未踏峰にて
金田澤
第1話 序章:稜線の向こう
> 二月二十日 標高5400m/C1
> 快晴 風速15m
> 0700 稜線を越える。
雪は硬く凍り、ブーツの底に打ち付けた鉄の爪がぎしりと鳴った。
前を行くマレクが確かめるように振り返る。
ポーランド人の隊長は黒いゴーグルの奥で目を細めたはずだ。
彼はいつもそうやって、仲間の間合いを測っている。
続くクラウスは白い息を吐きながら足を置くたびに呼吸を数えている。
医師のくせに、緊張を紛らわせる方法は数字しか知らないのだろう。
眼鏡の代わりにかけた度入りゴーグルの奥で視線は冷ややかだった。
ジェイは逆に落ち着きなく動き、時折スマホを取り出してはインナーグローブ越しにカメラを起動してみる。
「電波なんて届くわけない」
クラウスがぼそりと言うと、ジェイは舌を出して肩をすくめた。
「オフラインでも自撮りはできるよ」
背中でザックを揺らしながら、私は無言でカメラを握っていた。
写真家の私はこの瞬間を待っていた。
稜線の向こう――地図の白紙の向こうに、何があるのか。
稜線に近づくほど、風は細く高く鳴き、空気は薄く研ぎ澄まされた。
足下の雪はガラスのように固まり、前爪を突き立てるたびに骨に響く高い音がした。
最後尾のペンバが立ち止まった。
シェルパ――ヒマラヤ高地の民族で、登山隊を導き、荷を担ぐ人々。
そのサーダー(取りまとめ役)である彼は、首に古い数珠をかけフードの下で目を閉じていた。
「ここまでだ」
短く言う。
「その先は、黒い峰」
私たちは答えなかった。
マレクが一瞥を送っただけで、誰も止まろうとはしなかった。
稜線を越えた瞬間、風景は裂けた。
そこに在ったのは、黒。
いや、黒ですらない。
光が戻ってこない穴。
雪も岩も、影さえもそこにはなかった。
我々の視線の先には、光を呑み込む三角形が空を押し上げるように立っていた。
「……」
言葉を失いながら、私はシャッターを切った。
連写。レンズは迷い、測光が脈打つ。
ジェイが隣で呟いた。
「ヤバ……マジのやつじゃん」
彼の瞳はいつもの軽さを失い、凍りついたように吸い寄せられていた。
「高山病の幻覚だ。そうに決まっている」
クラウスは自分に言い聞かせるかのように、荒い息の合間に低く言った。声が震えている。
私は背面液晶を起こし写真を確認した。
写っていたのは――雪だけ。
露出の違う白、角度の違う白。
あの漆黒は、一枚も残っていなかった。
そのときだった。
ポケットの中で、鈴が鳴った気がした。
磨り減って音が出ないはずの小さな鈴。
村の老人が「旅立つ者に渡している」と言って握らせたもの。
「鳴らすな。呼ぶと、あれは振り向く」という警告つきの音の無い鈴。
実際には何の音もしなかった。
だが、耳の奥に余韻だけが広がった。
鳴らないはずの鈴の、鳴り止んだ後の静けさが胸を満たした。
私は息を呑み、カメラを落としそうになった。
マレクが低く言った。
「引き返すぞ」
だが足は動かなかった。私は知っていた。
これはただの始まりにすぎない。
もっと近くへ。もっと見たくなる。
> 二月二十日/備考
> 稜線越え。光を吸う三角の影を視認。
> 撮像不可――目にのみ映る。
> 鈴が鳴った気配。
> これは始まりにすぎない。
未踏峰にて 金田澤 @kanedasawa
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