第五章 二十一世紀(4)

 残った大学生活は、まるで凪のような時間だった。卒論は九月にはほとんど書き終えてしまい、僕が大学でやるべきことは何一つ残されていなかった。映画を観て、本を読み、音楽を聴いたが、一切の内容は頭の中を通り抜けて行って何も残らなかった。

 それでも時間は経っていき、時間が経つということは命が動いていくということだった。

 十月の終わりに、煙草屋の老婆が死んだ。肺炎に罹り、病院に運び込まれてから亡くなるまで二週間とかからなかった。

 ある日キャビン・スーパーマイルドを切らした僕がいつもの煙草屋に向かうと、そこに老婆はおらず、見慣れない中年の女が店員の代わりを務めていた。おばあさんはどうしたんですか、と僕が尋ねると、母は病気に罹って入院しました、と答えがあった。入院先を訊くとすぐ近くの大学病院だったので、お見舞いに行っても良いかと僕は尋ねた。老婆の娘は驚いた顔になって、構いませんけどどうしてですか、と訊き返してきた。

 とにかく暇で時間だけは幾らでもあるんです、と本当のことを答えても仕方がないので、おばあさんの笑顔にはいつも元気づけられたから、心配で、と言った。

 老婆の娘は涙ぐんで、ありがとうございます、できれば是非そうしてください、と言い、こう続けた、「母はもう長くないと思いますから」。

 僕は早速その翌日、近所のスーパーで果物を買いこんで大学病院に向かった。老婆の病室は三階にあり、六人部屋の窓際のベッドをあてがわれていた。その部屋の中は死の匂いに包まれていた。だがそれは穏やかな匂いだ。何かに激しく抵抗する熱も、運命の残酷な冷たさもなく、振り子が音もたてず静止する直前のような雰囲気だった。僕は老婆のベッドの脇に置かれた台に果物籠を置いて、こんにちはと言った。

 老婆は僕の方を見て、少しだけ大きく目を開いた。弱弱しい息が口から漏れ、しかし言葉にならなかった。僕のことが誰なのか、彼女は分かっていたのだろうか。彼女の息はかすれ、顔色は見る目もないほど灰色にくすみ、意識が明瞭であるのかどうかも定かでなかったが、それ以前に、三年以上に渡って顔を合わせ続けてきた僕のことを、彼女がもともと一個の人間として認識していたのかどうかさえ、僕には分からなかった。喋らなくていいです、と僕は言った。

「早く良くなってくださいね」

 老婆は首を横に振った。長い時間をかけて、ゆっくりと、何度も首を横に振った。そのうちに、彼女の眼には涙が滲んできて、僕はそれを見ない振りをした。

 特にそれ以上の言葉はなかった。僕が老婆にみかんを差し出すと、彼女は首を横に振った。

 彼女の顔を見つめていると、この目の前の命がまもなく消えて行くのだということが、どう説明されるよりもはっきりと理解できた。灰色の空を見上げて雨が降るのを待つような、予め決められたことが今ここで起こっているのだと。そう思うと、僕は納得すると同時に寂しい気持ちになった。胃の底に小さな重い塊が生まれ、それは僕を俯かせた。

 僕が見舞いに行った一週間後に老婆は死んだ。煙草屋は閉められ(そしてその後二度と開くことはなかった)、再び見舞いに行った僕は病院の受付で老婆の死を知らされた。

「お気の毒に。ご愁傷さまです」

 受付の看護婦は僕に向かって沈痛な声でそう言った。彼女の顔は死を憐れむというより僕を心配するような表情だった。僕はそんなに、打ちひしがれた悲痛な顔をしていたのだろうか。

 病院を出ると、僕は唐突に、燈に連絡を取ることにしようと思った。今話さなければ僕たちは永久に話すことはないだろうという直感が僕の胸を貫き、そうしなければならないと思った。ポケットから就職活動の為に買った携帯電話を取り出し、彼女のアドレスに「中原です。話したいことがある」とだけ書いてメールを送った。

 返事は十分後に返って来た。「いつもの公園にいる」とそこには書かれていた。

 僕は「今すぐ行く」と返信して、自転車を漕いだ。

 僕たちが会うのは二年ぶりのことだったが、会うと決めてから実際に顔を合わせるまでには三十分もかからなかった。彼女は変わっていなかった。あのときと同じように踊り、髪の長さも表情も、公園での立ち位置も変わっていなかった。ただ少しだけ、踊りの重心が安定するようになっていた。彼女が普通ならとっくに大学を卒業している年のはずだということを僕は忘れていた。

