カバネカクシ 下

【5】

​今、あれだけうるさかった蝉の声が止んでいる。夜でも暑いはずの夏の初めなのに、秋の終わりのようなヒンヤリした冷たい空気が漂っている。一つのジリジリと弱い街灯に照らされた、白いワンピースと白い肌の今にも消えてしまいそうな女性。年は20歳になる手前のはずだが、今目の前に見えるのは、これから高校生にでもなるような少女に見えた。月の明かりにほんのりと照らされた顔には、死体のような綺麗な化粧が施されている。

​先ほど神社で「カバネカクシ」の由来を一緒に聞いて以来、ずっと黙っていた陽景が里美と少し距離を置いて見つめている。突然の告白に少し驚いた里美だが、何か言い返そうとしても言葉が出てこない。目の前にいる白い肌、白いワンピース、儚く消え入りそうな顔の少女。この後、彼女は里美に淡々と自分のことを話していく。その間、里美は何も言えなくなる。ただ聞いているしかなかった。昨日まで親友だった目の前の人が、突然知らない人になったような怖さを覚えた。


​「ごめんなさい。ずっと、言えないで黙っていたことがあるの。お願いだから、私の話を聞いて。」


​陽景は哀願するような、今にも泣き出しそうな目で里美を見つめているが、それとは裏腹に声は淡々としている。これから何を告白されるのか、里美は彼女の異様な雰囲気をどこまで受けとめられるか自信がなかった。


​「あなたとはこの1年間、とても仲良くできたわね。とてもうれしかった。私の人生の中で、こんなにも満たされた時間はなかった。だけど、もう、時間みたい。後で、なぜ今、突然、今日だったのかと思うかもしれない。でも、安心して。その疑問は一時的なもので、すぐに解決するから。」


​その時、静かに風が流れた。夏夜に似つかわしくない、凍りつくような冷たい冷気が里美の肌をかすめていく。


​「私は文久の時代に生まれ、14歳の頃、名前を無くした。大山さんが言っていた「カバネカクシ」の風習は、江戸時代の終わりにはなくなっていたと言っていたけど、実は明治にかけて、まだひっそりとその意味を変えて行われていたの。その頃には、「カバネカクシ」は最初の欲を満たす意味を無くし、一族の繁栄を願う風習に変わった。15歳に満たない子どもの「名前」を取り、「意味」を無くし、「誰」でもなくする。最初は祟り避けの意味だったけど、後に「意味」も「力」も持たない存在は「無垢」や「純粋」という意味付けが施されるようになった。それは代々、歪な感情から風習を続けてきた者たちが繁栄したから、そこに新たな意味が加えられ、その行いを正当化するように変わったのかもしれない。

​しかし、現実に「姓隠し」で名前を無くした子どもは、どこか神聖味を帯びていったのも確かだった。名前を持たずに過ごす子どもは、どこか普通とは変わっていく。その姿が、名前を持つものとの間に強烈な境界を引いた。そして、そのうちにその姿は神格化されていった。その頃には、神様の使いとして、その中で1年ほど神社と主家を行き来して過ごし、周りが前の名前も存在も忘れた頃、殺されて壁にご神体として埋められた。そう、私はその「カバネカクシ」で名前を取られ、壁に埋められた悪しき風習の最後の一人。」


​里美の頭の中は、突然の告白で混乱していた。告白は自分の理解の範疇を超えていたが、温度の下がったこの空間と、淡々と真面目に冷静に語る陽景の様子に、疑うこともはばかられた。鳥肌が少しずつ立っていくのがわかる。


​「私は、この街のある大家の分家の娘だった。江戸時代から隆盛し、幕末の文久まで続く名家で、「カバネカクシ」を始めてから、繁栄した希有な家柄だった。直接的な因果はわからないけれど、家の繁栄の節目には必ず「カバネカクシ」が行われていたという。代々行われる中で、「屍隠し」のための「姓隠し」が始まり、次第にそれは一族の繁栄のための儀式になった。信仰心と形式への美意識が高まり、外者を殺して埋めることは、そのうちに不徳で無意味であると考えるようになり、さらに血の濃い者で行うことで効力が高まるのだと変わっていった。しかし、幕末の動乱で武家社会と幕府が崩れていく中、幕府寄りだった私の家は没落寸前だった。その中で、最後の望みをかけた「カバネカクシ」が行われたの。

