雨を待つ傘

どしゃ

雨を待つ傘

慣れない袖を通して、バックヤードを出た大学生の七翔はレジ内へ入り、辺りを見渡す。


周期的に入店音のなる入口、寒ささえ感じる効きすぎた冷房、大々的にポップしている20円割引。 どれも隣にいる鼻歌を歌いながらメンチカツをあげている先輩からしたらありきたりな光景らしかった。


「お、来たね。何回目?」


新人の顔なんて見ずにジュワジュワ音を立てている様子を眺めながら言った。


「え、えっと…。四日目ですね…」


先輩の態度に物怖じしながらも七翔は真っ直ぐ見つめて返す。 先輩はぐっと顔を七翔へ向けると、手洗い場の方へ首を振り合図した。


それを見て慌てて手を洗い始めた七翔の肩に先輩は半笑いしながら手を置いた。


「え、じゃあ、まだ見てないんだ。傘おじさん」


「え、?」


どうやらこのコンビニの常連さんらしく、バイト間では噂になっていた。 いつの季節でも、店の中でも傘を差している不思議な客だという。


見てみたいという好奇心に駆られたが、仕事でミスしないように押し殺しながらレジの前に立った。


その後、時計の長針が二回転するまで先輩は最近の惚気話について花咲かせていた。 レジ打ちしながら横目で聞いていた七翔は、入店音に気づき顔を向けると噂の人物が来店した。


「お、来た。ほら、あの人だよ」


口を少し開けて呆然としている七翔に先輩は軽口を叩きながら顎をしゃくった。


七翔はよく男を観察した。 細身の体型に大きな茶色のコートを羽織っている。年齢は四十代前半と言ったところか。 やはり印象に残るのは、その少し大きめな藍色の傘だ。


男は水と個包装のチョコを一つ、迷いなく手に取り、七翔のレジにバーコードを向けた状態で置いた。


近くで見ると、少し痩せこけて髪には白髪が目立っており、苦労が滲んでいるように見えた。そこで七翔は雑念を払い、バーコードをレジにかざしていく。


男は七翔の手をしばらく見据えていたが、七翔が支払い方法を聞くと、我に返ったように小さめのカバンからICカードを取り出した。


慣れない手つきで画面を操作すると、男はカードを端末に少し離してかざした。 そして傘を持っていない左手で軽く会釈し、そのまま静かに店を出ていった。


「で!どうだった?初めて見たろ」


男が去ったと同時に聞こえてきた先輩の愉快そうな声に若干眉をひそめた。


「…えっと、そうですね…?僕は丁寧な方だと思いましたけど…」


欲しい言葉を出してこない七翔に先輩は少しイラついた様子で、やばいよねーと返すと煙草をくるくる回しながらバックヤードへ消えていった。


七翔はそんな先輩を無視して、次の客の対応のためスキャナーを手に取った。


傘を店内で差す男。普通は異常者のように思うだろうが、七翔はそんな風には思えなかった。なのでその日の帰り際、次のシフトの水曜日に丸を書き今日の業務を終えた。


そして次の週の水曜日、七翔はレジ打ちを行いながらもその意識は入口に向けられていた。が、よそ見をしていたのでセロハンテープの切断部分で右手人差し指を切ってしまった。七翔は咄嗟に冷たい水で指先を冷やしていた。


そんな時に濡れていない傘を差したまま、先週の中年男性が入店音を鳴らしてきた。


「あ、」


男は缶コーヒーに手を伸ばしていたが、結局先週も購入していた水だけをまたバーコードをこちらに向けて七翔に差し出した。


七翔は紙ふきんで手を拭き、スキャナーを手に持つ。そんな七翔の手を一瞥して男は口を開いた。


「怪我、しているのか」


七翔の手が止まる。今さっき手を切ってしまったことを明かすと、男はレジを離れ医療用の棚の前に屈んで何かを手に取って戻ってきた。


絆創膏。まさか自分のために?と七翔は思ったが、そのまま商品をスキャンして値段を告げ、男はICカードを取り出して会計を終えた。


男は青白い手で絆創膏を開け、七翔に差し出した。嬉しい反面申し訳なさを感じ断ろうとしたが、男は早く貼って欲しい、と七翔を真っ直ぐ見据えて促してきたので、七翔は人差し指に巻きつけた。