 音楽が終わり、久しぶり、と僕が声をかけると、彼女はタオルで汗を拭きながら頷いた。

「何の用?」

「一緒に葬式に出て欲しいんだ」と僕は答えた。

「誰が死んだの?」

 僕は背負っていたバッグからビデオカメラを取り出し、小さな液晶板に映る老婆の姿を燈に見せた。老婆は固定されて動かない笑顔でカメラを見返していた。

「この人が亡くなったの?」

 僕は頷いて、ついさっき、と答えた。

「あんたの親戚?」

 僕は首を横に振った。「何も関係はない」

 燈は微かに眉を歪め、しばらくした後、分かった、と答えた。ありがとうと僕は答え、詳しい場所と時間はまたあとでメールする、と言った。

 そして翌日、僕と燈は老婆の通夜に立ち会った。死に化粧が施された老婆の顔は穏やかで、健一の母親の死に顔を思い出させた。死ねば皆こうした顔になるのだろうか、と僕は思った。どのように生きたか、どのように死んだか関係なく。

 通夜の後、僕と燈は近所の居酒屋で食事をした。二人とも猛烈に腹が減っていて、注文した料理をとにかく食べ続けた。一通り皿を空にした後、燈が煙草が吸いたいと言うので、僕は一本渡して火を点けてやった。

「あんた就職先決まったの?」

 僕は頷いて、印刷会社の営業になる、と答えた。

「何で?」

「何でって?」と僕は訊き返した。

「何でその会社にしたの?」

「働きたいんだ。基本的に働ければどこでもいい」

「向いてないよ。私が保証する」

「何でそんなこと分かるんだよ」

「一度に三つ以上のことを同時にやるの苦手でしょ? どうもそれが仕事って奴らしいよ」

「向いてるとか向いてないとか関係ないんだ。働かなくちゃならない。そうする以外にやることが特にない」

「無理だよ。やらなくても分かる。誰もあんたのこと止めなかったの?」

「誰が止めるんだよ。止めてどうするんだよ」

 燈は僕の方をじっと見つめていた。その顔は僕に対して深く失望しているようにも憐れんでいるようにも見えた。

「何で今日私を呼んだの」

「どうしても話したくて。何でもいいから何かを」

「あのお婆さん、どんな人生だったのかな」

「分からない。あの人については、ずっと以前に大事な人を大雨で亡くした、ってこと以外には何も知らないんだ」

「それなのになんでそんなに悲しそうなの?」

「俺にとってこの街での数少ない知り合いだ。あとは燈だけだ。四年間、他には誰とも話す気がしなかった。何度か習慣を変えたけど、結局何にもならなかった。何をやっても現実感がなかった」

「たぶん、就職しようがなにしようが、きっと変わらないよ、それ」

「分かってる。でももうこれ以上ここにいたくないんだ」

「どうして話してくれないの?」

「なにを?」

「大切なことを隠してるでしょう?」

「何も隠してないよ」

「あなたが何も話さないから、誰もあなたに何も話さないんだよ。だから長い時間、当たり前のことが当たり前に起こり続けて何も変わらないでいるんだよ」

 燈は僕の方を見つめ続けていたが、その表情はさっきまでと違っていた。一年以上前に最後に会った日の夜の表情に似ていないこともなかったが、実際には、彼女の現在の感情が心の中で渦を巻いたのではく、記憶の中に過去の感情が見つかっただけのことだったろう。つまり、今はもう何の感情もないが、かつて好んだ男を見る目だった。

 僕は何も言えなかった。誰にも言えない。起こったことを永久に誰にも言わないと決めてから、まだ七年しか経っていないのだ。

 燈の携帯電話が鳴った。メールが着信する音だった。燈は携帯電話を手にとって覗き込み、僕に少しだけ背を向けて俯き、ぱちぱちとボタンを押した。

「彼氏?」と僕は訊いた。

 燈は頷いた。

 店を出て別れ際、僕は燈にありがとうと言った。この日一日付き合ってくれたことに対して心からそう思ったからだが、期せずしてその言葉には多重の意味が込められていた。

 燈は首を横に振った。それにも多分幾つかの意味が込められていた。普段気が付かないだけで、僕たちの行動にはいつも複数の意味があった。だがわざわざそれを取り上げることはない。世界はいつもできるだけシンプルな振りをしている。

