風に消えた蜘蛛の糸

棚霧ひいち

風に消えた蜘蛛の糸

 青い空を流れる雲を見ていた。天気がいい、五月晴れってやつだ。学校の屋上、塔屋にある給水タンクの影に入って、俺は仰向けに寝っ転がっていた。そんなことをしている場合ではないことはわかっていたけれど、だるくて教室に行く気がしない。

 もう中学三年生、でもまだ五月だし、だらだらしてても許されるだろ。出席番号十番、春日井美景かすがいみかげは不良少年である。しかし、不良といっても一昔前のヤンキーのように喧嘩をしたり、威張り散らしたりはしない。落第しないギリギリのところまで、授業をエスケープし、テストや課題をやらないだけだ。

 中途半端なグレ方でとてもダサいと面と向かって担任に言われたことがある。あの人には俺がダサいと言われてこれまでの言動を顧みるタイプに見えていたのだろうか。態度を改めさせるためにぶつける言葉としては的外れだ。ダサくていいし、他のやつになんか迷惑がかかってるわけじゃないから、別にいいだろうと思ってしまう。

「いや……」

 もしかすると担任教師には迷惑がかかってるのかもしれない。サボり魔の生徒をたまたま受け持っているというだけで、指導力の不足を指摘されたり、嫌味を言われたりするのかもしれない。

「でも」

 俺は生徒だから、そんなことは気にしなくいいだろう。それは大人の都合で、なんなら、あのダサい云々の声かけはただのあてつけだったのではないか。ああ、待て、考えすぎかもしれない。担任が俺を理由に誰かに責任を迫られたんじゃないかというのは妄想でしかない。

「あー……」

 クソッ、また変なことを考え始めてしまった。自分の思考のクセが嫌いだ。余計なことを次々と思い浮かべてしまう。そんなことしたってほとんど意味はなくて疲れるだけなのに。

「だるいな……」

 ずっと疲れてる。体は健康なはずなのに、俺だけ重力が人の倍はかかってんじゃないかと思うことがある。エネルギーが不足しているのだ。じゃあ、なにかエネルギーになるものを補充すれば動けるんじゃないかと思って、飯を多めに食ったり、夜は早めに寝てみたりしたが一向にダメ。なにもしたくないと思わせる倦怠感だけがいつも残る。思春期ってみんなこんなもんなんだろうか。だとしたら病気に分類したほうがいい。マジで動けないのだから。

「いかん、またどうでもいいことを考えてしまいそうだ。はぁ……」

 両手で顔を覆う。手が錆臭い。そういえば屋上の扉のドアノブが錆びてたかもしれん。うわ、サイアク。手を洗いたいけど、わざわざはしごを降りて、階段も降りて水道まで行くのか? というか、その後屋上に戻るとすると結局またドアノブに触らないといけない……臭いが移らないようにハンカチで包むか……でもそれも汚れそうだから嫌だし……。

「だるいって……」

 俺は腹の上で手を組んで、目をつぶる。手を洗うのは早々に諦めた。臭いが鼻まで届かなければ眠るのになんの問題もない。

 俺が眠りの尻尾を掴みかけたそのとき、屋上の扉から大きな音がした。誰かが屋上に来たらしい。サボタージュ仲間だろうかと思ったが、なにやら様子がおかしい。むせび泣く声がここまで聞こえてきている。体を起こさないまま、端までにじり寄り、下の様子を伺う。

「ふえぇ……ええんッ……!」

 一人の男子生徒が蹲っている。履いている上履きの色から一年生だとわかった。灰色のブレザーの背中にはくっきりと靴跡が残っている。誰かさんがわざと蹴ろうとしないと絶対に付かないであろう位置にあるそれに、いじめられっ子の刻印みたいだなと思った。

 あちらはまだ俺の存在に気づいていないが、バレたら非常に気まずい空気になるだろう。泣いているところを見られたくなくて誰もいない屋上に逃げてきたんだろうから。向こうは一年で俺は三年と学年が違うことがまだ救いだろうか。

 俺は匍匐前進で動き、給水タンクの後ろに隠れる。チャイムが鳴った、二限目の終わりを知らせるものだ。十分が経ってまたチャイムが鳴る。男子生徒は三時限目始まりチャイムが鳴ってもまだ泣いていた。俺は出るに出られず、結局給水タンクの裏で男の泣き声を聞きながら、珍しくなにも考えることなくぼーっと過ごした。


 もう屋上の塔屋はサボりスペースとして使うのをやめたほうがいいのかもしれない。俺は再び給水タンクの後ろに隠れながら、伸びをした。今さっきまで寝ていたのだが、扉の開く音で目が覚めたのだ。

