第2話 寄贈された車いす

夜勤のナースステーションは、紙の擦れる音と心電図モニターの電子音だけが響いていた。静かすぎて落ち着かない空気が、床のワックスの匂いと混じって胸に入り込む。


わたしは巡回表を握りしめて立ち上がった。今夜は初めての看取りだ。カルテの患者名に触れるたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。先輩の佐伯さんが、紙コップを指で転がしながら言った。


「三四二号室……呼吸が浅い。家族はさっき到着したばかりよ。落ち着いていこう」


言葉は簡単なのに、体は震えていた。足の裏がぎしぎしと音を立てる。


三四二号室のドアには白い名札。黒のマジックで書かれた名字が、日常と死の境目を示しているように見えた。中に入ると、遺族が二人、肩を寄せ合って座っていた。患者は人工呼吸器をつけていない。延命措置は本人と家族の希望で行われていなかった。喉の奥から小さな音が漏れ、心電図は弱々しく波打っていた。


佐伯さんがカーテンを引き、医師が呼ばれた。奥さまだろうか、遺族の膝が小さく震えている。布の擦れる音が耳に残った。胸の奥がざわつき、声にならない。


医師は脈と瞳孔を確かめた。落ち着いた手つきだった。心電図の波がさらに低くなる。時間が止まったように思えた。


――一瞬、音が消えた。


電子音も、呼吸も、すすり泣きも。すべてが消え、静寂だけが残った。


そして、部屋の中が白く光った。


街灯の色とも違う。短い一拍だけ輝き、すぐに消えた。視界に残像が残り、まぶたの裏でちらつく。わたしは瞬きを忘れ、乾いた目をこすった。医師は顔を上げ、遺族に告げた。


「……亡くなりました」


冷たくも熱くもない、ただ事実だけを伝える声。奥さまが小さく息を呑み、指輪が蛍光灯の光を鈍く返した。


佐伯さんがわたしを見て、唇だけを動かす。「大丈夫?」と。わたしはうなずいたつもりだった。


死後の処置が淡々と進む。秒針の音だけが耳に重く響く。器具を手渡すたび、さっきの光が頭にちらついた。あれは何だったのだろう。


病室の隅には、故人が使っていた黒い電動車いすがあった。磨かれた金属部分が光を返している。奥さまはそれを見つめ、言葉を探し、すこし笑顔に似た表情で言った。


「これを、寄付させてください。……主人の電動車椅子です。ここで役に立てるなら」


そう言って手すりを撫でると、かすかな音がした気がした。胸に冷たい違和感が走る。それでも善意は善意として受け止めるしかない。


遺族が去り、病室は静けさを取り戻した。廊下の空調がうなり、消毒液の匂いが漂う。佐伯さんがぽつりと漏らした。


「さっきの、光……見えました?」


わたしは立ち止まり、やっとの思いで答えた。


「……はい。見ました……まぶたを閉じても、まだ残っているようで……」


佐伯さんは目を伏せ、それ以上は何も言わなかった。


ナースステーションに戻ると、時計は午前一時を指していた。時間は進んでいるのに、空気は凍ったままのようだ。わたしは紙コップの水を口に含む。味も温度もわからない。ただ喉を通った感覚だけが残る。


巡回を再開する。足音を小さくしようとして、逆に響いてしまう。背中に冷や汗が伝った。廊下の端には黒い電動車いす。昼間よりも黒が濃く、光を拒んでいた。


近づくと、機械油と布の匂いがした。手を伸ばしかけて、思わず引っ込める。触れてはいけないと心が告げた。足元には寄贈を示す札が掛けられている。


そのとき――


「……カタリ」


床から小さな音。前輪がほんの少し、前へ転がった。


喉が鳴る。錯覚、傾斜、誰かが触れた……理由はいくつも考えられるのに、どれも当てはまらない。心臓が激しく打ち、声が出なかった。


前輪が止まり、肘掛けから微かな音が鳴った。空調の風ではない。なのに、肩口を冷気が撫でた。線香のような匂いがかすめた。


「新人さん、どうかした?」


振り向くと、佐伯さんが眉をひそめていた。


「……廊下の端に寄せたはずなのに」


次の瞬間、車いすはゆっくりと壁に向かって進みだした。金属が床を擦る音。壁にぶつかって止まる。


心電図の音が耳に蘇る。自分の脈と重なり、不安が膨らむ。


「……戻そう」


二人で車いすを廊下の端に戻す。手すりに触れると湿り気があった。クロスで拭うと何も残らない。ただ艶が薄れただけだった。


「誰か……座ってたのかな」


自分の声が上ずった。佐伯さんは答えず、ブレーキを確かめた。そして、わたしの肩に手を置く。


「深呼吸。続き、回ろう」


息を吸い込む。消毒液の匂い、冷気、白い壁。まぶたの裏では、まだ光の残像が揺れている。耳の奥で、遠くの電子音が一つ鳴った気がした。


時計は午前一時十九分。ナースコールのランプは静かに眠っている。


無言で歩きだした。車いすの脇を通ると、肘掛けからまた小さな音がした気がした。見ないふりをした。見ないふりは夜の病棟で最も古く、役に立つ儀式だ。


――その儀式が今夜に限って効かないのだと知るのは、もう少し先のことだった。


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神宮寺探偵事務所の実験録 怪奇の病院 出題編 @Hiyorin25

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