 僕は燈と別れ、また一人きりの生活に戻った。その後、僕たちはもう二度と会うことはなかった。




 春がやってきて、僕は東京に出て働き始めた。

 白く清潔なワイシャツにネクタイをきっちり締め、濃紺のスーツを身に纏って僕は東京中を歩き回った。

 恐ろしく多忙な日々の始まりだった。過去四年間の静寂とはまるで別世界だった。

 僕が配属されたのはメーカー・小売担当の営業部署で、僕自身は主に家具やホームセンター、スーパーといった業種の企業を担当した。簡単に言えば、彼らが新聞に折り込むチラシやら店に張るポスターやら商談用のパンフレットやらを大量に印刷する仕事だ。

 今となってはどうして事前に想像できなかったのかが不思議なのだが、それは予め覚悟していた以上に過酷な仕事だった。チラシというのは毎日、特に週末になると大量に、新聞を開けば必ずそこに挟まっているものだ。つまり、毎日誰かがどこかでその大量のチラシを印刷しているということだが、それがどういうことを意味するのか僕は全く理解できていなかった。そのスケジュールは最初から歪んでいるのだ。金曜日に折り込まれるチラシの納品期限は水曜日の夕方で、火曜日の午前中には校了しなくてはならない。印刷見本となる色校正を一回も出さずに校了する原稿などないから、前の週の金曜日には一度入稿しておく。月曜日にクライアントに色校正を確認してもらい、修正があれば反映して翌日に入稿するわけだ。全ての物事がスムーズに進めばただそれだけの作業だが、基本的にそうなることは決してない。金曜日に僕に託されるべき原稿は必ず深夜まで修正が行われて、入稿ができるのは真夜中を回ったところだし、提出した色校正には必ず膨大な量の修正が入る。そして校了できるのは火曜の午前中どころか、水曜日の太陽が昇る直前だ。巨大な輪転機がゴリゴリと高速で回転し、三十万部のチラシを刷り出す。しかし納期には間に合わない。僕は倉庫の担当者に電話して謝り、あと三十分で納品します、と頭を下げる。実際にはあと二時間半はかかるのだが、そう言わざるを得ない。

 それと同じような案件が七つ同時に進行する。そしていつまでも終わりなく続いていく。僕の体重はあっという間に五キロほど減り、顔つきは変わり、安物のスーツはぼろぼろになった。休日は、その時間のほとんどを死んだように眠って過ごした。

 これはありふれた物語だと僕は思った。多くの人が僕と同じように働いている。誰もが当然のように僕に徹夜を要求する。働いているのも怒鳴りつけられているのも僕だけではなく、誰もがそうなのだ。僕はそれを慰めとしたのではなく、現実として受け入れた。燈は僕に、働くのは向いていない、と言った。その通りだと思ったが、そういう問題ではない。結局誰かがこれをやらなくてはならないのだ。それが僕である必要はないが、誰かである必要がある。そういう生活を続けて行くと、自然と人生の意味が減少し、自分でも他人でも変わりがない、誰でもない誰かになっていく。

 それは、予測していたものとは大きく違ってはいたが、ある意味自分が望んでいた生活だったと気が付いた。僕は考えることに疲れ切っていた。誰とも心を通い合わせることができないことにも、愛するものが何もないことにも、全てに対して疲れ切っていた。僕たちは都合よく人生を搾取されているのかもしれないが、ここにいる限り、僕は余計なことを何一つ考える暇がない。ただひたすらチラシやポスターやパンフレットを入稿して納品し続けることだけが求められていて、僕の過去も僕の未来も、仕事とそこに費やされる時間には何の関係もない。

 だから僕は仕事を辞めるつもりはなかった。同期はどんどん辞めて行き、そのたびに僕は送別会で飲めない酒を一杯だけ飲んだ。誰もが口をそろえて、ひどい会社でひどい世の中だと言った。僕も心からそれに同意して、かつての同僚たちの次の職場での幸福を祈った。なぜお前は辞めないのかと、入社して1年目の終わりごろに辞めた同期が僕に訊いた。僕の部署は社内でもかなりきつい仕事を回されていて、僕の顔色は決して良いとは言えず、表情には拭いがたい疲れが見えたからだろう。僕は、もう少しここで頑張ろうと思うんだ、と答えた。頑張ったって無駄だ、先には何もない、と彼は返した。僕は頷いた。その通りだとは僕も思っていた。僕の正直な答えはこうだ、「自分にとってはどこでも同じだから、別のところに行く意味がない」。だがそれを、今から辞めて別のところにいく人間に言うわけにはいかなかった。

