドコーヒーを注文した。

「裕司、変わってないな」

「いや、自分ではすごく変わったと思う。ほとんど残ってないけど、昔の写真を見ても自分の顔みたいに見えないんだ」

「変わってないよ。すぐにお前だって分かった」

「健一の方が変わってないよ。全然十年前と変わらない」

 それは少しだけ嘘だった。確かに彼の顔形は以前と変わりなく、僕は雑踏の中でも彼を見分けることができただろう。しかし、目の前の彼は以前の彼とは明らかに別人だった。それが単純な十年という時間の経過によるものか、特殊な何かをくぐりぬけたためにそうなったのか、僕には分からなかった。

 精悍だった健一の顔は、形は変わらずとも、影が差し、疲れがあった。昔、僕と健一が並んで立った時、二人はまるででこぼこに見えた。彼は大きく、僕は小さかった。背丈はそこまで変わらない。彼が分厚い体にはち切れそうなエネルギーを抱えていたからそう見えたのだ。だが今、僕たちが並んで立っていたら、まるで兄弟のように見えるのではないだろうか。

「いや、俺は全然別人になったよ。お前なら見て分かる通り。分かるよな? ずいぶん長いこと、夜眠れないんだ」

「どうして?」

「どうしてかが分かればあまり苦労はない。とにかく眠れないんだ。特にこの数年がひどい」

「薬とか飲んでも駄目なのか?」

「薬を飲んでもあまり効かない。大体、薬で眠るのはいい解決策じゃない。結局本当の睡眠とは少し違う別の場所に押し込まれているだけだから、疲れに対して借金しているようなものだ。どっちみち後で跳ね返ってくる」

「何があった?」

「何かはいつもあるよ。お前だってそうだろう。原因はいつも一つじゃない。いつもいろんなことが同時に起こってる」

 僕は頷いた。コーヒーが運ばれてきて、僕たちの間にその芳香が漂った。窓の外から犬の鳴き声が聞こえてきた。健一と僕はコーヒーをすすりながらその不機嫌そうな声に耳を傾けた。

「裕司に会いたかったのは、その中の一つを相談したかったからだ」

 健一は席の隣に置いたかばんの中から一冊の本を取り出した。美術雑誌だった。健一はそれをめくり、付箋の貼ってあったページを開いて、僕に示した。

 そこにはとある美術コンクールの入賞作品たちが紹介されていた。顔色の悪い人間や、無機的な風景の絵や、何が描いてあるのだか分からない絵たちの中に、僕たちがかつてよく見たのに良く似た絵と、よく知っている名前そのものがあった。

 その絵は、地の底まで落ちて行く四角い穴のような黒い絵だった。言葉で表面的な印象を語るなら、それだけで説明の終わる絵でしかない。だがどう観てもそれだけの絵ではなかった。ただ単一の黒ではなかった。四方八方から無造作に、そして徹底的などす黒い線で埋め尽くされたその絵は、全ての光を吸い込むようにも弾いているようにも見えた。そこには奥行きがあり、時間がある。何かがそこにいるように見える。暗闇よりも暗い空間の中に、何物かがうごめいている。実際にそこに何かがいるのかどうか分からない。ただその気配だけを感じる。実物よりははるかに縮小された、ただの簡素なオフセット印刷の紙面だというのに、僕はそれを見つめていたくなかった。だがどうしても目が離せなかった。

 作者の名前は、上村夏。

 本の中の他の絵が消えて、その絵だけになった。周囲の音が遠ざかって、光が消えた。僕と、その絵と、書かれた名前だけになった。

 それ以外が全部消えてしまう直前に、僕は顔を上げて、健一と眼を合わせた。健一はほんの少しだけ頷いた。

 僕は、口を半開きにして、息を吐いた。茫然と健一の顔を見返しながら、意識しなければ上手く息を吸い込むことができなかった。僕が絵を見た瞬間と、彼女の名前を見た瞬間はほとんど同時だった。だが、そこにもしその名前がなかったとしても、誰の絵なのかは僕には一目瞭然だった。

