落とし物

@ututu_

掌編

「すみませーん、落としましたよ!はいっ!」


「あ、ありがとうございます…?」



彼女はニコっと笑い、そのまま小走りで戻っていってしまった。わざわざ、拾って渡すためにこちらまで来てくれたのだろうか。彼女の迷いのなさに自分が何か落としたのだと今の一瞬で思わされ、とっさに受け取ってしまったがこれは自分のものではない…。


でももうさっきの快活そうな女の子がどこへ行ったのかも、これが何なのかもわからない。仕方がなく持って帰ることにした。本当は面白そうだと思ったから、なんて考えが頭を過ったが、そんなんじゃない、置いて帰るのも不自然だし…と、言い訳がましいことを考え、頭を振り、家でこの手帳を開くのを内心楽しみにしながらいつもと同じ帰路につく。心なしか街灯の白い明りがまぶしく見える。



それ以外はいつもと何ら変わりない、七歩歩く間隔くらいでどこか少し欠けているブロック調の歩道、手を伸ばせば枝に手の届きそうな背丈の街路樹、いつもカーテンを閉めておらず室内が丸見えの三階の部屋、昼間は子どもたちが放課後に遊んでいるであろう公園…水の音と金属の中を水が通る高い音が聞こえる。公園の水道の蛇口が締まり切っていなくて少し水が漏れている。今日は人に親切にされた。自分のものではなかったが落とし物を拾ってもらった。私も誰かのために。機嫌が良かったので蛇口を閉めに公園に入る。


視線を感じる。不審者だと思われているのか?可笑しくて少し笑ってしまう。


「落としましたよっ!」



…。なんだ。


さっき私の手帳を、いや、私の、ではないか。落とし物を拾ってくれた女の子…。なんでいるんだ。


「落としましたよ?」

「ありがとうございます…。」

「じゃ!」

「あっ、ちょっと…!」



暗くてよく見えなかったが、やはりさっきの彼女だ。なんだ。なんでいるんだ。ストーカー?いや、そんなはずないだろう、わたしに限って…。自分の妄想に自分で苦笑する。

こんなことをしていないで、早く帰れってことか。呆気にとられてまだ蛇口を閉めていなかった。公園の水飲み場の側面の手を洗う方の蛇口をきゅっと閉める。横から見たテトラポットみたいな形のハンドルをちゃんと閉めようとすると親指に食い込んで少し痛む。懐かしい感覚だ。


夏も終わるのか、少しの寂しさと肌寒さとを感じる。家まではもう五分ほど歩くだけだ。歩きなれた道だが、思いがけない非日常のせいでどうしても足取りが浮つく。家につき、鍵を開け、靴を脱いで中に入る。手帳を開いてみたくてそわそわする。今までよく途中で開かず、家まで我慢したものだ。はやく見たい。


その前に手を洗おう。水道のレバーを上げ、水を出す。石鹸をつけて手を洗う。これでやっと、家に帰ってきた感じがする。鞄を置いた、すぐそばに座り手帳を取り出す。これを開く瞬間を今か今かと待ちわびていたんだ。焦る気持ちで手が震えている気がする。


使い込まれたレザーのようなカバーのついている、A5版の手帳。色は深い緑。落とし主は今頃困っているのではないか。いや、もうどうやったって見つからないんだ。名刺でも挟まってなければ。


はやる気持ちを抑えながら手帳を開く。ページをめくる。一ページ目に罫線に丁寧に沿って、「意味が分からなければ、次のページをめくってください。わかるまで。」と書いてあった。意味が分からなかったのでページをめくる。


「意味が分からなければ、次のページをめくってください。わかるまで。」


…。同じか。わからない。いたずら?だとしてもなんでわざわざこんなことを。なんだかどっと疲れ、着替えもせずそのまま寝てしまった。


片方空いたカーテンから差し込む光で目が覚めた。八時…。急いで支度して家を出なくては。シャワーを浴びて着替える。

そうだ、手帳。昨日の手帳はなんだったのだろう。本当に、分からなかった。いや、誰のかもわからないんだし、分からなくて当然だ。なんで分からないことにショックを受けているんだ。ただ、がっかりしただけかもしれない。そうだ、がっかりしたんだ。


そう思いながらももう一度開いてみる。



「意味が分からなければ、次のページをめくってください。わかるまで。」

「意味が分からなければ、次のページをめくってください。わかるまで。」

「意味が分からなければ、次のページをめくってください。わかるまで。」



いくらページをめくっても同じことが書かれている。分からない。


朝ごはんにトーストを食べ、アイスコーヒーを飲み、急いで支度を終わらせ家を出る。昨日と同じ変わりない退屈な道をただの逆再生みたいに、淡々と歩く。


歩道の欠けた部分につまずいて転びそうになる。鞄の外ポケットに入れた昨日の深緑色の手帳がどしゃっと落ちる。持ってきてしまっていたことに驚いて、急いで支度したから、一緒に入れてしまっていたんだろうと納得する。しゃがんでそれを拾う。


そのまままた淡々と同じ道を歩き、職場に向かう。


職場についてからもなんだか仕事が手につかず、昼前頃、郵便を出しに行ってくると言い外に出た。少し外を歩けば、気分転換になるんじゃないかと思ってのことだ。


平日の昼間は、平日の昼間特有の空気が流れている。子どもの時はそんなこと思っていなかったんだろうか。いつから…。そんなことを考えながら、快晴の中、平日の空気を体に入れる。公園の方回って戻ろう。そう決めると自然と目的が決まっている時の歩き方になる。


迷うことなく足を進める。またあの音…。公園の方に目をやると、保育園から来たのか、小さい子どもたちが遊んでいる。水の音は子どもが水遊びをするのに出した水の音だった。先生が止めに来る。そうか、公園の水では遊んじゃだめだったか。


自分も水遊びが好きだったっけ。公園で遊ぶのも。

放課後はいつも公園に行っていた。


地元の公園にどことなく似ているような気もしてくる。いつも学校から帰ったら、公園に行って、日が暮れるまで遊んだ公園。よく一緒に遊んでいた女の子がいたっけ、どうしているかな。



近所のアパートの三階に住んでいた、元気な女の子。あの子はすべり台が好きだったっけ。喧嘩したこともあったな。



子どもたちが先生に連れられ帰っていく。もう昼か、考え事をしすぎていたようだ。昨日の出来事があって疲れているのか、変な汗をかいている。顔洗っていこう。


昨日自分が閉めた蛇口をひねり、水を出す。ヒューと高い音が鳴る。服をぬらさないように顔を洗う。鞄からハンカチを出し、顔を拭く。さっぱりした。戻って仕事ができそうだ。


「落としましたよ。」


上の方から、すべり台の方から視線を感じる。


「落としましたよね。」


「落としてない…!落としてない…!」



どしゃ



すべり台から何かが落ちた。

私は叫んでいた。私は泣いていた。本当に泣きたいのは彼女の方だろうに。


取り乱して、泣きつかれて、また顔を洗うことにした。

ただの水の音さえ不気味に感じる。そうだ、手帳。


思い出した、手帳は父さんからもらったんだ。父さんが気に入らなかった手帳を落書き帳にでもって、くれたんだ。そこには自分が当時書いた日記があった。今はまだ読みたくない。


閉じた手帳から、父さんの名刺がはらりと落ちた。

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