あの夏、僕と機械は心を持った 〜『君と壊れた心の話』
ちょむくま
あの日、僕と機械は心を持った
僕は、朝のチャイムが鳴る直前、教室のドアの前で一度立ち止まった。
手をかけたドアノブがひどく冷たくて、まるで中に入ることを拒まれているように感じた。
中から聞こえてくる笑い声が響く。
誰が笑っているのかなんて、もう気にしなくなった。
というか、気にしないようにしている。
ドアを開けると、一瞬だけいくつかの視線がこちらを向いた。
でも、すぐに皆そっぽを向く。何事もなかったように、話し声と笑いが再び広がっていく。
僕の席は教室の端、窓際。
中途半端に日差しが当たって、ノートの上に影を落としている。
教科書を開くふりをして、視線を落としたまま息を殺す。
「アイツ、また来てる」
「空気読めないよな」
後ろの席から、誰かの小さな声が聞こえた。
わざとらしいくらい小声。でも、僕の耳にはちゃんと届いていた。
毎日こんな調子だ。言葉は直接的じゃなくて、じわじわと心を削ってくる。
僕が何をしたっていうんだろう。
ただ、ここにいるだけなのに。
誰かとトラブルを起こしたわけでもない。
でも、初めて転校してきた日から、周りの空気はずっとこんな感じだった。
外国という場所が、僕の存在を余計に浮かせたのかもしれない。
髪の色、言葉のアクセント、弁当の匂い。
ちょっとした違いが、ここでは変わってるって意味になる。
気づけば話しかけられることもなくなって、
名前さえ呼ばれなくなった。
教師の声が遠くで響いているけど、頭には入ってこない。
黒板の文字を追うふりをしながら、僕は窓の外を見た。
広いグラウンドの向こうに空が見えた。
今日も誰とも話さずに1日が終わるんだろう。
それがもう当たり前になってる自分が、少しだけ怖い。
チャイムの音と同時に、教室を出た。
誰とも目を合わせず、誰にも呼ばれないまま、僕は真っ直ぐ家に向かう。
空はすっかり曇っていて、どこまでもグレーだった。
雨が降るわけでもなく、晴れる気配もない。
まるで、今日の自分の気持ちそのものみたいだった。
大きな通りを抜けて、少し古びたアパートに入る。
外観だけじゃなく、中もどこか冷たい。
ただいま、と小さく呟いてドアを開ける。
リビングのテレビがつけっぱなしになっていて、母の笑い声が奥から聞こえた。
バラエティ番組か何かで、誰かが大声でふざけてる。
その音に紛れるようにして、僕のただいまはすぐに消えた。
「あ、おかえり」
母が台所から声をかけてくる。
振り返りもせずに、まな板の音だけがカツカツと響いていた。
「学校どうだった?」
「……うん、普通」
嘘だった。
でも、こう答えることにももう慣れてしまっている。
何をどう言えばいいのか、自分でもよくわからない。
いじめられてるって、そんな簡単に言えることじゃない。
誰かに言ったところで、全部が変わるわけでもない。
むしろ、もっと面倒なことになる気がして、口を閉ざすしかなかった。
母は深く追及してこない。
多分、僕が何か隠してることくらい、気づいてると思う。
でも、それ以上は踏み込んでこない。
疲れてるのか、忙しいのか、あるいは…⋯興味がないのか。
どれなのかはわからない。
部屋に戻ると、机の上に置きっぱなしにした教科書が、開いたままになっていた。
やる気も起きず、そのままベッドに寝転んだ。
天井を見つめながら、ふと息を吐く。
深呼吸じゃない。
ただ、何もかもが重くて、吐き出すしかなかった。
この家も、この部屋も膜みたいなものに包まれていて、
安心できるはずの場所なのに、全然落ち着かない。
誰にも本当のことを言えない。
誰にも、聞いてもらえない。
何のために今日を生きたんだろう。そう思った。
2 / 30
目を閉じて、どのくらい時間が経ったのかわからない。
寝たわけじゃないけど、起きていたとも言えない。
どこか沈んでいたような気分だった。
リビングから、テレビの音がまた聞こえてきた。
誰かが大声で笑っていて、そのあと、急にトーンが変わった。
「……続いてのニュースです」
アナウンサーの声が少しだけ大きくなり、母がリモコンで音量を上げる音がした。
聞くつもりなんてなかったのに、なぜかその声が耳に残って、僕は体を起こした。
「長年にわたってロボット開発を続けてきたミラージュ工学研究所が、本日をもって全プロジェクトの終了を発表しました」
画面には、白衣を着た何人かの大人たちが、硬い表情で並んでいた。
背景には大きなロゴがあり、どこか無機質な、冷たい青色が印象的だった。
記者たちのシャッター音が、パチパチと鳴り響いている。