 僕の表情は凍りついた。全身の筋肉が固まって、どう動いたらいいのか全く分からなくなった。

 やがて、僕は首をゆっくりと横に振った。そして何かを言おうとした。それは、嘘だ、か、嫌だ、のいずれかだった。またはその両方だった。僕は顔を両手で覆い、俯いた。かすれた吐息が喉の奥から漏れてきて、僕の顔を湿らせた。僕はその姿勢のまま、しばらく何も言えなかった。

「俺は今、教師をやっているんだ。中学校で。上手くいったり下手を打ったりを繰り返している。この雑誌は偶然同僚の美術教師に見せてもらった。同僚はアメリカンポップアートのファンで、その教養を俺に植え付けたがっていて、この号はその特集号だったんだ。でもポップアートなんてどうでもいい。ページをすっ飛ばしていくうちに、この絵が目に止まった。俺が見つけたのはほんの1週間ほど前だけど、これ自体はもう2年も前に出版されたものだ。間違いなくあの夏のことだとすぐに分かった」

 健一のため息が聞こえた。

「偶然だったけど、偶然が遅すぎた」

 僕は顔から手を離し、伏せた顔を上げた。既に健一はその雑誌を閉じていた。

「十年前と比べてどうだ?」と健一が訊いた。

「黒い」

「だからお前に電話しようと思ったんだ」

「夏に会おう」

「会ってどうする?」

 そんなのどうだっていい、と言って僕は首を横に振った、「会って話す。夏はどこにいる?」

 健一は首を横に振って、まだ分かってない、と言った。

「初めから多分目は薄いと思ったけど、ネットで夏の情報は探した。だけどまだ何も見つかってない。あいつ自身はネットに繋がっていないみたいだ」

「誠二は? 健一は誠二の居場所を知ってるか?」

 健一は首を横に振って、俺もお前にそれを訊こうと思っていたところだ、と言った。

「あいつとは長いこと、お前と同じように、街を離れてからずっと逢っていない。どこにいるのか、分からない」

「分かった」と僕は頷いた、「二人で夏を探そう」

 健一は頷いた。

 そして僕たちはシンプルに、やるべきことを確認しあった。まずこの本の出版社と、賞を仕切る事務局に問い合わせる。また、特に彼女の所属は書かれていないが、大学とか大学院に属しているようならばそこに問い合わせる。その全てに彼女の足跡が残っていないということは考えにくく、決して難しくはないことだ。

 俺が行くよ、と僕は言った。「もし電話した先の誰かが夏のことを知っているようなら、俺が行って聞いてくる」

「電話で済むかもしれないけどな」

「いや、こういうことは直接会って聞いた方が話が通じやすい。俺が仕事で唯一学んだことだ。会えば大体どうにかなる。少なくとも会わないよりはずっと」

 健一は頷いた、「裕司、お前今仕事って何やってるんだ?」

「一週間ごとに五十万平方メートルの紙に色を塗る仕事だよ。この世に存在するありったけの色全てを」

「楽しいか?」

 僕は首を横に振った、「でも、あまり考えてない。何でもいいから働きたかったんだ」

「何かやりたいことはないのか?」

「何もないんだ。何をやっても駄目だった。何一つ長続きしなかった」

「どうしてなんだ?」

「それが分からないのが問題なんだろう。でもこれだけは言える。お前と同じように、俺もインディ・ジョーンズじゃなかったんだ。お前も誠二も夏も、みんなそうじゃなかったのと同じだ。自分が万能者でも天才でも超人でもないことは最初から分かっていたのに、どうしてか、インディ・ジョーンズにはなれるかもしれないと思った。でもあの日、そうじゃないと分かった。別の生き方を見つける必要があった。世の中に無数の映画があって無数の主人公がいるのと同じように、世の中には多くの生き方があるということは分かっていた。だけど俺自身はインディ・ジョーンズじゃない人生がどういうものなのか、何年考えても分からなかった。どう生きてもリアリティがなかった」

「不思議だよな。俺もそうなんだ。もっとも俺の場合は、体の都合があるから、できる仕事は初めから限られていたと思うけど、でもだからって別に他にやりたいことがあったわけじゃない。基本的にずっと椅子に座っているしかなかったから、勉強をするしかなかったわけだが、結局そこで得た知識はその領域の中でしか循環しなかった。あの日から、生活が全て変わった」

