君のいる空の下で

キートン

誤操作が運命を繋ぐ

 スマホの画面が、夕焼けに染まった教室の窓のように淡いオレンジ色に輝いた。指先で軽くスワイプする。今日もまた、誰ともなく上げた空の写真がタイムラインを埋め尽くす。どれもこれも、同じような形をした青の切れ端だ。


「……つまんないな」


 莉子(りこ)は顎を膝に乗せ、ぶつぶつと呟く。高校二年の春。クラスメイトの会話はいつも、受験や恋愛や流行の話で持ちきりで、空なんて誰も見上げやしない。せいぜいが、インスタに上げるための恰好いい写真を撮る時くらいだ。


 彼女だけが、なぜか空に魅せられていた。朝の仄明るい空、昼の広がる青、夕暮れの爆発的な色彩。全てが、どこか遠くへ連れ去ってくれそうな気がしてならなかった。


「あっ」


 思考にふけりすぎて、手に持ったスマホが滑った。床に落ちる鈍い音。


「やばっ!」


 慌てて拾い上げる。画面には、知らないアカウントへのDM画面が開いている。どうやら落とした衝撃で、とある空の写真を投稿しているユーザーに、いいねを押してしまったらしい。IDは「@tenku_no_bito」。投稿は全て、どこかで撮影したらしい空の写真ばかり。どれもこれも、プロかと思うほどに美しい。


「まずい、まずい、すぐに取消さなきゃ……」


 冷や汗をかきながら取消ボタンを探す指。その時、プッシュ通知が画面に表示された。


 tenku_no_bitoさんからメッセージが届きました。


 心臓が跳ねる。まさかの即レス。


 覚悟を決めてタップする。


 tenku_no_bito: 写真、気に入ってくれた? (受信 16:32)


 莉子は目を見開いた。そんな軽いノリで返事が来るとは思っていなかった。普通、見知らぬ相手から突然いいねが来たら、無視するか怪しむんじゃないのか?


 指がキーボードの上で止まる。どう返せばいいのか。謝って取消せばいい? でも、せっかく……。彼の投稿した空の写真が、頭から離れない。どれも、彼女の写したものとは比べ物にならないくらいにクオリティが高く、それでいて、どこか寂しげな味わいがあった。


 深呼吸して、打ち始める。


 rikoccho: どちらかというと、誤操作でした…ごめんなさい! (送信 16:34)


 即レスが返ってくる。


 tenku_no_bito: そうか。残念。 (受信 16:34)


 tenku_no_bito: でも、誤操作でも見つけてくれたんだろ? なかなかシブい趣味してるじゃん。 (受信 16:35)


 シブい趣味? 空の写真の事? むむっ、なんだか少しムカつく。でも、気になる。


 rikoccho: シブいって言われても……。ただ、好きなだけです。tenku_no_bitoさんの写真、すごく綺麗ですけど。 (送信 16:36)


 tenku_no_bito: ありがとな。てっきり、俺の写真にいいねしたんだと思ったよ。君も空好きなんだ? (受信 16:37)


 その日、莉子はその“tenku_no_bito”という正体不明の相手と、なぜか空の話で盛り上がってしまった。彼の言葉遣いは少し砕けていて、時々ツンとしたところもあるけど、空に関する知識は驚くほど深く、写真に対する想いも熱かった。同じ空を見上げる者同士、という奇妙な連帯感が、見知らぬ相手との距離を急速に縮めていく。


 彼の名前は“朔”(さく)。年齢は莉子と同じ十七歳。どうやら、彼もまたこの街のどこかに住んでいるらしい。ただ、学校の名前や具体的な場所は頑なに教えようとしない。


「だってさ、会ったらつまんないだろ。こういうのって、神秘的なままの方がロマンがあるっての」


 メッセージの文面から、きっと彼はそう言ってニヤリとしているんだろうと、莉子は想像した。


 それからというもの、莉子の日常は少しずつ色付いていった。


 登校中の真っ青な朝空を見上げれば、朔がその色を「絵の具じゃ再現できないな」と評するだろうことが頭をよぎる。雨上がりの虹を見つければ、すぐにスマホを構えて写真を撮り、彼に送る。すると彼は、遅くとも五分以内には、自分の見た別の角度の虹の写真を返信してくるのだった。


 彼はいつも、彼女の知らない綺麗なスポットを知っていて、時に街のビルの谷間から見える細い空を、時に遠くの山から見下ろした雲海を送ってよこした。


「今日の夕焼めっちゃきれい! 見た?」


 rikoccho: [画像] (送信 18:01)


 tenku_no_bito: うん。でも、君の写真の三分くらい前のが最高だった。残念でしたー。 (受信 18:02)


 rikoccho: なにそれ! 見せてよ!