 すでに聞き知った泣き声が耳朶を打つ。あの一年生男子は屋上によく来るようになっていた。授業に出なくて大丈夫なんだろうかと我ながら心配になってしまう。

「えぅ……ひっく……ううぅ……」

 あいつはなんであんなにも泣いているんだろう。なにをされたんだろう。ここから降りていって一度くらい話を聞いたほうがいいんじゃないだろうか。だけど、俺が声をかけたところでどうなるもんでもないんじゃないか。そもそもあいつは話しかけられたくないかもしれない。

 話しかけるか、話しかけないか。話しかけるとしたら、どういう雰囲気でいけば……話しかけないとすれば、これからのサボりはどこでやろう……しかし、話しかけないのは道徳的にあんましよくないかもしれん……だけど、学年も違う知らないやつだし…………。

 最近の俺は泣き虫のことを考えている。考えているというか、直接に泣き声が耳に届いているのでどうしても考えざるを得ないというか……。

「え……」

 泣き声が小さくなっていき、そろそろ教室に戻るのかと思って、こっそり覗き見ると一年生男子は屋上の落下防止フェンスの前に立っていた。ただ景色を見ているだけかもしれない。しかし、何度も何度も屋上まで来て、隠れて泣いている少年の背景にその緑のフェンスがあるのはあまりにも不吉だった。

 少年が手を上へ伸ばしてフェンスを掴む。ガシャと軋んだ音がして、俺は焦った。

「やめろ!!」

 気づけば立ち上がり、叫んでいた。振り返った少年は目元を赤く腫らしていたが、それでも整った顔をしているのがわかった。

 俺ははしごを降りて、フェンス際に立つ少年に近づいた。どんな言葉をかけてやろうとか全然思いついていなかった。心臓がバクバクしていて、頭は真っ白で。とりあえず、飛び降りるのを見過ごすのは違う。その一点だけで体が動いていた。

「あの、君さぁ……そういうのよくないんじゃないかな……」

 声がぷるぷると変に震えたうえに、後ろの方は上手く発音できなくて上擦った。ダサい。いやいや、自殺を止めるのにダサいとかそういう価値を持ち込むこと自体が間違っているのかもしれないけれど、でも、もっと心を動かせそうな言葉はたくさんあるはずだ。それなのに、なにも出てこない。今まで見てきたドラマや映画で自殺を引き止めるシーンがなかったか思い出そうとしてみるが一つも像を結ばない。

 人に言葉をかけるのってこんなにムズいのかよ!

 俺は内心、自分に切れながら相手の出方を待った。気を抜くと足が震えそうで、緊張で背中がジリジリしていた。

「えっと、すみません……あの……僕は、その……」

 後輩はたどたどしく口を開いてはもごもごと大した意味のない言葉を発して、また閉じた。

「なにしようとしてた?」

「あの、あのっ……誤解です」

「本当に?」

「その、えっと、先輩はたぶん、僕が飛び降りるんじゃないかと思ったんじゃないでしょうか?」

「違うのか? 俺にはそう見えたけど」

「違います。糸が見えて……それが気になって、フェンスを登ろうと……」

「糸?」

「空から糸が……」

 後輩は宙空を指差した。なにを言っているのだろう、フェンスに蜘蛛の巣でもかかっていたのだろうか。後輩の示した指の先をたどっていくとそこには糸が垂れ下がっていた。どこからと聞かれたら、たしかに空からとしか言えない状態で銀色の糸が一本きりで下りている。糸の端は俺たちの頭の少し上にあり、フェンスによじ登れば触れそうだった。