「後悔してるか?」

「してない」と健一は言った。「してないよ」

「俺、お前に心から感謝してる。十年前にお前がしてくれたことは一生忘れない。ずっとそれが言いたかった。でも言えなかった」

「俺もだ。あの時、助けてくれてありがとう。来てくれてありがとう。嬉しかった。今日も」

 僕は首を横に振った。行くのが遅くてごめん、と僕は言った。「もう少しだけ早く辿り着いて、お前と二人でやるべきだった。そうしたら、お前の人生はきっと変わっていた」

 健一は首を横に振って、これでいいんだ、と言った。「俺の役目だったんだ。ガキの頃から、悪い奴をぶちのめすのが。夏を見つけるのが、お前の役目だったのと同じように。だからこれでいいんだ」

 



 夏を探しはじめて一週間、彼女の行方は杳(よう)として知れなかった。

 健一と会った翌日、僕は東京に戻り、夏が入選した美術コンクールの運営事務局を訪ね、事務局員から彼女の応募当時の住所を入手した。勿論そうした情報は普通に聞いても引きだせるものではないが、何事にも例外はある。僕は自分の身分を全て正確に明かした上で、自分が上村夏の古い友達で、本当に親しくしていた当時の共通の友達が死にかけていて、どうしても今すぐ彼女にそれを伝えたい、と話した。僕の表情の悲壮感と責任感のバランスは完璧だっただろう。成功する自信があったわけではないが、少なくともその感情には一切嘘がなかったから、年老いた事務員を感じ入らせるには十分だったようだった。事務員は過去の入賞者のデータがつまったファイルを引っ張り出して来て、夏の記録を発見した。彼は、今からここに電話をして、君に連絡先を伝えても良いかどうか、先方に確認してあげるから待て、と言い、その場で携帯で電話してくれた。事務員の携帯から鳴る呼び出し音が僕にも聞こえ、誰も出る気配が無い。だが、僕が急かしたせいかもしれないが、彼がだいぶ慌て者だったのが幸いした。彼は連絡先が書かれたファイルを開きっぱなしだったのだ。僕はそこに書かれた電話番号と住所を盗み見て記憶した。石川県金沢市。事務員は電話を切ってファイルを閉じ、首を横に振って、誰も出ないようだ、と残念そうに言った。僕も残念な振りをして首を横に振り、大変お手数ですが上村夏と連絡が取れたら是非ご一報ください、と言ってその場を去った。

 僕は事務局を出てすぐ、健一に連絡を入れた。夏は金沢にいるかもしれない、と僕は話した。平日だったので、彼には仕事があった。話し合った結果、ひとまず僕一人で行くことにした。お前が一人で行動した方が早い、と彼は言った。彼の仕事は私的な都合ですぐに休みを取れるようなものではないが、それ以上に、健一の口ぶりには、夏に最初に会うのは僕であるべきだと思っているようなところがあった。もしそれが僕の勘違いでなかったとしたら、あまりにも彼らしい振る舞いだった。僕は、何か分かったらすぐ連絡する、と言い、翌日飛行機に乗って金沢に向かった。

 だが、順調だったのはそこまでだった。辿り着いたその場所に夏の姿はなかった。

 確かにその一軒家には上村家の表札がかかっていた。それまでこれほど緊張したことはないというほどの激しい動悸を抑えながら、僕はインターフォンを押した。

 玄関から出てきたのは、夏の母だった。髪のボリュームはすっかり無くなり、肌艶は失われ、体を全体的に覆う雰囲気は老女のものとなっていた。彼女は十年前と同じように、疲れきった顔をしていた。僕は懐かしさで胸が締め付けられ、お久しぶりです、と言った。