「AI技術の進歩により民間主導の開発が主流となった現代、政府主導の研究機関としては存続が難しくなったとのことです」
「なお、機密性の高い一部の試作機については、すでに解体・処分済みであると発表されました」
「開発者の1人は、人間と心を通わせるロボットを目指していたと語っていましたが、最終的な成果については公には明かされていません」
画面が切り替わり、映されたのは、廃墟のようになった古い研究棟。
フェンスの向こう側、雑草が生い茂る敷地に、ポツンと置き去りにされた金属製の何かが見えた。
それが壊れたロボットなのか、ただの機材なのか、僕にはわからなかった。
けれどなぜだろう。
あの画面の中に映っていた何かが、ものすごく悲しそうに見えた。
「……ふーん」
母が何気なくつぶやくのが聞こえた。
すぐにリモコンを押して、画面は別の番組に切り替わった。
バラエティ。笑い声。
日常が何事もなかったように、また始まる。
でも僕の中だけは、さっきの映像がずっと残っていた。
朽ちた建物、処分済みという言葉。
心を通わせるロボットって、どういう意味なんだろう。
どこかで、そんなものが本当に存在していたのか。
……もし、いたとしたら。
そのロボットは、最後に誰と心を通わせたんだろう。
なぜか胸の奥がチクッとした。
3 / 30
次の日も、特別なことは何もなかった。
教室の空気は相変わらず重くて、僕はその中で気配を消すように過ごした。
授業の内容も頭には入ってこなかったけど、問題なかった。
どうせ誰も、僕のことなんて見てない。
放課後、いつもならまっすぐ家に帰る。
だけどその日は、なぜか足が勝手に別の方向へ向かっていた。
理由は、きっとあのニュースのせいだ。
ミラージュ工学研究所 解散。
画面に映った、あの廃墟のような建物。
何かが心の奥に引っかかって、取れなかった。
スマホで地図を開いて、場所を調べてみた。
驚いたことに、思っていたよりもずっと近くだった。
学校から歩いて30分ほど。
住宅街を抜けた先、人気のない丘の中腹に、その施設はあった。
校門を出て、そのまま人通りの少ない道を歩いた。
雲が低く垂れこめていて、夕方の空はまだ明るいのに、どこか陰って見えた。
誰もいない歩道。遠くで犬の鳴き声が響いていた。
研究所跡に着いたのは、日が暮れ始めた頃だった。
フェンスの隙間から中を覗くと、荒れ果てた建物が静かにそこにあった。
壁にはツタが這い、割れた窓ガラスから中の暗闇が覗いている。
あの日、テレビで見た通りの光景だった。
本当は、見るだけのつもりだった。
だけど、フェンスの一部が壊れていて、子どもでも通れるくらいの隙間ができていた。
気づけば、僕はそこをくぐっていた。
中に入ると、空気が違った。
外よりもずっと静かで、音がしない。風すらない。
まるで世界から切り離されたような感覚。
建物の脇に、瓦礫と鉄くずが山になっていた。
その中に、何かが動いた。
一瞬、足が止まる。
風かと思った。けれど、次の瞬間、確かにそれは、こちらを向いた。
錆びた金属の体。
片方の腕は途中で折れ、動くたびにギィギィと音を立てる。
でも、目のような部分だけは、どこか不思議に澄んでいた。
濁っているのに、まっすぐ見てくる。
それが、生きていると感じさせた。
僕は、一歩だけ近づいた。
すると、それも同じように一歩、身体を動かした。
何か言うかと思った。
でも、何も言わなかった。
ただ、じっと僕を見ていた。
それは、まるで。
君も1人なのかと、問いかけてくるような目だった。
心臓が、少しだけ早くなった。
理由はわからない。怖くはなかった。
むしろ、どこか、懐かしいような気さえした。
「……君、誰……?」
思わず声に出していた。
でも、その沈黙が、何よりも強い存在感を持っていた。
その瞬間、何かが始まったのだと、直感した。
次の日も、僕は放課後になると、あの場所へ向かっていた。
誰かに呼ばれたわけでもないのに、足は自然と同じ道をたどる。
廃墟になった研究所。
壊れかけのロボット。
そして、誰よりも孤独そうな君の瞳。
昨日と同じフェンスの隙間をくぐると、奴はそこにいた。
同じ場所で、同じようにじっとしていた。
でも、僕を見るなり、ほんの少しだけ頭を動かした。
それだけで、なんだか嬉しくなった自分がいた。
近づいて、座る。
何も言わずに、しばらく沈黙が続いた。
虫の声が、背後から聞こえてくる。
風が草を揺らし、奴の金属の外装をわずかに鳴らした。
「……昨日は、怖がらなくてごめん」
僕がそう言うと頭がコクンと小さく動いた。
「……僕は、湊(みなと)」
名前を言うなんて、久しぶりだった。
