澱(おり)
沙知乃ユリ
澱(おり)
夕暮れの坂道をくだる。
中学生の頃、この帰り道が好きだった。家々の窓から夕飯の匂いが漂い、あちこちで子どもの声が響いていた。
今はもう、坂の途中に灯る明かりはまばらで、郵便受けにチラシの溜まった家ばかりが目についた。
この町は、夕日の影のなかで、何かが底に沈んでいくように見えた。
少しだけ日陰にある実家。呼び鈴に伸ばした指が震える。
帰るべきじゃなかったかもしれない――そんな考えが一瞬、胸をよぎった。
十二年ぶりの母は、変わらない笑顔で俺を迎えた。
いや、違った。顔にはシミやシワが刻まれ、きびきびした動きはどこかぎこちなくなっていた。
なによりも、その背中が小さく見えた。
かつての母は泣かない人だった。弱音を吐かず、いつも笑顔で俺と父を支えた。
俺にとって母は、無敵のヒーローだった。
子どもだった俺は、母が弱る姿など想像すらしたことがなかった。
室内はあまりにも薄暗く、胸の奥に静かなざわめきが広がった。
「電気代が勿体ないから」
言い訳のように早口で、母が電気をつける。
部屋の中は、家具が減ってがらんとしていた。
母の愛用していたミシンも見当たらなかった。
「要らないもの捨てたの。この家も広すぎるくらい」
まくしたてるように、矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。
声は明るいのに、どこか空回りしているように聞こえた。
「お腹空いてるでしょ。夕飯用意してあるから、手を洗ってきて」
素直に返事をして俺は、荷物を部屋の隅に置く。
昔と同じ場所にある洗面台で手を洗う。壁には俺が書いた落書きが、今も鎮座していた。
窓の外からごうごうと強風が吹き荒れる音がする。天井の方から、木の軋む音が鳴った。
チラリと見えた風呂場はキレイに磨かれていたが、排水溝の黒ずみが目に付いた。
母は水回りに関しては潔癖なところがあり、昔なら絶対に見逃さなかっただろう。
食卓に腰を下ろす。机の脚は以前よりも大きくガタつき、皿を置くと小さな音が響いた。
俺の席はここ。母は俺の正面。その隣には、いつも父が座っていた。
ぽっかりと空いたその席を見つめた瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶がざわめき始める。
俺はどちらかと言えば母親っ子だった。
けれど、父のことも嫌いでは無かった。
ごく普通の、少しだけ稼ぎの多い人だったのだと思う。
いつも七時頃に家を出て、十九時頃に帰ってきた。
俺と母が寝た後、一人でお酒とおつまみを嗜み、趣味の映画を鑑賞していた。
たまの休みには3人で遊園地に行ったり、2人でキャッチボールをしたりした。
最初の異変は、中学生のときだ。
スキー帰りの父の運転する車。突然車体がトンネルの壁に激突した。
二度三度と弾かれるように揺れ、全身が縮み上がった。
父はすぐに俺をのぞき込み、「大丈夫か!?」と必死だった。
幸い怪我はなかったが、父は「母さんが心配するから、このことは内緒にしよう」と繰り返した。
母に叱られる気がした俺は、父との共犯を選んだ。少しだけ、大人の世界に近づいた気がした。
二度目は高校一年生。図書館へ行くバスの中で、父が突然座席から崩れ落ちた。
呼びかけても返事がなく、息が止まるのではと恐怖した。
ほどなく意識を取り戻した父は「寝不足だった」と笑い、また「母さんには内緒な」と言った。
そのとき俺は、何か良くないことが起きていると漠然と感じた。
けれど、何を意味しているのか分からなかった。
その意味を知ったのは――父が死んだときだった。
あのとき母に伝えていたら、何か変わっていたのだろうか。
父が居なくなった日、俺は初めて母の人間らしい弱さに直面した。
涙に濡れ、悲嘆に暮れる母にかける言葉を、母から教えてもらうことはできなかった。
俺は大学進学を機に、逃げるように一人暮らしを始めた。
母の怒りも悲しみも、喜びすらも聞きたくなかった。
そうして実家から足は遠のき、連絡は億劫になった。
だからいま、母の顔を見るのが怖い。
そんな俺の正面に座る母が、目を合わさずに言葉を宙に放り投げる。