「ありがとうございます。助かりました」


男はそれを聞いて安堵したような表情を浮かべ、軽く会釈すると入口へと向かった。その背中を見て七翔は思わず声を張り上げて呼び止めた。


「あの!」


男は足を止め、後ろ姿のまま七翔の次の言葉を待っている様子だったので、七翔はそのまま続けた。


「なんで雨が降ってない日でも、店内でも傘を差しているのですか?」


男は一拍置き、静かに呟いた。


「家内は雨が好きでね」


そうして男は入店音を鳴らし、街の雑踏に紛れていった。


それから何回か水曜日を経た七翔はそれ以上の踏み込みは出来なかった。


頭の中で男のセリフが繰り返し流れている七翔は有楽町駅の周辺を適当にぶらついていた。


街は夕焼けに染まりつつあり、少しひんやりとした風が人々の衣を揺らした。そんな街並みの中に一つの異変が目に付いた。


藍色の傘に茶色いコートを羽織った中年男性。彼とすれ違った人々は邪魔な傘に眉をひそめ、避けて通っていた。


七翔は思わずそんな男の背中に声をかけた。男はゆっくりと振り向く。


「ど、どうも。コンビニの常連さんですよね?お急ぎのところすいません」


特に驚いた様子もなく、ゆっくりと瞬きを繰り返して口を開く。


「いえ、あのコンビニの店員さんですね。何か?」


七翔は言葉に詰まり、踏み込んでいいのかまだ迷っていた。そんな様子を見かねたのか、男からその話題を出してきた。


「傘の事ですかね?」


「そ、そうです!もしかしてですが、奥さんの大事な傘だったり?」


男は傘を一瞥した後、七翔を真っ直ぐ見据えた。その目には悲しみの色が微かに見て取れた。


「妻の遺品なんです。とても、大事なものなんです」


やはりそうだったのか。胸のモヤモヤが取れた七翔は傘に目を移した。


持ち手は一切の汚れがなく光沢を帯びていて、錆や傷も一切ないように見える。


「凄く丁寧に使われてますね。奥さんもさぞ喜ばれていると思います」


しかし男はどこか妻に申し訳なさを抱えているようで目が曇っていた。


「そうだといいのですが...」


言葉を詰まらせて下に目を落とした男に七翔は意を決して更に踏み込んでみた。


「な、何か気になっていることでもあるんですか?」


男は七翔の顔に目を配って数拍置いたあと、息を吸い端的に伝えた。


「…雨です。妻は、雨を浴びたことがないのです」


七翔はその言葉の意味を理解できなかった。男はそれ以上は語ろうとせず七翔に一礼すると駅内の方へ消えていった。


男はそれからも毎週水曜日にコンビニへ訪れていた。水一本だけは必ず購入して店を出る。それを繰り返し二ヶ月が経とうとしていた。


七翔は男と少しばかりの世間話をする仲になり幾つか分かったことがあった。男の名前は長谷部守一。サラリーマン。そして愛すべき妻が数年前に亡くなった事だった。


だが、あの時の守一の言葉、妻は雨を浴びたことがない、がどんな意味があるのか。それを聞き出せずにいた七翔は、品出ししながら考えてそこである一つの憶測に辿り着いた。


妻は雨が好きだったが生前に浴びることが出来なかった。その代わりに夫である守一がいつでも雨が降ってもいいように、傘を四六時中差しているのではないかというものだ。


だがその時、レジの手伝いを呼ぶ先輩の声で七翔は我に返る。


「は、はい!今行きます!」


と答え、落ち着かないままレジへ向かい対応した。


その日も決まった時間に守一はコンビニへ訪れたが、いつもと違う影が差しているように感じた。


傘を差しているのは相変わらずだが、いつにも増して表情が硬かった。それにいつもは一本のはずの水が二本、買ったことがなかった除菌シートも購入していた。


「何かありましたか?」


慣れた手つきでバーコードをスキャンする七翔は守一に声をかけたが、心がここに無い様子で守一は、ああ、とだけ答えた。


七翔はそれ以上は聞かず、全ての商品のスキャンが終わって守一がICカードをかざすのを待っていたとき、守一が一言七翔にだけ聞こえるように呟いた。


「命日なんだ。妻の、ね」


息を飲む七翔を一瞥し、守一は続ける。


「…薫は、いつも寝たきりだった。いつも病室の窓から雨を眺めて楽しそうにしていたよ」


「奥さん、身体の具合が悪かったんですね…」


同情の目を向ける七翔にやめてくれと言わんばかりに左手を振り、守一はさらに続ける。


「今買ったものはね、今日の墓参りに使うんだ」


そう言い終わると後ろに人が並んでいることを確認して、守一は商品をマイバッグに詰めて入口へ歩き出した。


七翔は守一が店を出る前に、聞きたかったことをぶつける。


「あ、あなたは奥さんに雨を浴びせてあげたかった。…だから傘を差しているんじゃないですか?」


守一は何も言わずに店を出たが、冷たい背中が語っていたように見えた。


曇天の空の下、微かな磯の香りが漂い守一は一呼吸おいた。


そのままの足で守一は亡き妻の墓の元まで訪れていた。落ちている草木や捨てられた缶を拾い、表情を崩さずに墓を見据える。


そしてマイバッグから除菌シートを取り出して墓石を丁寧に拭き始めた。


幾ばくかの時間が経ち、墓石は数年前の光沢を取り戻し、埃一つ残っていなかった。そして守一は購入した水を上から注いだ。


そして、一歩引くと暫くの間手を合わせた。帰ろうとバッグに手を伸ばすと守一の頬に一滴の雫が滴り落ちた。


守一は驚いた表情で頬に手を伸ばして拭った。そして空を見上げてぼそっと呟いた。


「…。まさか…」


塀に立て掛けていた藍色の傘を慌てて手に取り、開いた。次第に雨が強くなり傘を湿らせていく。


しかし守一は傘を、閉じた。


目を閉じて両手を広げながら全身で雨を感じる。茶色いコートが色を変え始め、重く体に張りつく。


暫くして、守一はゆっくりと目を開けた。そして、優しく墓に囁いた。


「…ほら、ご覧。雨だよ」


閉じたままの傘を墓の横に屈んで置くと、守一は少し微笑んだ顔で立ち上がった。そして荷物を持ち、踵を返した。


数歩歩いたところで守一は小さく呟いた。雨が声を掻き消したが、墓だけは聞いていた。


「…やっとだ、やっと浴びれたよ」

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雨を待つ傘 どしゃ @Dosha

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