 だが、夏の母は僕のことを覚えていなかった。僕の顔を見て僕だと分からなかった。

 どちら様、と彼女は訊いた。

「中原です。中原裕司です」

 彼女はその名前を頭の中で何度か反芻させたのだろう。その度に、彼女の表情は和らいでいき、最後には笑顔になった。

 お久しぶりね、と彼女は言った。

「お久しぶりです」と僕は言って、一息飲んで続けた、「夏はいますか」

 その瞬間に、夏の母の表情は一気に曇った。

 その顔色の変化に、僕の心臓は凍って締め付けられた。居ないことは予期していた。だが、居ないだけならばまだいい。もっとどうしようもないことが世の中にはある。

 僕はその可能性を考えたくなくて、すぐに重ねて問いかけた。

「居ないんですね。今どこにいるんですか?」

「分からないの。半年前に出て行ったきりで」

「半年前」

 僕はそう繰り返しながら、心の中で胸を撫で下ろした。感情は不安よりも安堵の方に向いていた。あの絵が入賞したのは二年前のことだった。あの絵の後、少なくともそれまでは生きていたわけだ。

 そうであれば、今も生きているかもしれない。

 きっと生きている。

「どうぞ、上がっていって」

 夏の母がそう促し、僕は頷いて玄関をくぐった。

 差し出されたコーヒーを一口飲んで、突然お邪魔してすみません、と言った。

 夏の母は首を横に振った、「いいの、主人も仕事だし、掃除も終わって、夕飯の買い出しまではまだ時間があるし」

「夏を探しているんです。会って話したいことがあって」

「そう」

「夏のことを、訊いてもいいですか?」

 夏の母は、頷くのと首をかしげる中間の方向に首を動かした。

「それを訊いてどうするの?」

「どうしてもあいつと話したいんです。僕と、もう一人仲が良かった友達の健一を覚えていますか? 先日彼と久しぶりに会いました。そしたらどうしても二人で夏に伝えておきたいことがあると気が付いたんです。だからあいつのことが知りたいんです。

 十年前にあの町を離れてから、あいつはどうしていたんでしょう。元気でいましたか?」

 夏の母は、さっきと同じような曖昧な方向に頷いた。

「元気かと言われると、分からないけど、でも話せるようにはなったわ。ここに引越してきて数日もしないうちに」

 夏の母はコーヒーを一口飲んだ。

「突然、まるで一年以上押し黙っていたことなんて全く覚えていないみたいに、ごく普通に私たちと話し出した。お母さんおはよう、って。それから何日か経った後には笑うようにもなった。9月には高校にも通うようになった。でも何か変だった。しばらくして気が付いたのだけど、あの子は絵を描くこともピアノを弾くことも、全くしなくなった」

 夏の母は、深く息をついた。一言一言を発するのにひどく体力を消耗するようだった。

「だから一見元のあの子に戻ったようなんだけど、何か違った。あの子にとって、絵や音楽が、誰かにやらされていたものとかじゃなく、自由で大好きな、本当に大切なものだったってことは、私たちには良く分かっていたから。話していても奥行きがなくて、手ごたえがないっていうか、大きな空っぽがあの子の体の中にあるようで。言うべきことを隠しているのか、言えないのか。私たちと夏じゃなく、夏と夏の言葉の間に大きな壁があった。前に比べたらはるかにましで、やっぱり引っ越してきたのは正解だったんだと主人とも話したけど、それでも本当のあの子にはまだ戻っていないのは確かだった」

「僕たちのことは何か話しましたか? 僕や健一や誠二の、友達のことは」

 夏の母ははっきりと首を横に振った。

「一言も話さなかったわ。私たちも話さなかった。あの町に関わることは何も思い出させたくなかったから。ごめんなさいね」

 僕は首を横に振った。それこそ僕が夏に望んだことだ。

「絵を描くことも音楽を演奏することもなくなって、あいつは毎日どうしていたんですか?」

「分からないの。夕食時以外は大体自分の部屋にいたけれど、何をしていたのか分からない。でも普通の女子高生ってそういうものでもあるわよね。何もしてなかったのかもしれない。別に何もない毎日。勉強をして、友達と他愛もない話をして、テレビを観て、お風呂に入って寝る。それはそれで良いことよね。私たちとの生活は平穏で、夏は表面的には、混乱したり感情を激しく爆発させたりすることはなかった。休日には友達と遊びに出掛けたりもしていた。卒業したらどの大学に通おうか、あの子は私たちに相談もした。私たちは地元でも東京でもどこでもいいと言ったけれど、あの子はお金が掛かるから地元の国立に受かるようになんとか頑張ると言った。友達もみんなそこを目指しているからと言って。

