浅野由紀

 粘り気を感じる。手のひらで絵具をパレットから掬い上げ、白いキャンバスへ塗りたくっていく。手のひらに摩擦を感じる。外ではセミがけたたましく鳴いていたが、駒込栞には何も聞こえなかった。右手を動かすと、青緑色がなだらかなカーブを描きながら生まれた。こめかみから汗が光る。


 魔法使いみたいだ。村木駿はその姿を見て、そう思った。右手のひらをキャンバスにかざせば、紺青色に翡翠色が重なっていく。大きく右へ左へと揺れる小さな背中を目で追う。扇風機の力ない風がその背中を撫でている。村木は開け放たれている扉の外からその様子を見ていることしか、そのときは出来なかった。小さな背中はまだ右へ左へと大きく揺れ、彼女の身長と同じくらいの白いキャンバスを染めていく。


 武蔵野平美術大学映像科。村木はそこの学生だった。才能あふれる学生たちの中で、埋もれ行く一瞬の光。高校生までは自分は唯一無二の才能があるんじゃないかという自信もあった。机に置かれている一眼レフに目をやる。クーラーの効いた部屋で寝そべり、過去を反芻してしまう。時計は午前十時半を指している。

「はあ、行くか…。」

村木はのっそり起き上がり、鏡の前に向かう。耳を隠すくらい伸びた髪を手櫛でなんとなく梳かし、無精ひげに触れる。首元がゆるゆるなTシャツをもぞもぞと脱ぐと、筋肉なんてみじんも感じさせない、あばら骨がうっすら浮き出る貧弱な色白の体が鏡に映る。手持ちの中ではまだマシであるネイビーのTシャツを手に取り、頭から被った。財布とスマートフォン、ペットボトルが入るくらいのメッセンジャーバッグを肩から掛け、机の上にあった一眼レフを首から下げて玄関へ向かう。グレーのクロックスをひっかけ、ドアを開けると、むわっとした空気が体を包む。

「あっつ…」

セミがうるさい。大学までは徒歩五分ほどの古いアパート。カンカンカンと音を鳴らしながら階段を降りる。照り付ける日光を避けるように日陰を探しながら歩くが、太陽が高くなっており、ほとんど日陰はない。足早に何とか門を潜り抜け、木々が生い茂る構内に入る。日陰に入ると幾分マシだった。学生たちの声でガヤガヤしている校舎の廊下を進むと、扉が開いている作業室があった。そこからささやかな冷気を感じる。火照った体を少しでも冷やしたいと無意識にその冷気を求めた。中に目をやると、そこには先客がいた。


魔法使いだった。


何分経っただろうか、火照った体からは熱が引き始めていた。手のひらとキャンバスが擦れる音だけが耳の中で震える。学生たちが廊下を行き交っているはずなのに。摩擦音以外聞こえていなかった。魔法使いが動きを止めた。自分で生み出した色たちを俯瞰するかのように、三歩ほど下がる。この大学には絵がうまい奴なんてごまんといた。才能であふれている奴であふれている。そのときは彼女の絵をうまいかどうかなど評価することはできなかった。とにかく描く姿を含めて、目が離せなかった。息をするのも、瞬きをするのも忘れていた。

「あ、あの…」

村木は動きを止めた魔法使いに話しかけていた。びくっと肩が揺れ、顔がすぐさまこちらを向く。幼さが残る顔だった。身長が小さいこともあり、中学生に見えてもおかしくない。

「あなたを撮らせてくれませんか。」


 武蔵野平美術大学油絵科二年。栞は白が残るキャンバスの前に立っていた。幼いころから一人で過ごすことの多かった栞は、絵を描いていた。特別うまいというわけではなかった。少なくとも、うまいと評価されることはなかった。本当に一人で描いていただけなのだ。一つに束ねた髪が揺れる。パレットに絵具を絞り出す。黒、緑、青、黄色、白。それらを指先で混ぜる。藻が混ざる湖のような色が現れ、それを右手で掬い、キャンバスのすでに色がついている部分に手を重ねる。描いている間は、何も聞こえないし、暑さも寒さも感じない。ただ心に湧き上がる揺らめきを乗せていく感覚だった。その感覚は、気持ちよさだけでなく、少しだけ不快感も伴うものだった。


「え…」

栞は状況が飲み込めなかった。扇風機の弱弱しい風が、栞の前髪を撫でる。フェードアウトしていたセミの声も聞こえるようになってきた。開け放たれた扉の前に立っている男性は、よれよれのTシャツに七分丈のズボン、クロックスという出で立ちだった。首からぶら下げた一眼レフが浮いている。

「あなたの背中がいいな、と思ったんです。」

大きな目がまっすぐと栞に向いている。

「色も、引き込まれるっていうか、目が離せなくなりました。肉眼とレンズを通してじゃ、印象が変わるかもしれないけど、撮りたいんです。」

村木の口からは自然と拙い言葉がこぼれた。少しずつ自分が何を言っているのか冷静に分析する頭が戻ってきた。何を言っているんだ俺は、こぼしてしまった言葉たちを取り消そうかと思い始めた。