(送信 18:03)


 tenku_no_bito: おっと、データ消しちゃった。残念だったね。 (受信 18:04)


 rikoccho: ひどい! 意地悪! (送信 18:05)


 tenku_no_bito: へへ。また次、頑張れ。 (受信 18:06)


 画面の向こうで、朔が笑っている気がした。くすぐったいような、でもどこか楽しい気持ち。教室でも、友達と話す時も、ふと朔との会話が頭をよぎり、一人でこっそり笑ってしまうことが増えた。


 ある金曜日の放課後、莉子は思い切って朔に提案した。


 rikoccho: ねえ、せっかく同じ空好きなんだから、一緒に写真撮りに行かない?(送信 16:15)


 即読になる。しかし、返事はすぐには来ない。既読がついたまま、数分が経過する。莉子はだんだんと胃のあたりがざわざわしてきた。まずいことを言ったか? 距離を詰めすぎたか?


 ようやく、返事が届く。


 tenku_no_bito: やめとくよ。 (受信 16:20)


 冷たい文章。がっかりしていると、また通知が来た。


 tenku_no_bito: 会うのはな。でもよかったら、明日の夕方、同じ時間に別々の場所から同じ空を撮らないか? 同時にシャッター切って、同時に送るってのはどうだ?

(受信 16:21)


 tenku_no_bito: 同じ空を共有しよう。

(受信 16:22)


 ドキン、と胸が鳴った。会うのは嫌だと言われた寂しさと、彼の提案したロマンチックな方法に、胸が高鳴る気持ちが入り混じる。


 rikoccho: それ、素敵! やりましょう! (送信 16:23)


 次の日、莉子は街外れの小さな丘の上に立っていた。約束の時間まであと十分。スマホのケースをぎゅっと握りしめる。朔は今、どこに立っているんだろう。どんな空を見ているんだろう。


 携帯が震える。朔からのメッセージだ。


 tenku_no_bito: 準備はいいか? あと1分だ。 (受信 17:59)


 rikoccho: ばっちり! (送信 17:59)


 カウントダウンするように、秒針が進んでいく。茜色に染まり始めた空。雲の切れ間から光の柱が差し込む。最高の瞬間だ。


 スマホの時計が18:00を指す。


 ――今だ!


 莉子はシャッターを切った。ほぼ同時に、送信ボタンを押す。


 rikoccho: [画像]送信しました!

(送信 18:00)


 朔からも、すぐに画像が届く。


 tenku_no_bito: [画像] (受信 18:00)


 彼の送ってきた写真には――信じられない光景が写っていた。


 彼女が今、立っているこの丘の風景。少し離れた場所から、望遠でこっちを――つまり、莉子自身を、紛れもなく写し取った写真が。


 振り向く。足がガタガタと震える。


 目の前に、一人の少年が立っていた。スマホを手に、こっちを見て、少し照れくさそうに笑っている。風が彼の髪を揺らす。


「……朔……?」


 声が震える。


 少年はゆっくりと近づいてくる。


「俺が『tenku_no_bito』だ。ずっと前から、君のことは知ってたんだ。インスタでよく空の写真を上げてる子だろ?」


 まばたきする。脳が追いつかない。


「なんで……?」


「会うのはロマンがなくなるって言ったけど……」朔は悪戯っぽく笑った。「やっぱり、君には会いたかったんだ。同じ空を見てるってだけじゃ、物足りなくてさ」


 彼の目は、夕焼けを反射して、優しい金色に輝いている。


 莉子は、自分と彼の間を流れる風を見つめた。同じ時間、同じ空の下で、彼は彼女を見つめていた。


 スマホの画面には、二人の写した写真が並んで表示されていた。全く同じ瞬間の、全く同じ空。だけど、写っているものはまったく違う。


 一つは、彼女の見た美しい夕景。


 もう一つは、その夕景を見上げる、彼女の姿。


 涙がこぼれそうになった。


 彼は彼女のすぐ目の前まで来て、そっと囁く。


「これが、俺の見てる空だ。君のいる、この空さ」










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