 そういう話のほとんどが嘘だと分かったのは、高校を卒業した後のことだった」

「何があったんですか」と僕は訊いた。僕には、何があったのか大体見当がついたが、息をついて俯く夏の母は僕にそう促されることを望んでいるように見えた。

「あの子には友達は一人もいなかった。いつも友達と遊びに出掛けたり、こういうことがあった、誰それがああ言った、そんな話を私たちに報告していたけど、全部嘘だったの。全部あの子の作り話だった」

「どうしてそれが分かったんですか?」

「簡単よ。卒業アルバムのどこを見ても、あの子がそれまで話していた何とかちゃんや何とか君の名前が無かったの。全部架空の名前。もちろん薄々気がついてはいたわ。あの子は物凄く仲がよさそうに話す『友達』を、一度も家に連れて来なかったから。

 大学にはあっさり受かった。勉強だけは本当にしていたのね。他にやることがなかったのかもしれない。でもあの子が選んだのは結局地元の国立大じゃなくて、公立の短大だった。多分だけど、国立大には知り合いがたくさん進学していたはずだから、顔を合わせたくなかったんじゃないかと思う。

 どうしたらいいのか分からなかったわ。あの子は毎日笑顔で大学に通っていたけど、友達もおらずたった一人なのはもう分かっていた。それをどうにかした方がいいのか、何もしない方がいいのか、何かしてやれるとしたら何をどうすればいいのか分からなかった。

 何も変わらない毎日が物凄い速さで過ぎて行って、あの子は大学を卒業することになった。そして思っていたとおり、とうとうそこで嘘をつき続けることができなくなった」

「どこにも行くところが無くなった」

 僕がそう口をはさむと、夏の母は頷いた。

「卒業して、就職するなんて、あの子には無理だったのよ。それはあの子も自分で分かっていた。あの子は家から出なくなって、それでもう、笑うのは無理になった。一日三回、食事の時に下りてくるだけで、あとはずっと自分の部屋にこもりきりだった。

 二年間ずっとそうだった」

 夏の母は、そこで押し黙った。僕の方を見て息をついて、そのまま何も言わなかった。テーブルの上のコーヒーカップに手を添えて、ゆっくりと回転させながら、僕とカップを交互に見つめた。話には続きがあるはずだったが、それを口に出すことが難しいようだった。

 僕は何も言わずにじっと待った。

「短大を卒業して二年後に、あの子は家を出て行った。私たちの財布からお金を抜き取って。必ず返す、っていう置手紙を残していった。すぐ連絡するから警察には電話しないようにってお願いもしていたわ。私たちはどうするべきか迷った。

 でもその日の夜に、本当に夏から電話がかかって来た。あの子はユースホステルにいて、翌日東京に向かうと言っていた。

 何年も聴いたことがないくらい、物凄く穏やかな声だった。

 東京に行ってどうするの、と私は訊いた。

 友達に会う、とあの子は答えた。

 東京に友達なんかいるの、って訊くと、今度は本当だから大丈夫だと言った。夏の声はただ穏やかで、暗くも明るくもなかった。また明日電話するね、と言って電話は切れた。

 それからあの子は約束通り毎晩電話してきた。ほとんど内容のない話ばかり。今日は凄く天気が良かったとか、動物園に行ったとか、夕飯は何を食べたとか。どうやって暮らしているのか聞いたら、普通に働いているから大丈夫だって言った。

 そして一ヶ月後に、あの子は財布から盗っていったお金を全額郵便で送り返してきた。

 どんな生活をしているのか全く想像もつかなかった。何度も悩んだわ。無理やりにでも呼び戻すべきかどうか。心配でたまらなかったから、そうしたいのはやまやまだった。でも、短大を卒業してからの二年間の、心が死んだみたいにもそもそ食事を摂っているだけの、あの子の顔が忘れられなかった。あのころに比べたら、電話越しに聞こえる夏の声は遥かに生き生きしていた。だからあの子を信じるしかなかった。でも実際に呼び戻そうとするのもきっと難しかったわ。あの子の住所も、電話番号も、私たちには分からなかったんだから。いつも電話をしてくるのはあの子で、私たちはそれを待つだけ。