「それで、ですか?」

栞は村木の首からぶら下がっている一眼レフを指差した。顔はこわばったままだった。

「え…あ、はい。俺、映像科で。ショートムービーとか作ったりしていて。」

慌てて答え、ぶら下がっている一眼レフを軽く持ち上げてみせる。

「だ…だめですかね…」

いきなり撮りたいだなんて言われても気持ち悪いよな、と村木は自分の言葉を省みた。もう謝って立ち去ろう。

「いいですよ。」

魔法使いは手元のパレットを見つめながら、小さな声でそう言った。聞き間違いでなければ了承されたということだろうか。

「え…いいんすか…」

なぜか村木が戸惑う。魔法使いは無言でパレットを見つめたままだった。とりあえず、もっと話したいと思った。

「よかったら、お茶でも…」

魔法使いはこちらを真ん丸な目で見つめた。


 カランと扉に付いたベルが鳴る。テーブル席が2つ、カウンターが5席の小さな喫茶店だった。先客はカウンターに座り、マスターらしき男性と話をしていた。村木は奥のテーブル席に着く。続いて栞も荷物をおろしながら席に着く。

「何にします?コーヒーがおいしいっすよ。」

ラミネートされたメニューを差し出す。栞はメニューの上から下に目を泳がし、少し悩む。

「コーヒーは飲めなくて…。…ロイヤルミルクティーにします。」

栞は俯きがちに言った。村木は少し笑い、マスターにコーヒーとロイヤルミルクティーを注文する。

「名前、聞いてもいいっすか?」

まだお互いの名前も知らない。魔法使いは「駒込栞です。」と小さく言った。栞とは目が合わない。どうにか目を見たいと思い、村木は栞の顔を覗き込む。

「な、なんですか。」

栞は顔を背ける。村木は一瞬見えた丸い目を、綺麗だなと思った。色素の薄い、茶色い瞳だった。

「俺は村木駿です。よろしく。」

無精ひげがチラつく口元がにっと上向く。そうだ、と村木は鞄からタブレットを取り出し、左手で持ちながら、右手の人差し指でサッサっと操作していく。

「俺の撮ったやつ、見てみてください。」

そう言ってタブレットの画面を栞に向けて、再生ボタンを押す。栞は画面を覗き込む。どういう映像を撮るのか気になっていた。流れた映像はどこかの森の中のようだった。苔むした石と石の間に咲く白い花、木漏れ日で輝く道、光をまといながら流れていく水。無音声で見ても、その森林にいるかのような感覚になった。特別変わった演出はない、ありのままの風景を丁寧に撮ったものだった。

「俺、そんな才能とかあるわけじゃなくて、綺麗だなと思うものを撮っておきたいっていうか…。手触り?が感じられるような映像を撮りたいとは思ってはいるんですけど…。こんなのしか撮れない奴に、撮りたいって言われても困るっすよね。」

村木は自嘲気味に笑いながら、言い訳のように続けた。

「描きたい。」

「え…?」

栞はまっすぐ村木を見つめた。丸い茶色い瞳がまっすぐ飛び込んでくる。綺麗だ…そう思うと視線はまた下を向いてしまった。

「描きたくなりました。今、とてもキャンバスに向かいたい気分です。」

褒められていると思った。魔法使いが自分の作品を認めてくれたようで、純粋に嬉しかった。感情が顔に出ているのを悟られないように、下を向き、タブレットを鞄の中にしまう。

「ロイヤルミルクティーとブレンドコーヒーです。」

マスターがカップを2つ運んできた。湯気がゆらゆら揺れている。


 二人は連絡先を交換して、解散した。お茶をしながら、栞の過去の作品を見せてもらった。カラフルなそれらは村木をわくわくさせたり、しんみりさせたりした。率直に言えば、栞の作品が好きだった。今日見た作業室での風景が、レンズを通した映像になることを想像する。どうしたら、あの引き込まれる感覚を表現できるか…頭の中で風景を切り取り、アップしてみたり引いてみたりした。空想に耽っていたら、いつの間にか日付を跨いでしまっていた。


「はよっす。」

小さく肩が揺れる。栞がこちらに振り向くと、束ねた髪もこちらへ揺れた。

「お、おはようございます。」

綺麗な瞳はすぐに村木の視線を避け、下を向く。栞の背ほどあるキャンバスは深い水の底のような色をしていて奥行きを感じさせた。

「さっそくカメラ回してみてもいいっすか?」

村木は栞の返事も待たずに三脚を組み立て始める。栞も来たばかりなのだろう、部屋の冷気はまだ弱かった。額に汗が滲む。

「俺のことは気にせず、描いていてください。」

手際よくカメラのセッティングを進める。栞は特に反応せず、無言でパレットに絵具を絞り始めた。ちらっと視線を感じる。村木はセッティングの手を止め、栞のほうを見た。

「…やっぱりナシっすか…?」

気持ちと行動が先走ってしまっていたことに気付き、村木は焦る。栞は俯きながら、首を横に振った。

「でも、どうしたらいいかわからなくて…。」

栞はパレットに色を垂らしながら呟く。

「いつも通りでいいっすよ。それを撮りたいんで。」

村木は淡々と答えた。栞は動きを止め、キャンバスを見つめた。この深い青緑色にどういう感情を乗せているのかは誰も知らない。栞でさえ言葉にできない。

「じゃあ、回しますね。」

ピッと録画開始の合図が鳴る。栞の肩はこわばり、いつも通りになんかできる気がしなかった。軽く震える指先でパレットの絵具を混ぜる。右手のひらでその色を掬い上げ、恐る恐るキャンバスに乗せると、海松色が湖の中に沈んだ。スイッチが入る音がした。


ピッと村木は録画停止ボタンを押した。栞はキャンバスを俯瞰するように三歩下がっていた。背筋をぴんと伸ばし、まっすぐと前を見つめる姿。綺麗だ、と村木は思った。栞がふうっと息を吐いた。