灯油の値段が上がったとか、隣に住んでいた俺より2歳下の彼が結婚したとか。
そのうちに、俺の方にも言葉を投げてきた。
「寒くない?」
「うん」
「痩せたんじゃない?」
「変わらないよ」
「仕事は順調なの?」
「まあそれなりに」
「転勤も大変ね」
二人の間に長い沈黙が落ちた。
母なりに、親子の空白の時間を埋めようとしているんだ。
俺も聞きたいことがある。
「母さんこそ痩せたんじゃない?」
「ちょっとね。前が太っていたのよ」
「生活は大丈夫?」
「母さんは大丈夫よ。あなたに心配されるほどじゃない」
声は明るいのに、壁を感じる。
机の上には、二人分だけの茶碗が整然と並んでいる。父の席は空いたままだ。
大丈夫なわけない。そう思いながらも、喉まで出かかった言葉は違う形で飛び出した。
「父さんが死んだのは、俺のせいだと思う」
母は箸を持ったまま、動きを止めた。
沈黙が部屋を押しつぶすようだった。
俺は慌てて言い直そうとしたが、言葉が出てこなかった。
「どういうこと?」
低い声だ。怒りなのか、悲しみなのか、判別できなかった。
「父さんの病気、俺にはわかったはずだったんだ。一度だけじゃない。何度も様子がおかしかったんだよ。なのに俺は、母さんに言わなかった。何もしなかった」
それが俺の、ずっと言えなかった罪だった。
震えた声で二度の異変について、母さんに伝えた。
頭の中では何度も繰り返していたのに、うまく口が回らない。想いが先走っているのがわかる。
母は俺の話が終わるまで、黙って聞いてくれていた。
その沈黙が、責められるよりも苦しかった。
目を上げると、その瞳には涙が蓄えられていた。
怒りなのか、悲しみなのか、赦しなのか。判別できない。
ただ、その涙が俺の胸を貫いた。
母はかすれた声でようやく口を開いた。
「……そんなことがあったのね」
「ずっと、一人で抱えてきたのね」
「気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
「大変だったね。……よく頑張ったのね」
その瞬間、ずっと身体の中を渦巻いていた黒い澱が、霧のように消えていった。
視界が開け、暗く狭かった部屋が輪郭を取り戻していた。
目頭がグッと熱くなり、気づけば母と同じように涙を流していた。
「違うよ。母さんの方がずっと大変だったはずなんだ」
嗚咽混じりに、言葉を紡ぐ。
「俺が母さんを支えなきゃって……だけど、できなくて」
「本当に、ごめんなさい」
母は静かに頷き、ただそこに居てくれた。
二人で少し冷め出した味噌汁のお椀を手にした。
「お父さん猫舌で、熱すぎる!っていつもフーフーしてたよね」
母が父の口癖と仕草を真似る。
その様子に俺も笑って、一緒にフーフーしてみる。
食卓を挟んで向き合う母の笑顔は、昔のように父の気配を伴っていた。
その夜、俺は夢を見た。
小さな船で海を渡る。見えてきたのは小さな島。
砂浜にはビーチパラソルとビニールの椅子。そして父さん。
父さんは俺を笑顔で迎え、受け止めた。
俺はいつの間にか小学生に戻っていた。
俺は必死になって、今日までのことを言葉にした。
事実も、感情も。後悔も懺悔も。
父さんのこと、母さんのこと。
父さんはただ、楽しそうに頷き続けていた。
そして、グローブとボールを渡してきた。
俺は、久しぶりに会えた父さんと、キャッチボールをした。
ボールを受け止める音が、波と重なり合っていた。
目が覚めたとき、身体が軽やかだった。
翌朝、母は久しぶりによく眠れたと笑った。
清々しい朝、父の仏壇に手を合わせる。
胸の奥には、静かな春の風が吹き抜けていくようだった。
――――――――――――――――――――――
◆あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
書きながら、自分自身も「赦す」ということの難しさと温かさを考えました。
読んでくださった方に、少しでも何かが届けば嬉しいです。
澱(おり) 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane
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