 休みなく働き続け、昨日と同じ明日が何百回も繰り返され、僕は順調に歳を取っていった。本を読む気力も、映画を見る暇もなかった。僕はただひたすら通勤電車の中で音楽を聴き続けた。

 僕は二十五歳になった。2006年のことだ。その年の冬に、父が死んだ。




 海に近い風の強い街に、僕は一年ぶりに帰省した。一年に一度、年末年始の折にだけ帰省する習慣が続いていたが、この年だけはそれが数週間早まった。冷たい風が吹きすさび、僕はいつにも増して、「帰って来た」という感覚を抱くことができなかった。ここは僕の街ではないという感覚は何年たっても僕に付きまとい離れないのだった。

 葬儀の全てが片付き、僕は母と二人で家にいた。数少ない親戚もすでに一旦引き上げた。石油ストーブの上に載せたやかんがことこと音を立てて湯気を吐き出し続けていた。僕は煙草に火をつけて、天井に向かって吐きだした。実家で煙草を吸うのはこれが初めてのことだった。

 父の死の予兆を、僕は全く察することができなかった。その年の初めに帰省していた時には、健康面での不安などどこにも見受けられなかった。多少血糖値が増えた程度で、週末になれば釣りや山登りに出かけて行く、僕が子供だった頃の父と何も変わりがなかった。とはいえ父と母があえて隠していたわけでもない。全ては一瞬だった。父は十二月の頭に、一人、仕事で残業していたある夜に、オフィスで脳溢血で倒れた。帰宅が遅く心配した母が電話しても父は出ない。ビルの管理人に問い合わせて確認してもらったところ、果たしてデスクで突っ伏している父が見つかった。そのとき既に父は死んでいた。五十五歳だった。

 全てが瞬く間に進行したので、僕も母も感情に身を任せている暇がほとんど存在しなかった。父が倒れた日、その日の夜が明ける前に、母からの電話で叩き起こされ、そのまま新幹線の始発に乗った。葬儀屋を手配し、会社に忌引の連絡を入れ、香典返しの準備をし、あれこれの手配をしているうちにあっという間に数日がたち、父の体は灰になった。

 僕が考えるのは母のことだった。母の肩は落ち、さして大きくない体はより小さくなったように見えた。僕は、母を一人にしておくことはできないだろうと考えた。

「母さん」と僕は声をかけた、「東京に来るか、この街に住み続けるか、どっちがいい?」

 母はゆっくりと振り返って僕の顔を見つめた。

「何で東京なんかに行かなきゃならないの」

「要するに、母さんが俺と一緒に住むか、俺が母さんと一緒に住むか、ってことだよ。どっちがいい?」

 母は首を横に振った。

「どっちも嫌だわ」

「嫌ったって、そういう問題じゃないだろ。どっちかにしなくちゃ。それともここでも東京でもない、別の場所に住むのか? 当てでもある?」

 母は再び首を横に振った。

「裕司、あんたとは一緒に住まない。私は一人で大丈夫」

「なんで?」

「お父さんの遺言だからよ。私の遺言でもある」

「親父、遺言なんて残してる暇なかっただろう。母さんの遺言ってどういうことだよ」

「遺言じゃなくてもずっと前から二人でそう思ってたの。子供が生まれたら、特に男の子が生まれたら、その子の好きなようにさせるって。私たちがその邪魔になるようなことはしないって。だから裕司は東京でもどこでも好きなところに行って、自由に暮しなさい」

「母さんはどうするんだ?」

「私はまだ元気だし、働けるし、この街に友達ももう何人もいるから大丈夫。貯金もあるし。だから裕司は好きに生きなさい。あんた冷たいように見えて妙に優しいところがあるから、私とか父さんとか、誰かのことを気にしているのかもしれないけど、そんなのは考えなくていいから、自分の思った通りのことをやりなさい。私と父さんはそれが一番幸せなの。あんたが幸せでいることが一番幸せなの」