「撮れましたか?」

束ねた髪が揺れ、丸い目がこちらを向いた。

「うん、撮れたっすよ。」

村木は視線を逸らす。眩しすぎる栞のことをまっすぐに見ることができなかった。魔法使いだと思った昨日の感情は嘘ではなかった。この作業室が魔法にかけられたような時間だった。油絵の具の香りと、摩擦音、小さな背中から生み出される深い湖。10人入れば圧迫感のあるような部屋が、広い静かな湖のほとりになった気がしたのだ。村木は不安だった。この感覚を映像にすることができるだろうか?スクリーン越しでも近しい感覚を見る人に与えられるだろうか?自分の力のなさを恨んだ。

「今日はありがとうございました。よかったら、メシでも食べに行きませんか?」

もう時計は十四時を指していて、いつの間にか五時間ほど経っていたことに驚いた。

「…はい。片付けるので、少し待っていてください。」

先ほど目の前でキャンバスに向かっていた魔法使いだとは思えないほど、栞はおどおどとした様子だった。村木はそのギャップにもやられていた。視点が栞からキャンバスへ移る。自分の作品にも、この作品のような深さを出したい、村木はイメージを膨らませる。大きく揺れる小さな背中、束ねた黒い髪。絵具まみれの右手、茶色い瞳、深い湖の色…

「村木さん?」

丸い目が村木の顔を覗き込んでいた。

「そうだ…。」

村木はハッと思いつき、乾いた絵の具がついている栞の右手を咄嗟に握った。

「デートしませんか。」

丸い目がさらに真ん丸になった。


 駅前の呼び込みの声とセミがうるさい。コンクリートから伝わる熱と頭から降り注ぐ強い日差しに挟まれ、鉄板の上で焼かれる肉の気分だった。村木はしゃがみこみ、花壇に植えられている花をパシャリと撮った。日の光が強く、彩度が高い。ボタンを操作して調整する。パシャパシャと何枚か撮る。汗で濡れた鼻がモニターに触れ、水滴を作る。

「村木さん。」

声がするほうを見上げる。モスグリーンのTシャツに大きめのデニムを合わせ、黒いサンダルを履いている栞がいた。

「いやあ、暑いっすねえ。」

右手でカメラを支え、左手を膝に手をつき立ち上がる。栞の目線を越していく。

「こんな暑い中お待たせしてしまってすみません…。」

栞は申し訳なさそうに俯く。

「全然大丈夫っす。花も撮れたし。行きましょう。」

今日二人が向かうは井の頭自然文化園だ。吉祥寺の騒々しい人混みに潜り、少し歩くと木々生い茂る道へ抜けた。日陰に入るとほんの少しだけ暑さが和らいだ気がした。

「今日は無理言って、すみません。」

振り返りながら、大きめな声で栞に投げかける。少し歩くスピードが速かったのか、数メートル離れたところに栞は続いていた。村木は距離を縮めようと立ち止まる。

「大丈夫です、でも何で急にデートなんて…。」

駆け寄ってきた丸い目が村木を見上げる。出会って三日目。距離の取り方がバグっていると言われても不思議ではなかった。昨日感じた、物足りなさを埋めたくて栞を連れ出した。自分勝手な理由を直接的には言えず、「あの絵みたいにしたくて。」と村木は呟いた。あの奥行き感を映像でも表したい。そのためには魔法使いのことをもっと知らなくてはならない、そう思ったのだ。

 歩調を合わせながら進み、井の頭自然文化園の入り口に辿り着いた。売り場でチケットを購入する。中に入るとまばらに人がいて、動物を眺めていた。日陰が少なく、太陽光が肌を刺しヒリヒリする。

「何から見ますか?」

マップを広げて栞に見せる。

「象が見たいです。」

栞は乾いた絵具が残っている右手の人差し指で、マップを指す。きちんと切られている爪の形が綺麗だった。

「了解っす。行きましょう。」

無精ひげを伸ばした口元がにっと上がり、それを見た栞の口元も小さく上を向いた。象のエリアに着くなり、栞は近くのベンチに座った。

「少し、描いてもいいですか?」

座っている栞は村木を見上げた。

「いいっすよ。俺も撮っていいっすか?」

栞は小さく頷き、おもむろに鞄からスケッチブックとクレヨンを取り出す。ベンチは日陰の下にあって、丁度よかった。さらさらと風に乗る黒い髪。栞がクレヨンを持った右手を動かすと、スケッチブックの白い紙の上に懐かしい質感が現れた。栞は象を見たまま描いたわけではなかった。緑のクレヨンで何重にも円を描き、それを横切るように黄色い線が通った。黄緑色が生まれる。まっすぐな黄色い線から、なだらかな線も生まれた。村木は象のアップから段々と引き、視点を下げて栞の手元が映るようにカメラを動かした。時たま象を眺める栞の長い睫毛が揺れる。やっぱり魔法使いだ、と村木は栞の横顔を撮った。


「今日は楽しかったっす。ありがとうございました。」

十七時を過ぎていたが、まだ明るい。駅の改札は人が行き交い、混雑していた。

「こちらこそ、描いている時間に付き合わせてしまって、すみません。ありがとうございました。」

栞が軽く頭を下げ、じゃあと言って立ち去ろうとする。村木は絵具の残った右手首を咄嗟に掴んだ。

「また明日も、撮っていいですか?」

丸い茶色い目を見つめる。栞は戸惑いながらも振りほどかない。

「もう撮ったんじゃ…。」

「まだ足りないんです。もっと、もっと必要で、…お願いします。」

あの深さを出したい。村木はあの絵を思い出していた。じっと栞の丸い目を見つめる。栞も目を逸らさなかった。掴んだ右手首に熱さを感じる。

「わ、わかりました。じゃあ明日も作業室で。」

気迫に負けたように栞が口を開く。心の中でガッツポーズをしながら、村木はにっと笑い、手を離した。

「ありがとうございます。明日も楽しみっす。」

じゃあと右手を軽く上げ、雑踏の中に飲み込まれていった。栞はそんな村木の背中を見えなくなるまで目で追っていた。


 構内の木陰のベンチに座りながら、コンビニで買ったサンドイッチを頬張っていた。隣にいる栞もサンドイッチをおいしそうに味わいながら食べていた。村木は結局初めて出会った日からほぼ毎日、栞のところに通い詰め、撮っている。五分から十分程度のショートムービーにしようと思っているが、構想がうまく練れない。

