午前2時0分からの1分間




 その夜、家は穏やかな休息をむさぼり、深い静寂のなかに眠っていた。


 午前2時0分。


 夜中に気配を感じて目覚めたのは、眠りが浅いからだろうか、それとも何かを感じたからだろうか。


 私はベッドから冷たい木肌のフロアに、はだしの足を下ろして、

 ……そして、階下に向かった。


 春だというのに雨が降ったせいか、家全体の空気はひんやりしていた。


 1階に下りると、そこでロッキングチェアにすわる母を見つけた。


 午前2時10秒。


 母が木製の古いロッキングチェアにすわり、器用に、忙しそうに、小さなシワの寄った指を動かして白いセーターを編んでいる。


 母の身長は158センチあったけど、手足が細く小さかった。足のサイズは22センチで、買う靴にいつも困っていたし、手は子どものように小さい。でも、とても器用だった。


 ロッキングチェアにはいつものきしみ音はなかった。


 静かな時に、ゆらゆらと形が揺らぐ。

 母は無心に編み物をしている。


 器用に編み棒を動かし、白い毛糸玉を紡いで、ケーブル編みの白いセーターを手際よく作りあげていく。


 明かりの消えた部屋。

 何度も何度も明かりが消えた部屋。

 何千回もの何万回もの夜を経た部屋。


 午前2時20秒、秒針が動く。


『かあさん、もう遅いわ』


 なかば寝ぼけながら声をかけようとして、言葉がのぼらずに唇でかき消える。

 唾液が舌を濡らしただけで、喉元で止まった。


 外では街灯がともり、春の風が夜露を飛ばしながら吹き抜けているだろう。

 この時間ならば、シーンと静まりかえった住宅街に歩く人もいない。


 さきほどまで浅い夜を過ごして私の心はしびれていた。


 リビングルームの手前の開いたドアの前で立ち尽くし、そのまま動けない。


 母の紡ぐ糸に魅せられ、いつまでも立ち留まる。


 あれは、私の白いセーターにちがいない。


 編みあがったとき、私は言った。


「ほら、かあさん、サイズが違うわよ。丈が短かすぎて着れないわよ」と。

「そお?」と、母は少し拗ねたような表情を浮かべる。

「でも、ほら、ちょっと伸ばせばね」

「だめよ、そんないい加減なの」


 母は傷ついたかもしれない。

 私は慣れからくる傲慢に気づかず、いつも母に甘える。自覚もなく甘えていた。



 母の指は、まるで機械のように動き続ける。

 丸い毛糸玉がくるくる廻り、私はその糸をいつまでも見ていたかった。


 午前2時1分……。

 古い時計はゆったりと時を刻み、午前2時1分を指して止まる。


「かあさん、夜は冷えるわよ」


 私は母のすわる椅子を通り過ぎて、キッチンに向かい、水道の蛇口から水を受け、少し口に含む。


 それは苦いような悲しいような味がした。


 振り返りたくなかったけど、母が座っていたはずのロッキングチェアに視線をなげた。


 そこには白い毛糸玉がころがっている。


 母はいない。



 あの白いセーター、どこへいったんだろうね。


 私、どうも失くしてしまったみたい。


 母さんは……。

 本当に、どこへ行ったんだろうね。




 午前2時1分、丑三つ時。




 母さん……、


 涙が止まらない。


 涙が止まらないよ。


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1分で読める創作小説2025 雨 杜和(あめ とわ) @amelish

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