私はゴッホの絵が好きだ。
絵を見て泣いたのは正直ゴッホだけなのだ。
星月夜を見ると絵葉書のくせに涙が出てきてしまう。
ゴッホは生前一枚しか絵が売れなかったというが、それが本当ならとても悲しいことだ。
そんなことみんな知ってることだと思うけど。
でも、私はゴッホの絵を好きになったのは割と遅い。正直最初は良さが全然分からなかった。
今は見てゴッホだと思うと神妙に真剣に見入ることが出来る。荒々しい筆遣い、個性的な遠近法、光の捉え方、どれも彼にしか出来ないと心から納得する。
彼がデッサンや技術が元々上手かったとかそんなことは(私には)どうでもいいこと(崩された絵は下手ではなく上手いという基礎がないと納得できない層が一定数いる気がする)でその人の魂が感じられれば芸術はそれで良いと思ってるという私の哲学がある(決して技術の高いものを批判してるのではなく)。
歌も私は上手い人よりいわゆる味のある人が好きなので(下手がいいとかではない、上手いとうまいなぁすごいなぁで終了になる、上手くて味があるでもいいけど、滲んでる感じが好き、これは完全に個人の趣味趣向なので正しいとは思わないけど、味のあるものってやはり大声で言えないからこういう時にコソッとだけ主張したい。平場ではもちろん言わない、魂論は今本当に流行らないし、受け手の好みに大きく左右されるものなのは否定できないし)
そんな中、ゴッホを好きになったのは三十代になってからだった。
その時に思った。
もし、自分がゴッホが生きてるときにゴッホの絵を見たら、
ゴッホが死んで直後、清掃か何かでゴッホの部屋で彼の絵を見たら、
私は彼の絵が凄いと感じることが出来なかったのではないかと、
もしかしたらゴミに出していたのではないかと。
今は値段や知名度、説明がいくらでも溢れているので、彼の絵を凄いと思う方へ誘導されることがいくらでも出来るだろう。
もし、これを読んでくれた人、正直に考えてみてほしい、あなたがなんの知名度もない、凡蔵そうな、根暗そうな人間が絵を描いているとして、その人の絵を真っ当に評価できるだろうかと
もし、YESと言える人は素晴らしい。
でも、そんなYESと言える人が溢れているなら
今現在でも、日の目の見ない日陰のアーティストなんてほとんどいなくなると思うし、
今後も死んでから評価される人は後を絶たないのだと思う。
それを酷いことだとは思わない。
それが世界なんだから。
今、上野にゴッホ来てるみたいですね。
行ってこなきゃ。
おあとがよろしいようで
てへぺろ