「コンペに参加しようと思うんです。」

俯きがちに栞が呟く。誰かと競うような質ではないと勝手に思っていたが、それは村木の思い込みでしかなかったのかもしれない。

「私、そういうのに一度も応募したことなくて。自信もないし、評価されるのもこわいし…。でも、なんか急に応募してみたいなって思ったんです。あの作品は、コンペに出して昇華したいなと思ったんです。」

誰に見せるわけでもなく、とにかく描いていた日々。一人で作品に向き合い、自身の中で完結させていた作品たち。それらを誰かに見てほしいと村木と過ごす日々の中で栞は思ったのかもしれない。

「いいっすね。」

村木はほかの人にこの魔法使いが見つかってしまうかもしれないことが嬉しくも、少し寂しい気もした。サンドイッチを咀嚼しながら、少し考えた。

「俺もコンペに出します。」

「え…」

丸い目がこちらを覗く。無精ひげが残っている口元がにっと持ち上がる。

「ケツ決めて動いたほうが、構想も練れるかもしれないし。」

正直、行き詰まっていた。あの作品の深みや、栞という魔法使いの魅力を伝える術が思いつかなかった。没入感のある映像にしたい、無音声で作りたい、それだけしか考えられていないのが現実だ。もう二十日程撮っているのに、まだカットも何もしていない。データだけが溜まっていっている。

「お互い頑張りましょう。」

最後の一口をひょいっと放り込み、村木は言った。そして、隣の丸い目に視線をやった。茶色い丸い目はまっすぐにこちらを見ていた。

「はい、そうですね。頑張りましょう。」

どういうジャンルであれ、競争の厳しい世界だ。上には上がいる、才能であふれている奴であふれている。村木は飄々としている性格とは裏腹に、感覚ではなく緻密に計算するタイプだった。それゆえに苦悩も多く、頭でっかちな作品になりがちだった。いい機会だ、と村木は魔法使いから貰ったチャンスを活かそうと思った。


 すっかりセミの声も聞こえなくなり、日差しが和らいだ季節。相変わらず二人はあの作業室にいた。大きく揺れる小さな背中を追いかけるレンズ。ザッザッと響く摩擦音以外、音はない。栞がパレットに絵具を絞り出すタイミングで、村木も録画停止ボタンを押して、別角度から撮るためにカメラの位置を変える。ちらりとこちらに視線を向ける丸い目。視線がかち合うが、すぐに逸らされてしまう。栞は手元のパレットで色を作った。

 藍色と納戸色が混ざったような青がキャンバスの真ん中を横切る。キャンバス上部には水のきらめきを表すかのように白と菜の花色が漂う。村木は栞に近づき、パレット上で作られる色も撮った。絵具まみれの指先がくるくると回る。その指先から生まれた色を、大胆にも右手の四本の指で掬い上げ、キャンバスに重ねていく。手のひらからパレット上とは違う印象の色が伸びていった。やっぱり魔法みたいだ、と村木はその色にときめく。キャンバスに向かう茶色い丸い瞳と長い睫毛が横顔から覗く。その瞬間もレンズに収めた。

 

村木は六帖一間の古いアパートの一室で、うんうん唸りながらパソコンに向かっていた。取り込んだデータを整理して、カットしながらつなぎ合わせていく。カットしすぎてもつぎはぎに見えるし、だからといって長回しのままにしているとだらだらとした印象になってしまって難しかった。水の素材が欲しい、と思った。水面から勢いよく潜るような映像を差し込むことで、あの魔法の空間への没入感を表したかった。村木の中であの絵のイメージは湖で固まっていた。机の上に置いてあったスマートフォンを手に取り、タタっとメッセージアプリを開く。通話の呼び出し音が響く。

「もしもし?明日、河口湖に行きません?」

「…は?」

耳元で栞の驚きを超えて呆れたような声が聞こえた。


 揺れる中央線に二人で並んで座っていた。河口湖まで行く方法はバスなどもあったが、少しでも節約しようと中央線で大月まで出て、富士急行線に乗ることにした。例年台風が多く来る季節だったが、今日は快晴だった。

「晴れてよかったですね。」

近づく山々に目をやりながら、栞が微笑む。

「でも突然、河口湖だなんて…いつも急ですよね。」

思い立ったら即行動してしまう村木は、少し申し訳なくなってこめかみ辺りを掻いた。

「思い描いている素材が欲しくて。で、どうせ行くなら一緒にどうかなって。」

にっと口角が上がる。もう、と栞は背もたれに寄り掛かり、鞄からスケッチブックを取り出した。ぱらぱらとページをめくると、鮮やかな色たちが目に飛び込んでくる。村木は隣からそれを覗き込んだ。クレヨンで描いたとは思えないそれらは、村木の心を躍らせたり、もの悲しくさせたりした。