​大家には家長がいて、その末男の娘として私は生まれた。一族は分家でもどの家も豊かだったけど、家長の権力は絶対だった。私も十歳になるまでは、何不自由なく主家近くの自分の家で育った。でもある時、突然私は主家で一人過ごすことになった。最初は皆優しかったから、何も疑問は感じなかった。今思えば、泣いている両親の顔が全てを物語っていたのかもしれない。主家に入ると、一つの離れの部屋をあてがわれた。部屋には格子の扉があり、外からしか鍵は掛けられなかった。1年ほどは鍵もかからず家の中を自由に過ごすことができたけれど、12歳のある日、私はとある神社に連れて行かれた。そこでは、半年ほど滞在することになった。最初は肉や魚のない精進料理を食べさせられ、自分でも何が行われているのか、なぜここにいるのかわからず、誰に聞いても『大丈夫』としか言われなかった。次第に不穏な空気を感じ始めた私は逃げ出そうとしたけれど、監視が厳しく、その頃から自由は段々となくなっていった。中では、儀式のための作法を一つ一つ教えられた。そして、ひと月ほどすると、「禊のため」ということで、水行を取らされた。真冬、早朝での外での行水は冷たく、濡れた白衣が凍りつきそうだった。その後、私は簡素な白衣袴に着替えさせられ、神主と巫女の間に入り本殿へと連れて行かれた。そして、神主による祈祷が行われ、私は教えられた通り、お神酒みきを飲んだ。そして、その時に私は名前を失った。」


​「「姓取り」の、儀式…」


​大山に聞いた話とそのままだった。里美は、今目の前の少女に話されていることが「カバネカクシ」の話であるということしか理解が追いつかない。それは、あまりにも、あまりにも突然で、あまりにも突拍子もない告白だった。


​「名前を取られた私は、それ以降自分の名前を口に出すことを強く禁じられた。名前を言うと重いお仕置きが待っていたので、次第に言うことができなくなった。私は1週間か2週間ごとに、神社と主家を行き来した。主家にいても儀式の後からは、周りも一切私の名前を呼ばなくなった。最初は「あなた」や「君」と呼ばれていたが、次第に「オイ」や「コレ」、「ソレ」と呼び方が変わった。「コレ」や「ソレ」と言われることで、段々と自分が人間ではなくなったような、モノであるようにさえ感じられてきた。最後の方では、呼ばれることさえなくなり、移動や食事の際以外には私の存在はなくなっていた。その頃には、格子に鍵がかけられるので逃げることもできず、人間扱いされないことで私も心を無くしていた。

​そして、14歳になった日の夜、私は殺された。」


​その時、電灯がバチっとなり、一つしかなかった街灯が消えた。明かりは月の光だけとなった。暗闇の中に佇む少女は、今里美の目の前に本当にいるのか、その存在さえもおぼつかなくなっている。


​「これで私の話は終わり。里美、この1年間、私の名前を呼んでくれてありがとう。とても幸せだった。里美、あなたは明日には、私の名前も存在も忘れてしまうでしょう。でも、私は最後にあなたと楽しい思い出を作れて良かった。本当にありがとう。私の名前は「陽景」。」


​彼女はそう言うと、里美にそっと近づいてきた。里美は少し怖くて、一歩身体を引いた。陽景が近づいてくると、冷たい冷気はさらに低くなったように感じられた。


​「何を言っているの?陽景、あなた、ちょっとおかしいよ?」


​里美は理解ができず、それしか言えなかった。近づく陽景は、それでもどこか悲しげに、どこか慈しむように里美を見つめる。月明かりの下、近くで見える陽景はいつも以上に白く、どこか神々しささえ感じさせた。彼女は不意に里美の首に手を回すように抱きついた。里美はびっくりしたが、抗うことができなかった。抱きつく陽景の身体は弱く震えている。


​「そう、私は「陽景」、14歳で名前も存在も無くした女の子。話を聞いてくれてありがとう。名前をたくさん呼んでくれて、とても楽しかった。さようなら。」


​陽景はそうささやくと、そっと手を離し、里美の方を見ずにスゥっと自分の住む方へと歩き出した。里美は、その場に立ち尽くし、彼女の後ろ姿を見送る形になった。分岐の向こうの道へ、彼女の白い身体が闇にゆっくりと溶けていった。