 僕は首を横に振った。僕には、僕が幸せでいることと、母をこの街に残していくことに関係があるようには思えなかった。

「自由でいるのよ。若い男には自由でいることが大切なの。そして誰かを好きになって、子供が生まれたら、今度はその自由を子供にあげるの。そうやって続いて行くの。私は、時々こっちに来て顔を見せてくれればそれでいいから」

「本当に母さんはそれでいい?」

「それがいいの。とりあえず、あんた少し休みなさい。働き過ぎよ。まるで楽しそうじゃない。どっちかと言うと、もしも私の言うことを聞いてもらえるなら、私と住むとかどうとかより、一刻も早く今の仕事を辞めてほしいわね」

 母はそう言うと、この話はもう終わった、とばかりに、テレビのリモコンを手にとって、NHKのドキュメンタリー番組にチャンネルを合わせた。僕は僕から顔を背けた母の背中を見つめながら、分かった、と言った。

「少し休むよ」




 それで僕は休暇を取ることにした。就職して以来、年末年始を除いて一週間以上の長期の休暇を取ること自体が初めてだったが、会社に対するその申請は予想に反してあっさりと通った。信じられないことに、入社以来僕を小突きまわし怒鳴りつけ働かせ続けてきた上司は、少し休んだ方がいい、と母と同じセリフを言った。そうします、と僕は答え、かばんに着替えを詰め込んで東京駅から新幹線に乗った。

 とはいえ、目的地は全く決まっていなかった。自分の意思でそうしたにもかかわらず、突然日常の行き先を失って、僕は体が空中に放り出されたような気分だった。分かっていたのは、季節は冬の真っただ中で、これ以上北の寒い場所に行く気にはなれないということだけだった。僕は西に向かうしかなかった。

 とりあえず山中の温泉街に立ち寄り、適当にインターネットで探した旅館に宿泊した。真っ白い湯気の立ちこめる露天風呂に全身を浸し、頭の上にタオルを載せ、深呼吸をしながら鬱々とした山間の風景を眺めた。ぎりぎり年末年始の休暇シーズン前で、僕以外に宿泊客はほとんどいなかった。浴衣に着替えて、部屋の端で缶ビールをちびちびとすすりながら、僕は死んだ父親のことを考えていた。

 僕の父は自分の考えをあまり表に出さない人だった。何が好きなのか、何が不快なのか、僕に対して何を望んでいるのか、特に何かを望んでいるわけでもなかったのか、良く分からなかった。しかし、漠然とではあるが、分かっていることもある。父は僕のことを信頼していたはずだった。僕がやること、僕が望むこと、僕が言う言葉に、父は基本的に一切の反論をしなかった。ただ黙ってそれを聞き、僕に対してそのまま進むように促した。つまり僕に対してどこまでも寛容な人間だった。何を根拠に、何の目算があって父がそうしていたのか僕には分からなかったが、その父の態度が僕のこれまでの人生に多大な影響を及ぼしているのは間違いないところだった。

 僕はビールを飲み干し、俯いた。暗澹たる気分だった。結果として、その父の寛容さに、僕の人生は到底答えられているとは言えないだろう。みじめでも孤独でも構わないが、望むものが何もないというのは最悪だった。息子にそういう人生を送らせるために三十年以上働いて脳梗塞で死んだ父親に対する懺悔の気持ちが、僕の胸の内でマグマのようにぐつぐつ湯だった。

 僕は思った、数年後か数十年後かに母が死んだとき、僕はまた同じ気持ちになるのだろうか。また同じように、僕の自由を望んだ人がいて、それに全く答えることができなかったと思いながらその死を弔うのだろうか。

 このままいけばおそらくそうなるだろう。僕は缶ビールをもう一本開けた。それを飲み干すうちに僕は少しずつまどろみ、眠りに落ちた。



 

 携帯電話のバイブレーターが振動する音で僕の意識は覚めた。もう朝が来たのか、と僕は思った。片目を半分だけ開いて、暗闇の中で電源ケーブルにつながった携帯電話のありかを探った。僕は毎朝携帯に目覚ましアラームを設定していた。それが指先に触れ、液晶板の光が僕の目に刺さっても、僕はまだ、あたりの暗闇が、自分が目覚まし時計に設定した時間よりはずっと以前の時間だということに気が付かなかった。