 河口湖駅に到着した二人は、ほとりをぐるっと散歩することにした。山々がほんのり赤く色づき始めていて、駅舎の向こうには大きく富士山が見える。河口湖駅の近くにあった総菜屋でメンチカツを買い食いして小腹を満たし、歩き始めた。黙々と歩いていたが、沈黙を破るかのように栞が口を開いた。

「どうして、映像科に入ったんですか?」

村木は突如放たれた素朴な疑問に一瞬たじろいだ。口を開くのを躊躇い、力なく微笑む。

「うーん、ありきたりな話っすよ。」

本当にありきたりなのだ。浅木薫という監督の影響だった。彼は日常の機微を丁寧に撮る人だった。中学二年生の頃に八十五分の映画を観たときは、感動で視界が歪んで、まともに見られなかったくらいだ。誰だって始まりはそんなもんだろう、村木は特別感のない自分に嫌気がさしながらも、栞に簡単に説明した。ふーん、と栞は村木の顔を見上げながら歩いた。

「そっちこそ、どうして油絵を?」

聞かれたら、聞き返すという会話の基本をなぞった。

「私もありきたりですよ。小さな頃から一人で絵を描いていて…色々なもので描いてみて、しっくり来たのが油絵だっただけです。」

栞は祈るように手を組み、俯きがちに言った。村木もふーんとだけ言って、二人は再び黙々と歩くこととなった。たまに村木が立ち止まり、写真を撮る。赤く染まり始めている山々、雪を被っている富士山、きらきらと光を反射する湖面。そんな風景をバックに栞の後ろ姿も撮った。

「あ…」

栞が声を上げる。視線の先にはアヒルのボートがあった。村木は栞の思考を読むように「乗りますか!」と言い、栞の手を引いた。

三十分で千円だった。いい商売だな、と思いながらも千円札をおじさんに渡す。アヒルに乗り込む二人。栞からワクワク感が伝わってくる。足元のペダルをこぎ始めると、湖面をかきわけ前進した。

「わあ…!意外と大変なんですね、これ。」

ペダルが意外と重い。左右に軽く体を揺らしながら、ペダルを漕いでいく。湖の真ん中に近づいたところで、二人はふうっと息をついた。

「俺、やりたいことあるんすよね。ていうか、このために来たっていうか。」

ゴソゴソと鞄をあさり、防水の小型軽量カメラを出した。

「これをドブンと沈めたいわけですよ。」

村木は自撮り棒を取り付け、ボタンとパネルを操作しながら、セッティングしていく。セッティングを終えた村木は、左隣に座っている栞のほうへ向き、にっと口角を上げる。

「いきますよ?」

ドブンと音を立て、キラキラした湖面に勢いよく自撮り棒を掴んだ右腕が飛び込んだ。水しぶきが光る。栞の茶色い瞳にそのシーンが焼き付く。次の瞬間にはバシャッと音がして、右腕がカメラとともに湖面から現れた。Tシャツの裾で濡れた右腕を拭きながら、カメラを操作する。

「どうですか?」

栞は我先にとカメラの画面を覗き込む。そんな栞の頭を避けながら、村木が操作をして小さなモニターに映像が流れる。快晴の風景が映る。ドプンという音と同時に空と湖の境目を超えて、気泡を纏いながら一面エメラルドグリーンになる。段々と底のほうに視点が動いき、萌葱色へとなだらかに続いていく。天気がよく、この時期にしては日差しが強かったのも影響してか、色が鮮やかに見えた。

「すごい…!」

栞は感嘆した。村木も思っていたよりも鮮やかに撮れたそれに満足していた。インターネットで探せば、似たような素材はいくらでもあると思うが、自分で作り出したものに意味があると思っていた。村木はもう一度操作をして、何度かドブンと沈めて撮った。そうこうしている間に三十分が経とうとしていたので、二人は慌ててペダルを漕ぎ始め、岸へ戻っていった。

 岸に着き、アヒルをおじさんに返した二人は、歩き始めた。

「私も描いていいですか?」

栞は村木の返事を待たずに近くの階段に腰かけ、スケッチブックとクレヨンを取り出した。村木もそんな栞の隣に腰かけ、レンズ越しに風景を改めて見る。ピッと録画開始のボタンを押した。雲一つない青空から、赤く染まりつつある山を経由して、しゃらしゃらと輝く湖面にゆっくりと視点が移っていく。そして、隣で白から青に染まっていくスケッチブックを映す。縦長の長方形が描かれ、その中を青、緑、黄色、橙色で塗りつぶしていく栞。長い睫毛が揺れる。太陽が落ち始めた。

 

河口湖から帰った翌日から、栞の制作スピードは上がった。そんな栞に置いて行かれないように村木も食らいついていった。

「うん…」

栞はパレットを椅子に置き、五歩ほど下がって言った。村木は無言でその様子を収める。

「…できた、できたと思います!」

ぱあっと明るい顔がこちらを向く。だがすぐに撮られていることを思い出し、顔を逸らす。「青」とタイトルのつけられたそれは、見ている村木をぼうっと湖の底へ誘うような色をしていた。

「間に合ってよかったっすね。」

コンペの締め切りは十五日後だった。自動車免許を持っていない栞は、自分で搬入ができたいため、すぐに搬入の手続きをしなければならなかった。コンペへの応募方法はなかなか煩雑で規定も多かった。大賞を獲れば個展を開くチャンスもあるため、ギャラリーのレイアウト図を合わせて提出する必要もあったりして、残り十五日でそれらを考えるとなるとギリギリの完成だった。