「蜘蛛の糸……?」

 俺は芥川龍之介の作品を思い出した。地獄に落ちた極悪人のカンダタが生前、蜘蛛一匹に慈悲をかけたから、それを見ていたお釈迦様が極楽から救いとして蜘蛛の糸を垂らす話。

「僕はちょっとあれに触ってみたかっただけです。触ったらすぐ降ります」

 後輩はくるりと俺に背を向けるとフェンスを登り始める。

「おい、危ないだろ……!」

 俺は慌てて、彼の足を掴んだ。真っ黒い瞳がじっと俺を見下ろした。妙な迫力があってぽーっとしてしまう、吸い込まれそうだった。

 彼の指が糸に触れた、最初は優しくやわやわと触れ、それから親指と人差し指で挟んで引っ張る。二、三回繰り返してから、彼はこちらを向いた。

「降ります」

「ああ……」

 靴底が地につき、トンという軽い音が鳴る。彼は俺よりも一回りほど小さい。成長を見越して大きめのサイズのブレザーを選んだのか、袖が指先を隠している。

「……失礼します」

 彼は俺の横を早足にすり抜けていく。その背中に手を伸ばしかけて、引き止める理由はないことに気づいてやめた。

「あの……人違いだったら、すみません」

 扉から出ていく直前、彼はこちらを向いた。

「ミカくん……ですか?」

「え……ああ……」

 俺の下の名前は美景みかげだ。小学生まではミカくんと呼ばれることも結構あった。ただ中学にあがってからは名字の春日井かすがいのほうで呼ばれている。

「もしかして小学校一緒だったか?」

 彼の眉が悲しそうにくにゃりとして、俺は返答をミスったことを悟る。

「小学校は違います。ミカくん……先輩とは昔、公園でちょっと遊んだことがあるだけですから、覚えてなくて当然です。気にしないでください、では」

 扉が完全に閉まり、屋上にひとりっきりになった途端にはたと気づく、彼の名前を聞かなかったことに。


 屋上には蜘蛛の糸が垂れ下がり続けている。あの一年生が屋上に来た日に現れたのか、それとももっと前からあって、ただ俺が見つけていなかっただけなのか、詳しいことはわからない。クラスの連中にそれとなく学校の七不思議などがないか聞いてみたが、蜘蛛の糸に関するものはなかった。

 俺はあれから屋上に行くたびに蜘蛛の糸の観察をしている。フェンスに登って糸を直接触ってみると案外、手に貼りつくことはなく普通の糸みたいだった。細い髪の毛のようで脆そうなのに、力任せに引っ張っても千切れず、試しに糸の先っちょにカッターを当ててみたが切れなかった。

 特別な糸であることに違いはなさそうだった。ネットに写真や動画をアップロードしたら話題になるかもしれない。しかしまあ、AI生成で捏造しただろうと嘘つきのレッテルを貼られてうるさくなっても面倒だから絶対にアップはしないが。

 自分だけが見る記録用にスマホのカメラを糸に向ける。

「あ……?」

 しかし、画面には糸は写らなかった。銀色であるから肉眼でも見えにくいし、光の加減を調整しないと写らないのかもしれない。俺は角度を変えて何枚も写真を撮った。だが、何度やっても青い空しか写らない。

「先輩、それ、ネットに上げるんですか?」

 突然、後ろからかけられた声に驚いてバッと振り向く。そこには予想通りあの一年生の後輩がいた。

「この糸、写らんよ。それに写ったとしてもだるいことになりそうだからネットには載せない」

「そうですか」

 空だけが写る画像を見せてやろうとしたが、彼は一瞥することもなくフェンスに手をかけた。

「おい、危ないから登んなって」

 目的が飛び降りではないとわかってる分この間よりはマシだが、この後輩にはなんとなく消えてしまいそうな雰囲気があるのでひやひやする。

「こうしないと手が届かないんです」

 彼は糸を片手で掴むと引き寄せて、もう一方の手もフェンスから離してぶら下がろうとした。風が吹き、糸が流れる。糸を掴みそこねた手は空をかき体はバランスを崩して、彼が頭から落ちそうになる。

「危ねえ!」

「わっ……す、すみません! ごめんなさい……。あの、僕のせいで……」

 俺はとっさに彼とコンクリートの床の間に入り、彼の下敷きになった。ぶつかった瞬間は痛かったが彼が小柄なのも幸いして大したことはなかった。

「びっくりさせんなよ、バカ!」

「すみません……」

 俺としては強く言ったつもりはなかったのに、彼は青ざめていて、あぁ、これくらいで怯えるやつもいるんだなと申し訳ない気持ちになった。

「ケガはしてないか?」

「な、ないです」

「それならいい。デカい声を出して悪かったな」

 俺は励ますために彼の背中を軽く二回叩く。彼はうさぎみたいにびくっとしたので、叩くのも今後はやめとこうと心に刻んだ。


 後輩の名前はカナという音が入るらしいとたった今知った。あんまり気持ちの良くない場面で。

 屋上の真ん中で彼は三人の男子生徒に囲まれていた。彼の声はボソボソとしていて聞こえないが、彼を取り囲んでいるやつらは威張り散らした品のないデカい声で喋っていた。内容もまあひどくて、殴らせろ、金をもってこい、女子の着替えを盗撮してこい、エトセトラエトセトラ。よくもまあそんだけ悪事をポンポンと思いつくなと思った。たぶん、いじめに、他者を蹂躙することに慣れてるんだろう。