 頭がおかしくなってしまいそうだったけど、でもあの子の声を聴いていると落ち着いたの。私たちは離れてなんかいなくて、すぐ傍にいる、そう思わせるような声だった。

 あの子が出て行って一年が経った頃、家に封書が届いた。あの子の絵が、若手美術家向けのコンクールに入賞したという知らせだった。

 その日も夏から電話がかかって来たから、私は夏に、凄いじゃない、おめでとうって声をかけたわ。あの子はありがとうと答えた。でもその声は平板で、全く嬉しく思っている風には聞こえなかった。どうでもいいと思っているみたいだった。

『あなたには芸術が似合っているわ』と私は言った。

 そうしたら、『私はそうは思わない』と夏は言った。

 また更に一年半くらいが経って、ある日突然あの子は帰って来た。少し痩せていたわ。でもそれ以外は、顔の血色もよくて、身なりもきちんと整っていた。

 私はあの子を抱きしめた。どこで何をしていたのか問いただす気持ちは吹っ飛んで、とにかく帰ってきてくれたことがうれしくて。

 あの子が、ただいま、と言って、私がおかえりなさい、って言うと、あの子は私の顔を物凄く静かな表情でじっと見た。話があるから聞いてほしい、と。

 そして言ったわ、『お母さん、私、結婚する』って」

 夏の母はそう言って、俯いた。

 僕は口を唖然と開いて、夏の母が見つめる空っぽのコーヒーカップを覗き込んだ。

「そう、ちょうどそんな顔」と夏の母は顔を上げて言った、「私もその時、きっと今のあなたと同じような顔になったわ」

 僕は頷き、自分の眉間にしわが寄るのを感じた。

「私は訊いたわ、相手は誰、って。

 あの子は、それは言えない、と答えた。

 私はその瞬間に、何もかも駄目になってしまった。今まで我慢してきたことが、一気に全部弾け飛んだ。もう本当に、心底、何もかも、いい加減にしてほしいと思った。あの子を初めて本気で思い切り叩いたわ。私が何を言ったかは全然覚えていない。とにかくあの子を引っぱたいて押し倒して、何十分も胸ぐらをつかんで離さなかった。

 あの子は何も言わなかった。じっと私の方を見返して、どれだけ私に殴られてもまったく表情を変えなかった。

 正直言って、目の前にいるのが自分の娘と思えなくなりかけたわ。あんなに優しくて頭が良くて、いつも幸せそうにしていたあの子が、なにがどうなってこんな頭のおかしい女になってしまったのか、全く理解できなかった。今でも理解できないわ。何が理由なのか、どうしても分からない。どうやったら狂ったものが元に戻ってくれるのか、どれだけ考えても分からなかった。

 でももちろん、それでもいいからあの子にどうにか幸せになってほしかった。私は訊いたわ、その人のことをちゃんと愛しているのか、って。

 あの子は黙って頷いた。

 それでもう、私には信じるしかなかったの。結局そうすることしかできない。あの子の体から手を離すと、あの子は起き上がって言ったわ。

『明日、東京に帰る』って。

 そして翌朝私の用意した朝食を食べて、行ってきますと言って、出て行った。それが半年くらい前のことよ。

 もう電話もかかってこない。本当に結婚したのかどうかも分からない。でも生きてるってことだけは分かってるの。

 何回か、あの子から絵が送られてきたから」

「どんな絵ですか?」

 夏の母は首を横に振って、「言いたくないわ」と言った。

 僕は頷いた。それで、どんな絵かは分かった。今、夏の絵には一種類しかない。

「夏は今、どこにいると思いますか?」

「たぶん、今も東京にいると思う。詳しい場所は全く分からないけど。絵が送られてくるたびに毎回消印の郵便局名が変わっていて、でも全部東京の地名だったから」

 僕は頷いて、ありがとうございました、と言った、「もし、夏が戻ってきたり、連絡があったら、中原裕司が探していたと伝えてもらえませんか」

 僕は、夏の母に自分の連絡先を書いたメモを渡した。

「夏を探すの?」

 難しいかもしれないけどそうします、と僕は答えた。

「もし会えても、まともに話せないかもしれないわよ」

 いいんです、と僕は言った。「会わないと、それさえ分からない」

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