第23話 「塾長の誘い」

 山本さんと佐伯さんが突然逮捕されてから、三日が経った。

あの時の騒ぎは嘘のように、塾の中は再び日常を取り戻したように見える。講師たちはいつものようにプリントを抱え、赤ペンを走らせ、控室のコピー機からは規則正しい音が響いていた。

けれど、空気の奥にはどこか沈殿したものが残っている。笑顔を交わす会話の端々に、まだ完全には拭いきれない影が差していた。


「……それにしても、本当に信じられないよな」

「山本さんも佐伯さんも、普通に授業してたのに」


小声で交わされる噂話が、耳に自然と入ってくる。誰もが表面上は仕事を続けているが、心の奥ではまだ動揺を引きずっているのだ。

俺はプリントを重ねながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。三日前の光景が脳裏に蘇る。ハサミを握った佐伯さんの手、刑事に押さえ込まれて机に倒れ込んだ山本さん。あれは夢でも芝居でもない、確かな現実だった。

授業の時間になると、生徒たちもざわつきを隠せない。


「なんかさ、この前、警察が来てたんだろ?」

「先生たちが揉めてたって聞いたんだけど……」


中学生らしい好奇心に満ちた視線が向けられる。俺は曖昧に笑って答える。


「大丈夫。授業には関係ないから。心配することじゃないよ」


それで生徒たちは一応納得したように教科書へ視線を戻したが、胸の奥にわだかまったざわめきまでは消えない。

俺自身だって同じだ。みんなが「普段通り」を取り戻そうとする中で、自分だけが置き去りにされているような感覚。何も知らずに過ごしている方が楽なのかもしれないが、もう俺は何も知らない人間ではいられない。そんな自覚が、余計に孤独を強めていた。


 授業を終えて控室に戻ると、夜の帳がすっかり下りていた。

講師たちは順々に帰り支度を済ませ、廊下に靴音を響かせながら姿を消していく。蛍光灯の白い光に照らされた部屋には、俺と黒木塾長だけが残っていた。

鞄を閉めようとしたとき、不意に声がかかった。


「田村君、少し歩かないか」


黒木の声は、いつもの穏やかさを保っているように聞こえた。けれど、その裏にかすかな含みがあった。


「え……はい」


思わず返事をしてしまった。断る理由もなく、むしろ逆に、断ったら何かを悟られるような気がしてならなかった。

控室を出て、並んで歩く。廊下には誰もいない。足音だけが規則正しく響く。

外の空気は冷え込み始めていて、吐く息が白く広がった。街灯の下に浮かび上がる黒木の横顔は、いつもよりも無表情に見える。


「ちょっとした気分転換だよ」


黒木は軽い調子で言う。その声に緊張を解こうとする意図を感じたが、俺の胸は逆に締め付けられるばかりだった。

(これから……何を話すつもりなんだ)

歩きながらも、心臓の鼓動が耳の奥に反響する。

黒木が何を知っていて、何を知らないのか。その境界線を確かめられる瞬間が、もうすぐ訪れる――。

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