​【6】

​しばらく、立ち尽くしているしかなかったが、里美は理解できない頭でゆっくりと自分の家へ歩き出した。身体にはまだ、彼女の冷たい温度と木蓮のコロンのような微かに甘い香りが残っている。

​「陽景は、確か古いマンションの2階で一人暮らしをしていると言っていた。何かの冗談だろう。自分で怖くなって新しく創作したんだ。次に会ったらとっちめてやらないと。」

​里美は、歩きながら、精一杯今あったことへの落としどころを探していた。「もし本当だとしたら、私は1年間幽霊と過ごしていたことになる。さすがにそれには納得できない。きっと事前に大山さんにでも会って、話を聞いて私を驚かすようにしたんだ。だって彼女は地方から出て来て、マンションに住んでいて…」そこまで考えて、里美は彼女のことについて、プライベートなことはそれしか知らないことに気がついた。彼女も里美も友達はお互いにしかいなかったので、大学で他の人といるところを見たことがない。漫画やアルバイトの話はしていたが、彼女の生い立ちなどは聞いたことがなかった。忘れているだけかもと思っても、全然思い当たらない。本屋でアルバイトしていることも知っていたが、どの本屋かは聞いていない。彼女と遊ぶ時は、大体「いるか」で他愛もない話をするだけだった。部屋に遊びに行ったこともなかった。でも、確かにそれでも親友であったことには変わりない。

​「えっと、彼女は文学部で、絵が得意で、向こうの古いマンションの204号室に住んでいて、アイスレモンティーが好きで…あれ、彼女はどこでアルバイトしてたんだっけ?」

​突然、里美は歩いて考えている時に、彼女のことを一つ思い出せなくなった。つい今背中を見送った親友のアルバイト先だ。昼間もその話をしていたはず。しかし、それから頭の中からこぼれるように彼女の記憶が消えていった。「いるか」で飲んでいた飲み物、着ていた服、身長、住んでいるところ。一つ一つが消えていき、そしてとうとう、最後にはもう名前も思い出せなくなった。

​家に帰り部屋に戻ると、里美は大山との取材で得た情報をまとめ出した。「大山さんと二人で話してたけど、どうして大山さんと面会できたんだっけ。確かもう一人私の隣で聞いていたような…。でも、この話は私が祖母から聞いた話をまとめようとしただけだし。そういえば、どうしてあそこが「カバネカクシ」に縁があるのか聞くのを忘れちゃった。小箱のことも。あとでまた聞きに行かないと…。」

​里美は、もう彼女の存在を忘れてしまっていた。今あるのは、ぼんやりとした誰かがいたという気配だけだった。


​後日、大山に再び話を聞きに行くと、やはり、大山も彼女の事は忘れている。なのでお互いに違和感なく再会が出来た。そして、大山の神社が縁があると言われているのは、以前「カバネカクシ」を行っていた神社と大家が没落し、取り壊されることになった時、最後の「カバネカクシ」の犠牲になった者の身体の一部を供養したいと関係者が持ってきたのを引き取ったからだという。話を聞いた当時のこの神社の神主がその話を深く悲しみ、二度とそのような悪習が広がらないように、戒めとして管理することにしたのだそうだ。そして、大山が見せようとした小箱は、その時の「カバネカクシ」にあった者の毛髪が収められた箱なのだと言っていた。

​その後も色々と調べると、取り壊された神社は今はもうマンションになっているらしく、聞くとそこは地元でも有名な、曰く付きのマンションだった。マンションと言うには古く、周囲では「お化け団地」と言われている場所だった。

​そして、大学3年になり、卒業制作を始めようとした里美はプロットをまとめ、今まさに書き始めようとしたところだった。「姓隠し」と「屍隠し」を混ぜながら、時代の変遷でその犠牲になった一人の少女が怪異に変わった怪談を、一人の中学生が探求するフィクションとして書くことにした。


主人公の名前は「陽景ひかげ」。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

204号室【ホラー注意】夜に読まないで にとらかぼちゃ @nitorakabocha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