「はい、よかったです。」

栞はホッとしような顔をして俯く。

「どうしました?」

少しかがんでその顔を覗き込むと、茶色い丸い瞳が潤んでいた。


「お邪魔します。」

恐る恐る靴を脱ぎ、足を踏み入れる。

「どうぞ、狭くて散らかっていますが。」

おずおずと栞が村木を部屋へ招き入れる。部屋は白がベースになっていて、所狭しと栞の絵が置かれていた。キャンバスに絵具を落としたみたいだ、と村木は思った。床に転がっているキャンバスを持ち上げる。それは木賊色の円を蒲公英色の線が横切っている絵だった。動物園に行ったとき描いていたものを元にしたらしかった。

「どうぞ。」

シンプルな透明のグラスに冷たい麦茶が注がれていた。どうも、と麦茶を口にする。ついさっきの出来事を思い出した。

 お互い片付けをしている最中、長いこと時間をかけていた作品が一つ完成した高揚感と安心感をあふれんばかりに振り撒きながら、栞は村木に「うちに来ませんか?打ち上げしましょう!」といきなり言った。唐突だったので村木はかなり面を食らったが、すぐに「いいっすよ。」と言って、片付けを進めた。平気な顔をしていたが、魔法使いの家に招待されたことに、少しワクワクしていた。

 カラフルな栞の作品に囲まれながら、絵の解説を聞いてみたり、栞が応募するコンペについて一緒に調べたりして時を過ごした。

「これはどういうイメージなんですか?象を見に行ったときのやつっすよね?」

木賊色の円を蒲公英色の線が横切っている絵を持ち上げて見せながら、栞へ投げかける。

「これは、そのまま象のイメージです。ほがらかな優しい顔をしているじゃないですか、象って。それを描いたんです。」

栞は一生懸命に説明してくれた。魔法使いのフィルターを通すと象はこう見えるのかと、村木は感心した。

「あ、電車大丈夫ですか?」

栞がはっと現実に戻る。栞の家の最寄り駅と村木の家の最寄り駅は一駅離れているだけだったが、歩くには少し遠い。名残惜しいな、と思いながらも村木は立ち上がる。

「そうっすね、帰ります。絵、見せてくれてありがとうございました。」

栞と一緒に玄関へ向かう。

「駅までの道、わかりますか?」

心配そうに声をかける栞に、にっと笑いかける。

「大丈夫っす。じゃあ。」

ドアを閉めながら、手を振る。栞も「じゃあ。」と手を振った。帰り道は風が強く、少し冷えた。


 六帖一間でパソコンをまっすぐと見つめる村木。長回しした素材をカットして繋ぎ合わせていく。完成するんかなこれ、と思いながら背伸びをし、天井を見上げる。瞼を閉じて、今日訪ねた魔法使いの家を思い出した。白い部屋にカラフルなキャンバス。ほのかに油絵の具の香りもした。何より栞に絵の解説をしてもらえたことが嬉しかった。魔法使いの秘密を知ったみたいな高揚感があった。


 翌日、作業室を訪れると机でパソコンに向かう栞の姿があった。キャンバスには布が被せられていたので、さっぱりとした部屋に見えた。

「はよっす。早いっすね。」

村木はマフラーを取りながら栞に話しかけ、隣にあった椅子に腰かけた。

「おはようございます。そういう村木さんも早いですね。もう撮るものないのに。」

そうだ、もう撮り終わったのだった。朝九時には作業室へ来て、二人で話しながら各々準備をし、作品に打ち込むことがルーティンになっていたため、自然と起きて来てしまったのだ。栞が居るかどうかは少し賭けだった。

「レイアウト図の進捗、どうっすか?」

栞の目の前にあるパソコンの画面を覗き込む。

「今回の作品を中心に考えると、割とイメージ湧きやすくて。もうすぐ終わりそうです。」

茶色い丸い目がやわらかに細くなる。それを見て相変わらず無精ひげが伸びている口元がにっと上向き、「じゃあもうあとは搬入だけっすね。」と言った。


 年が明け、冷え込みが厳しい季節になった。一通の封筒が郵便受けに入っていた。差出人はコンペの主催者だった。封筒をビリっと開ける。栞は一枚の紙に目を通した後、それをくしゃくしゃに丸めて床に投げ捨てた。


 吐く息が白い。冷え込んだ作業室を覗くが、そこに栞の姿はない。今日もいないか、と村木は扉を閉める。年が明けてからも、毎日作業室を覗いていたが、栞の姿を見ていない。村木からもなんとなく連絡できずにいた。もう既にコンペの結果発表はされているはずだった。右手に持った「フィルムコンテスト 大賞」展示会のフライヤーに視線を落とした。


 もうどのくらいキャンバスに触れていないだろう、栞はベッドに横になりながら、ぼうっと天井を見つめた。涙なんかは出なかったが、心から何かがすっぽりと抜け落ちた感じがしていた。村木が撮ってくれていたことで、自分の作品と自分自身が他人から認められている、と勘違いしていたのかもしれない。栞はそんな自分の思考に気付き、過去を消し去ってしまいたい気持ちに駆られた。何もする気になれず、食事もまともにしていなかった。このまま死んでしまってもいいかも、なんて思った。深く深く沈んでいく感覚。もうこの沼から這い出ることができないかもしれないという不安と焦燥感。栞はもう描けないかもしれないと思うと、悲しくもあったが、どこかホッとするような気持ちになった。

 ピンポーンと音が鳴った。栞は時間差でインターホンが鳴ったのだと気付き、重い体を起こした。画面に映し出されていたのは、ネイビーのぶかぶかのダウンを着た村木だった。通話ボタンを押す。

