第24話 「黒木の本音」(最終話)

 塾の授業を終え、控室で片づけをしていると、黒木塾長が声をかけてきた。


「田村君、ちょっと外で話さないか」


普段と変わらぬ柔らかな笑顔。だが、その奥にどこか決意めいたものが潜んでいるように見えた。

俺は一瞬ためらったが、頷いてカバンを手に取った。夕暮れの街へ出る。人通りは多く、仕事帰りのサラリーマンや学生たちで賑わっていた。


「喫茶店ででも腰を落ち着けて話そうか」


黒木がそう言い、歩き出す。俺も後に続いたが、数分も経たないうちに彼が立ち止まった。


「あ、いや、ちょっと寄り道していいかな」


視線の先には、派手なネオンが瞬くパチンコ屋。


「え、ここですか?」

「そうそう。ちょっと付き合ってよ」


そう言って黒木は笑い、俺を促した。

自動ドアが開いた瞬間、爆音のようなパチンコ玉の響きとタバコの匂いが押し寄せてきた。空気が一気に変わり、さっきまでの緊張感が別世界に押し流されるようだった。

空いているシートに腰を下ろすと、黒木はポケットから缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けた。


「ここなら多少面倒な話をしてても騒音でかき消されるしね」


そう言って笑った声は、これまでの塾長としての穏やかな調子とはまるで違う。もっとざっくばらんで、肩の力が抜けた響きだった。


「……塾長?」

「いやあ、俺もな。元は営業の人間でね。塾長なんて柄じゃないんだよ。教団に言われてこのポジションに就いたはいいが、どう振る舞ったらいいのか分からなくてな。だから、あの"お堅い先生"みたいなキャラを無理やり作ってるんだ」


塾長は苦笑した。

俺は思わず言葉を失った。長らく「塾長」として接してきた人物が、今こうして全く違う顔を見せている。


「安心しろよ。君を教団に売ったりなんかしないから」


突然核心を突く言葉が放たれた。俺は思わず息を呑んだ。


「え……」


黒木は缶コーヒーを一口飲み、続ける。


「実はな。斎藤さんのアパートを調査した後の君の言動で、何か含みがあると感じたんだ。だから意識して君を見てたんだよ。そしたら――少しずつ金遣いが荒くなってきてることに気づいた」


心臓が跳ねた。喉が渇き、声が出ない。


「探偵でもない素人の俺でさえ、お前の素行に気づけたんだ。金遣いにはくれぐれも気をつけた方がいいぞ」


黒木の言葉が胸に突き刺さった。

俺は俯き、握りしめた手のひらに爪が食い込んでいるのを感じた。

黒木はさらに続ける。


「テロの件もな、俺は直接関わってない。だから確証はないが……あれは国家転覆なんて大層なものじゃない。世の中を

混乱させて、人々を不安にして、その隙に教団の信者を増やす――要は、それが狙いだったんだろう」


パチンコ玉の爆音の中でも、その声は不思議と鮮明に耳に残った。


「信者を増やす、か……」

「そう。塾で"地域交流"とか"親子セミナー"なんて窓口を広げてるのも、根っこは同じだよ」


黒木は肩をすくめ、苦笑した。

しばし沈黙が落ちる。だがそれは気まずさではなく、妙に人間臭い間合いだった。


「教団は今回のテロを、最初から"自分たちは関係ない"って体にしてる。実行犯も切り捨てられた。だから、君のところに渡った金を追いかけてくることはないはずだ」

「……本当に?」

「断言はできんがな。ただ、俺の勘ではそうだ。とはいえ――」


黒木は真顔に戻った。


「折を見て、塾のバイトは辞めた方がいい。用心に越したことはない」


俺は唇を噛んだ。ここまで来ると、塾長なのか、ただの一人の男なのか分からなくなる。

黒木は立ち上がり、ネオンに照らされた顔をこちらに向けて言った。


「まあ、あんまり深刻に考えすぎるな。生き残っただけで十分だ」


そう言って笑った顔は、塾で見せていた「指導者」としての顔ではなかった。ただ、疲れを抱えた一人の大人の顔だった。

俺はその背中を見送りながら、思った。

――黒木は意外と、人間臭い存在なんだ。

爆音とネオンの光に包まれながら、奇妙に現実味のあるその感覚だけが、心に残り続けていた。

――

一週間後。

俺は塾への辞表を書いていた。理由は「学業に専念したいため」。ありきたりな文面だったが、それ以上詳しく書く必要もなかった。

母は「急にどうしたの?」と驚いていたが、「もう少し勉強に時間を割きたくて」と説明すると、納得してくれた。

銀行口座の残高は、あの時とほとんど変わらないまま残っている。使いきれないまま、消えることもないまま、ただそこに存在し続けている。

時々、あの金の出所を思い出すと胸が苦しくなる。けれど、もう追求する気力も失せていた。知りすぎてしまった真実は、時として重すぎる荷物になる。

新しいバイト先を探しながら、俺は思った。

普通の日常が、こんなにも貴重なものだったなんて。

窓から差し込む午後の光を眺めながら、俺はただ静かに息を吐いた。

影が落ちた口座の中で、金はまだ眠り続けている。

【完】

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『口座に落ちた影』 @blackstroke

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