 気が付いたのは、そこに見知らぬ電話番号が記されているのが見えてからだった。しばらくの間、僕は手の中で振動し続ける携帯電話を見つめていた。

 これは仕事の電話だろう、と僕は思った。時刻は丑三つ時を過ぎて間もないところだが、そうした狂った時間に電話を受けることには慣れている。ほとんどの場合それは狂った仕事か、酔っぱらった上司からの呼び出しのどちらかだ。番号は知らない数字だったので、後者であることはないはずだった。だから僕は電話に出ることにした。それが客であれ誰であれ仕事であるなら、この電話に僕が出なければ、すぐ後に、不在のうちの業務を預けてきた同僚に雪崩れかかることになるだろう。彼らにこれ以上そんな類の迷惑をかけたくはなかった。

 僕はまだ半分閉じた目で、もしもし中原です、と粘つく口を開いて呟いた。

〈もしもし、裕司か〉

 その声を聞いた瞬間、全身にいきなり鳥肌が立った。

 何故なのかは自分でも分からなかった。反射的だった。

 僕は目を開いた。

 ああ、と僕は頷いた。「裕司だよ」

 手を布団に突き、上体を起こして、裕司だよ、と僕はもう一度言った。

〈久しぶり〉

 久しぶり、と僕も答えた。

 良く知っている声だった。懐かしく、温かい響きだった。あまりにも懐かしいので、僕は自分がまだ夢を観ているのではないかと思った。昔の夢を観るのはよくあることだ。そこでは僕はまだ十四歳か十五歳で、詰襟の学生服を着こんでいる。僕は宿題を忘れたりテスト勉強に追われたりしている。仕様もないろくでもない夢だ。観ているときは一刻も早く覚めて欲しい類の悪夢だ。しかし目が覚めると少しだけ寂しくなる。そこにいた友達が、今は傍にいないことに気がついて。そして自分がそこから十年以上隔たっていることに気がついて。

「久しぶり、健一」と僕は言った。

〈久しぶり、裕司〉と健一が答えた。

 僕は笑った。声に出して笑った。自然と腹の中から笑いがこみあげてきて、僕はそれを制御しなかった。健一の声が昔と変わっているのか変わっていないのか、僕には分からなかった。ただそれが彼の声だということだけが分かった。それがおかしくて仕方なかった。

〈何で笑うんだよ〉

「だってお前今何時だと思ってるんだよ。夜中の二時半だぞ。それが十年ぶりに電話する時間か?」

〈ああ、だから出ないかと思った。普通出ないだろ。お前どういう生活してんだよ〉

 そう言って、健一も笑った。馬鹿野郎ふざけんな、と言って僕は笑った。

「どうやってこの番号が分かった?」

〈簡単だよ、裕司のお母さんに聞いたんだ。うちの親父と裕司の親父さん、結構長いこと草野球仲間だっただろ。だから俺たちがあの町を出た後に、親たちは互いに引っ越し先の電話番号知ってたんだ〉

「そういうことか」と僕は呟いて、苦笑した。実は僕たちのつながりは断たれていなかったわけだ。

〈親父さん、気の毒だったな。おばさんに聞いたよ。きつかっただろ〉

「ありがとう、大丈夫だ。あんまりいきなりだったから、驚いたけど」

〈電話しようかどうか迷ったんだ。本当に迷った。何時間も考えてて、だからこんな時間になっちまった。お前に話したいことがあって、でもどうしようかと思って〉

「いいよ」、と僕は言った。

 お前の電話を、お前の頼みを、俺が嫌がるわけないじゃないか。

〈裕司、お前明日時間あるか?〉

「あるよ、幾らでもある、久しぶりに。今、休暇なんだ」

〈会えるか?〉

「いいよ」

〈今どこにいる? 休みの予定を変更させるのは悪いから、そっちに行くよ〉

「気にするなよ。俺がそっちに行く。予定なんかないんだ。ただぶらぶらしてるだけで、当ては何もない。むしろ行き先を誰かに決めてもらう方が楽だ。そっちに行く。今どこにいる? 明日行くよ」

 健一が、少し息を吸い込む音が聞こえた。ありがとう、と健一は小さな声で言った。

〈そうしてもらえると実は助かるんだ。裕司が知ってたかどうか忘れちゃったけど、俺今両足が不自由なんだ。あまり早く動けないから、来てもらえるとかなり助かる〉

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