「はい。」

「あ、突然来ちゃってすみません、今話せますか?」

誰とも話したくない気分だった。外界と距離を置いておきたい気分だった。若干の苛立ちを感じる。

「無理です。」

思ったよりも冷たい言い方になった。村木に八つ当たりしても仕方ないのに。床に転がっている丸めた紙に目をやる。

「そうっすか…。わかりました。じゃあ、また。」

そう言って村木は郵便受けに何かを入れて、あっけなく去っていった。もう少し粘ってくれいていたら話せたかもしれないのに、と栞はさらに苛立ちを感じた。そんな自分勝手な感情に気付いて、自分に嫌気がさした。村木が何かを郵便受けに入れていたことを思い出して、玄関に向かう。カチャッという音を立てて郵便受けを開くと、一枚のフライヤーが入っていた。フィルムコンテストの大賞を受賞した作品の展示会開催についてのものだった。受賞者名には「村木駿」と書かれていた。栞はその名が見えた瞬間、その手の中にあった紙を丸めてドアへ投げつけていた。こんな感情が自分から生まれてくるなんて思っていなかった。黒くてドロドロした嫉妬の波が栞を押し寄せていた。感情の高ぶりに合わせて、涙が頬を伝った。


 来てくれるだろうか。村木は展示会の準備をしながら、ふとした瞬間に栞のことを思った。自分がコンテストに応募し終わっていたことも、栞は知らなかっただろうし、栞の状況を考えると来てくれない可能性のほうが高いと思っていた。

「村木さん。」

展示会の準備を手伝ってくれているスタッフに話しかけられる。頭を切り替え、作品をよりよい状態で見てもらえる空間づくりに励むことにした。このコンテストの審査員長は、憧れの浅木薫だった。栞を心配する気持ちより、憧れの人に自分の作品を認めてもらえたという高揚感のほうが勝っていたのだ。

「こんにちは。」

小休憩がてらスタッフと打ち合わせをしているところに、浅木薫はやってきた。

「浅木薫だ…。」

思考がそのまま口から漏れた。浅木は、ははっと笑った。

「村木くんだよね?今回は受賞おめでとう。」

憧れの監督が目の前にいると思うと、視界がチカチカし始めた。「ありがとうございます。」と言い切らないうちに、浅木が口を開いた。

「でも、勘違いしちゃだめだよ、今回は君一人の力じゃない。」

チカチカしていた世界が、白く染まり始める。

「今回、結構悩んだんだ。あくまでフィルムコンテストだからね、君の受賞という形になったわけだけど。」

ああ、そっか、と村木はすぐに力なく納得していた。俺の作品だけど俺だけの作品じゃない、「青」の映像版を目指してしまっていたことに今更ながらに気付く。「はい。」と俯きがちに答える。

「あの子も来るんでしょ?来るなら会ってみたいな。」

浅木は笑顔で投げかけてくる。

「…わからないっす。来てくれるかどうか…。」

村木はすっかり落ち込んでいた。半分以上栞の力で受賞したと言われているような状況を目の当たりにして、世界が揺らぎ、足元もグラついた感じがしている。ちょっとばかし浮かれていた自分を恥じ、着々と進められていた展示会のギャラリーから逃げ出したくなった。


 そこからのことはあまり覚えていなかった。流れに身を任せるだけだった。桜が咲き始めようとしていたと思う。展示会は新宿で五日間の開催だった。村木はギャラリーに来る人々をぼうっと眺めていた。魔法使いの背中を映したムービーが部屋中央に流れている。それを囲むように、写真も飾られていた。写真やムービーの説明を求められるが、心ここにあらずな状態で、虚ろに答える村木に客も呆れて少し会話したあとには離れていった。

「休憩いってきてください。」

心配そうにスタッフが村木に話しかける。はい、と村木はふらふらギャラリーから出ていった。だいぶ暖かくなった。コンビニでサンドイッチを買い、近くにあった小さな公園のベンチに腰かけた。風に合わせて桜の花びらが舞っている。ひらひらと落ちてくる一枚の花びらにピントが合う。この感覚を、栞ならどうキャンバスに落とし込むのだろう、と村木はピントを遠くの桜の木に戻しつつ、そんなことを思った。

 サンドイッチを適当に胃に押し込み、ふらふらとギャラリーに戻った。せっかく大賞を獲り、展示会を開催できているのに身が入らなかった。

「おかえりなさい。」

近くにいたスタッフが村木に声をかける。

「休憩ありがとうございました。」

村木は力なく返し、ギャラリーを見渡す。数人の中に、見覚えのある小さな背中があった。部屋の中央に流れるムービーに見入っているようだった。村木の胸は高鳴った。

「あ、あの…!」

タッと近寄り、右肩に触れると、長くなった黒髪が揺れ、振り向いてこちらを見る茶色い丸い目が見えた。ぶわっと音を立てて心が毛羽立った気がしたが、平然を装った。

「どうですか、俺らの作品。」


 没入していく感覚。共に過ごしたあの空間をリアルに感じていた。たった数か月だったが、人生の中で一番きらきらしていた時間だった。共に目標に向かう仲間がいて、自尊心も満たされ、自信もあった。この映像を見ていると、キャンバスと右手が擦れる感覚に陥る。ドブンと空と湖面の境目を越して、一面エメラルドグリーンになったあと、「青」にシームレスにシフトしていく。ゆっくりとカメラが引いていき、全体を映し出す。引きの画になったとき、栞の揺れる小さな背中が見えた。右へ左へと大きく揺れる背中、合わせて揺れる黒い束ねた髪。スクリーンに映し出されたそれは、あの夏の魔法使いの部屋だった。