 彼がまた屋上に来たらもっとたくさん話してみたいと思っていたところだった。だから、いつものように塔屋で寝そべっていて、屋上の扉が開くとともに彼の頭頂部が見えたときはちょっと嬉しかった。だが、彼の後ろに連なって三人の男子生徒が姿を見せたとき、嫌な予感がして給水タンクの裏に身を隠した。しかし、こんなにも陰険で胸の悪くなる場面に遭遇するとは。

「あ、やだ……!」

「カナちゃーん、可愛い声出るじゃん!」

 彼が悲鳴を上げる。三人組は彼を仰向けに押し倒し、うち二人はそれぞれ彼の右腕と左腕を押さえつけ、一人は体に覆いかぶさっている。ブレザーをあっという間に脱がされ、ワイシャツのボタンも外されているようだった。

 下卑た笑いが耳にこびりつく。おぞましくて、鳥肌が立つ。なんであいつらは笑っているんだろう。なにが楽しいのだろう。彼の悲痛な声を俺よりも間近で聞いているはずなのに、まったく聞こえないのだろうか。

 三人のうちの一人がポケットからなにか取り出す。

「テッテレレッテー、強力洗濯バサミ〜」

 かの有名なアニメ番組の秘密道具登場シーンを真似したようだが、全然笑えない。

「お笑い番組でよくあるだろ、乳首挟んで引っ張るやつ」

「嫌だ! やめて!!」

「ノリ悪いよ、カナちゃ〜ん。あっ、それともそういうフリなのか?」

「リアクション芸人狙ってこ! お前ならできるって!」

「乳首って千切れても、また新しいのが生えてくるらしいぜ、安心だね~!」

 三人組が馬鹿みたいに大笑いしている。俺は胃の腑が冷えるような感覚に吐き気がしてきた。姿形は同じ人間なのに、別の生き物を見ているようだった。

 このまま放っておいたら、彼は屈辱を受け続ける。俺は、ここで見ていていいのか?

 見過ごすことは彼を辱めるのに加担したことになるだろうか。俺があの場に割り込むことで止められるか。それはあの三人組の出方による。あいつらはやめるかもしれないし、やめないかもしれない。仮に、仮にだ……止めに入って、万が一にも気色の悪い加虐心の矛先が俺に向いたら……? 堪えられない。だが、俺が堪えられないと思うものを彼は今まさに受けているわけで……。

 脳みそが万力で締め上げられるように感じた。考えたくない。思考を止めたい。耳も目も塞がせてほしい。もうなにも感じたくない。

 息が苦しい。呼吸が浅くなっていたようで、息が切れている。落ち着いて呼吸を整えなければ、ここに俺がいることがバレる。……ああ、やっぱり俺はバレたくない、隠れていたいと思っていたのか。最低だな。

 俺が彼の窮地から目をそらそうとしたそのとき、彼と目が合ってしまった。

 どうして、このタイミングなんだよ。知らなかったことにさせてくれよ。

 彼の目は助けを求めているように見えた。しかし、その救難信号が発せられたのはほんの一瞬だけ。俺が間抜けに固まっているのを察すると彼は、わずかに眉を寄せながらもふっと笑った。それがどういう意味を含んでいたのか真意はわからない。だけど、そんな顔をさせてしまったことに物凄く後悔の念が湧いた。

「あああ……!」

 彼は力を振り絞り、いじめっ子に拘束されていた右腕を振り解いた。その手は天に伸ばされている。俺はその方向の先にあの蜘蛛の糸があることを知っていた。床に転がされている彼の手が糸に届くわけがないのに、彼は必死に天へと救いを求めていた。

 彼にとって、この世は地獄なのだろう。あの蜘蛛の糸はこの地獄で苛まれている彼のために垂らされたものなのかもしれない。

 そんな考えに至った瞬間、俺はカッと頭に血が上った。

 お釈迦様なのかはわからないが、助けを必要としている彼に蜘蛛の糸を垂らしたのだとしたら、彼の窮状を知っているということだ。けれど、直接的には助けない。あの下卑た三人組には天罰も下っていない。自力でなんとかしてから、極楽に登ってこいということか。無茶な話じゃないか。

 はたと気づく。見過ごそうとした自分に怒る資格はないだろうと。糸を垂らして希望を見せているだけ誰かは、俺よりもずっとマシな存在なのだ。その証拠に彼はあの蜘蛛の糸に手を伸ばしているではないか。

「ははっ、ホントだるいなぁ……」

 俺は塔屋から飛び降り、足が痛むのも無視して、彼に乗っかっていた男を勢いよく蹴り飛ばした。突然、現れた俺に面食らったようでポカンとしている残りの二人も順繰りにぶん殴った。これでサボりをするだけじゃない本格不良デビューだなと他人事みたいに思う。

