ある時、高速のパーキングでヒッチハイカーを乗せてあげた。
彼は日本人だったけど、
日本には何年もいない、他国をまわり、日本は久々だと言っていた。
日本人だけど自分はもう、どの国の人間でもないように感じるとも。
その子の考えていることが面白くて
初めてあったけどかなり深いところまで喋って彼が最後に言った。
「僕は僕の世界を生きる」
「僕はこれが僕なんだという生き方ができているからこれで大丈夫なんだ、筆も本も書かない、写真も取らない、ただフラフラしているだけ、何もしない。でも、僕は僕を生きているこれが僕の表現なんだ」
これは、私の中での宝物だった話だ。
聴く人によっては、閉鎖的に聴こえるのかもしれないから、
僕は彼に対して抱いた一種の敬意を侵犯されたくない気もして、言わないでおいておきたかった。
彼はSNSや他者評価の軸に全く接続されていなかった。
僕たちは、再生数、いいねの数、売り上げ、閲覧数、友達の数、知り合いの質、恋人の身長、見た目。
そんなところから離れられない。
なんとなく、違うなぁと思っていても結局、結果でしか響き合えない日常にいる気がしていたし、諦めてもいた。
言葉はすぐに誤解されるし、接触が少なくなると評価も下がる。
仕方ないのが世界なのかと思っていた時に
突然、本当にエラーのような個体に出会えて
どこか、救われて、どこか羨ましくて、どこか憧れて、
でも、そんな勇気は自分にはないなぁと。
旅をYouTubeに動画あげたり、書籍にしたりする人は多くいるけど
彼はそれで、対価を得ることも考えないと言っていた。
私は自分が考え抜いた末にこの考え方になるだろうと、思っていたところを彼が先に歩いているような気がして、本当に心の中の分かり合えない宇宙が分かり合えないまま互いに響く音がした気がした。
本当の感動は、誰にも言わずそっとしまっておくのがいいんだよね。
でも。なんか、言いたくなった。
よくわからなかったらそれでいい。
わかりあえなくてもいい
わかりあえないことがあると
わかりあえれば。
みんな愛してるよ
おあとが宜しいようで
テヘペロ
(ここにあった本質的な価値というものは、多分誰かに伝えた時点でその重力をなくすと思っています。読んだ人が悪いと言うことではない。感動や本当のことってそういうことなんだと思っていて、私はまた次の宝物を探すことになるのかもしれない。それでも、言ってみたくなりました。()のことはここだけでつぶやいときます。)