「最高ですね。」

村木の目を見つめ、微笑む。丸い茶色い瞳は潤んでいた。ふっと笑いながら、栞は俯く。長い睫毛がよく見える。


 あっという間に五日間の展示会は終わった。あのあと栞は三日連続で来てくれて、朝から夕方までスクリーンや写真を眺めていた。そんな姿に安心感を覚えた。

 栞は浅木薫にも会い、何やらべた褒めされたらしいが、コンペに落ちたという事実のほうが重いらしく、褒められたことを素直に受け止められていないようだった。魔法使いがべた褒めされたと聞いて、村木はどす黒い気持ちよりも誇らしい気持ちのほうが勝った。そんな自分にホッとした。

「五日間お疲れさまでした。」

カンッとグラスが鳴る。麦茶の入ったグラスを口に運ぶ。白い部屋は相変わらず、絵の具を落としたみたいに鮮やかだった。床に転がっているキャンバスに目をやる。

「全部捨てようかと思ったんです。でも、やっぱり捨てられなくて…。」

栞は困ったように笑った。座りながら、横にあった四号サイズの木賊色の円を蒲公英色の線が横切っている絵を両手で拾い、象を見たあの夏を思い出した。鼻に汗を滲ませながら、クレヨンでスケッチブックに色を乗せていく魔法使いのことを思い出すと、心が洗われる気分になった。

「この絵、買わせてください。」

絵から栞に視線を移す。丸い目は村木を見つめていた。栞の絵が欲しいと思っていた。前回訪れたときに、お願いしなかったことを帰ってから後悔していた。

「買うって…。お金なんていいです、捨てようと思っていたくらいのもので申し訳ないですけど、そんなものでよければ、あげます。」

栞は両手を軽く振りながら、口早にそう言って俯いた。

「いや、買わせてください。駒込栞の最初の客になりたい。」

村木の口から初めて自分の名前が出たことに驚いた。まっすぐに栞の瞳を見つめてくるその瞳に吸い込まれるような感覚になった。申し訳なさと嬉しさが、入り混じる。

「わ、わかりました。…ありがとうございます。」

栞のその返事に、村木はにっと笑い、手に持っているキャンバスを掲げて見上げた。自分が栞の絵のファン第一号なのだと、改めてその事実を噛みしめた。

「本当にいいんですか?」

栞は別れ際におずおずと聞いてきた。村木は財布に入っていた数枚の札を全て栞に渡していた。

「むしろ、買わせてくれてありがとうございます。少なくて申し訳ないっすけど。」

「全然…!本当にありがとうございます。」

嬉しそうに栞は微笑む。じゃあ、と左腕にキャンバスを抱えながらドアを開ける。気を付けて、と栞は右手を軽く振る。パタンとドアが閉まった。栞は鍵をかけて、部屋に戻った。すぐに昔に一度だけ使ったレターセットを掘り出し、村木から受け取ったお金をかわいらしいペンギンの絵が描かれた封筒に入れた。これを額に入れて飾っておきたい、そんな気持ちだった。この気持ちの行き場をキャンバスに求めたい衝動に駆られた。


 雑然としている六畳一間に彩が添えられた。棚の上に立てかけられているその絵を見ていると自然と口角が上がる。魔法をお裾分けしてもらった気分だった。


 新入生を歓迎する声で構内は溢れていた。いつもより浮足立った空間を抜け出し、一人廊下を足早に進む。ガラッと扉を開けた。

「あ、おはようございます。」

柔らかな栞の声が響く。栞はいつもの作業室で、髪をひとつに束ねて、真っ白なキャンバスを背に準備をしていた。村木はその風景にホッとする。部屋に足を踏み入れ、首からぶら下げていた一眼レフと鞄を机に置いた。近くにあった椅子に腰かけ、黙々とパレットに絵具を絞り出す栞の姿を眺める。朱色に柿渋色、黒。これまでの栞のイメージとは異なる色が並んでいた。くるくると回る右手の人差し指。その色を掬ってキャンバスに右手を翳すと樺色が見えた。その上を朱色が鮮やかに燃える。栞の心が見えるようだった。ザッザッとキャンバスを擦る音だけが響く。「青」よりも小さいキャンバスだったが、魔法使いはこの空間に魔法をかけていた。

「ふう…」

三歩下がり俯瞰する。いつの間にか四時間が経とうとしていた。村木はずうっと魔法に魅せられていたことに気付く。

「メシでも行きますか?」

現実に戻った村木は栞に声をかける。

「はい、行きましょう。」

こちらを向いた茶色い丸い目が細くなった。

 

大学近くの中華屋に入り、二人は担々麺を啜っていた。

「また、コンペに応募しようと思うんです。」

湯気の向こうで栞が言った。村木は何と言っていいか少し悩んだ。

「いいっすね。」

それだけ言って、麺を啜る。栞も続いて麺を啜った。食べ終わり、店を出るまで二人はそれ以上言葉を交わさなかった。店を出て、やっと村木が口を開いた。

「また撮らせてください。」

村木は考えを巡らせていた。正直、浅木薫に一人の力で受賞したわけではないと言われてから自信をなくしていて、次の作品を撮ろうという気持ちになれていなかった。だが今日、魔法をもう一度目の当たりにしたことで、心に火が付いた。燃えるような思いが自然と湧き出てくる感じがした。

「はい、もちろん。」

栞は乾いた絵の具が残った右手で自分の前髪を撫でた。



「え、もう見るんですか?」

「こういうのは勢いが大事っすよ。」

「でも、心の準備が…。」

村木が【大賞受賞作品】と書かれたリンクをクリックする。二人は顔を見合わせた。

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浅野由紀 @asabunco

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