「失せろ。不愉快だ」

 先制攻撃が効いたのか、三人組は反撃することもなく足早に引いていった。

 俺は投げ捨てられていた彼のブレザーを拾い、手渡す。

「悪い、遅くなった」

「ミカくん……」

「早よ、服着ろ」

「うん」

 沈黙の中で聞く衣擦れの音に妙に緊張した。助けに来るのが遅すぎたかもしれない。

「あの……ミカくん、見た?」

 先輩後輩ではなく、友達と話をするときのような口調で彼は尋ねた。

「なにを?」

 俺が質問を質問で返すと彼は口を閉じて、考え込むように目を細めた。

「つまらないもの」

「抽象的すぎてわからん」

「どう思った……?」

「どうってなんだよ? アンタが俺になにを聞きたいのか、わからんって……」

「そうだよね……。なんだか、言葉が出てこないんだ……」

「頭を打ったんじゃないか!?」

「違う、違う! そういうんじゃないよ!」

 彼は慌てて両手を前に出して振る。ゆっくりと眉が寄って、目がうるうるとしだす。涙がこぼれ落ちる寸前に彼は両手で顔を覆ってしまったから泣き顔は見えなかった。初めのうちは声を抑えようとしていたみたいが、徐々に堪えられなくなって今じゃ小さい子どものように泣き声を上げている。くあーん……くあーん……と海辺を飛ぶカモメを思わせる甲高い泣き声だった。

 泣きじゃくる彼の頭上に広がる空は晴れ、澄んだ青をしていた。白い綿雲がゆったりと流れている。あそこに極楽浄土があって、蓮池のほとりから蜘蛛の糸を垂らす誰かが見ているならば、どんなにいいだろうか。

 風に揺れる蜘蛛の糸が陽光に照らされてキラキラと輝いている。

「ミカくん……うぅっ……」

「いつまで泣いてんだよ」

「ごめんなさいぃ……うっうっ……」

 全然泣き止んでくれない相手を前にしたら、もっと焦ったりイライラしたりするものかなと思っていたけれど、俺は不思議と穏やかな気持ちだった。

「アンタが落ち着くまで待つよ。それとも泣いてるとこは見られたくないか?」

 俺は彼と友達というわけじゃない。知り合い程度の先輩にはさっさと立ち去ってもらって、ひとりになりたいと彼も思っているかもしれない。

 俺が気を利かせて屋上から出ていこうと彼に背を向けると、シャツの裾を強く引っ張られた。

「一緒にいてくれないの……!?」

「えっと……」

 振り向くと涙に泣きぬれて駄々をこねる子どものような甘えた顔をした彼と目があった。その瞬間、俺は彼のことをはっきりと思い出した。 

「カナちゃん。いや……カナメくんのほうがいいか?」

 あれは小学三年か四年生頃のこと、近所の公園で下級生が取っ組み合いの喧嘩に、といっても体の小さい方が一方的に叩かれる状況になっているところに割り込んで仲裁したことがあった。あのときの叩かれていた小さいのが彼だ。間違いない。割って入ったときに、彼を叩いていた子に女の子をいじめるなんて最低だと啖呵を切ったら、そいつは男だと訂正が入って微妙な空気になったことを覚えている。

「カナでいいよ。ミカくんにそう呼ばれるのは嫌いじゃないから」

 カナはちょっと微笑み、そしてまた泣き始めて涙も拭かないままに俺に縋りついた。ここでハンカチでも出せればよかったのだが、女の子を泣かせたこともない俺のブレザーのポケットはあいにくと空っぽだった。

「ミカくん、ミカくん……また助けてくれた」

 カナはとても感動してくれているようだったけれど、俺としては昔も今も助けたのは成り行きだ。カナがすごく大切な存在だったからとかそんな大層な理由はない。なんとなく助けた。俺がここにいて、俺の目の前で窮地に陥っていたから。

「ミカくんはいい人だ」

「そうでもないさ」

 俺がいい人なら、カナを屋上で見た日に、いじめに感づいたその日になにかアクションを起こしていたはずだ。今日だってもっと早いタイミングで助けに入ることもできたはずなのだ。でも、いい人じゃないからグズグズもたついた。

「僕は感謝してる、ミカくんに。ミカくんがいてくれたことに」

「ああ、カナにとってはそうなんだな」

 抱きついているカナの背中を軽く叩こうとして、思い直し優しく撫でるだけにした。

 雲が流れていく。空はますます青く見える。一陣の風が吹くとあの光り輝く蜘蛛の糸はもうどこにも見えなくなっていた。


終わり

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