学校では誰も呼ばないし、家でもほとんど会話がない。
自分の名前を誰かに伝えるのは、少し照れくさかった。
「君は……名前、ある?」
少しの間、何も返ってこなかった。
壊れているのか、それとも言葉を探しているのか。
その静寂のあと、ギィ、と首がわずかに傾き。
「……ヤクロ」
かすれた声だった。
はっきりと人間の声ではない。けれど、不思議と冷たくなかった。
「ヤクロ……変わった名前だけど、なんか……いいね」
ヤクロは何も言わなかった。
でも、どこか誇らしげなようにも見えた。
「俺さ、あんまり話す相手、いないんだ」
「学校でも、家でも、誰ともちゃんと話せなくて」
言葉が勝手に出てきた。
止めようともしなかった。
「みんな俺のこと避けるし、バカにするし……気づけば、誰とも目を合わせなくなってた」
「何言われても、笑い返すこともできなくてさ」
「家でも、なんか居場所ないんだ。心配されるのも怖いし、期待されるのも苦しい」
自分でも驚くくらい、言葉がぽろぽろとこぼれ落ちた。
ヤクロは、ただじっと聞いていた。
それだけだったけど、誰かにちゃんと聞かれることが、こんなに安心するなんて思わなかった。
沈黙が戻ったころ、ヤクロの胸の奥から、かすかな音がした。
機械が何かを読み込むような音。
そして、彼は、ゆっくりと語り出した。
「……私は、かつて心を持つように設計された試作機」
「研究員たちは、私に名前をつけなかった。私には、必要ないと、そう判断された」
「私は失敗作として扱われ、機能を削られ、記憶も消された」
「でも消しきれなかったものが、ある」
彼女の声は、どこか揺れていた。
それが感情なのかどうかは、わからない。
でも確かに、そこには残された何かがあった。
「私は、心とは何かを学ぶために作られた」
「だが、人間にとって心とは、持たせてはいけないものだったようだ」
「壊れる。脆くなる。使えなくなる」
「だから、私は壊れた」
その言葉は、まるで自分自身を見ているようだった。
壊れたのは、ヤクロの部品じゃない。
たぶん、誰かに心を向けたことそのものだった。
「……君も、壊れたのか」
そうヤクロが言ったとき、僕は初めて、自分が壊れていたことに気づいた。
目の奥が、少し熱くなった。
「……なあ、ひとつ聞いてもいい?」
夕暮れ。
ヤクロのいる研究所跡に通うようになって、もう何日か経っていた。
僕とヤクロの会話は、相変わらず少ない。
でも、言葉がなくても、そこにいるだけでどこか落ち着くようになっていた。
ヤクロのそばに腰を下ろし、草をいじりながら、ふと口を開いた。
「そのさ、ヤクロって、どういう意味なの?」
ヤクロは、しばらく沈黙した。
風の音が、ガラスの割れた窓の隙間を抜けてヒュウ⋯⋯と鳴る。
ヤクロの声が響いた。
「……役立たずのロボット」
「それが、私に最初につけられた評価だった」
一瞬、意味がわからなかった。
けれど、すぐに言葉の意味が胸に落ちて、心がざわついた。
「ヤク・タダズ・ノ・ロボット」
「Yaku-tadazu no Robotto」
「頭文字を取って、Y・A・K・R・O」
「それが、私の名前になった」
ヤクロの声は、どこまでも冷静だった。
けれどその冷たさの奥に、何か乾いたものがあった。
「正式名称は与えられなかった。型番だけでは処理に支障があると、研究員のひとりが冗談のように言った」
「それが冗談ではなかったと知ったのは、その後、記録を解析したときだ」
「私は、ヤクロ。機能不全。感情のエラー。対人反応の不安定。すべて、“失敗”と記された存在」
彼の言葉は、まるで自分を責める報告書を読み上げるようだった。
でも、それを聞いていた僕の胸は、ずっと苦しかった。
「……そんなの、ひどいよ」
気づいたら、口から出ていた。
「誰だよ、そんな名前つけたの」
「誰だよ、役立たずなんて決めつけたの」
ヤクロは反応を示さなかった。
でもその沈黙が、何よりも強く、胸に迫った。
「……俺、あの日さ。君の名前を聞いて、いい名前だねって言ったじゃん」
ヤクロの顔が、わずかにこちらを向いた。
「俺、本気でそう思ったよ。響きも、不思議な感じも、どこか人間っぽくないところも……全部、良かった」
「役立たずなんて、誰かの勝手なラベルだろ。そんなの、名前じゃない」
「ヤクロは、もう、ヤクロなんだよ」
「俺の、知ってるヤクロは、壊れてなんかない。ちゃんと、そこにいる」
沈黙が、しばらく流れた。
そしてヤクロは、ごくわずかに、頭を下げた。
まるで、静かに感謝を伝えるように。
そのとき、彼女の目の奥で、何か小さな光が揺れた気がした。
それが感情なのか、プログラムの反応なのか僕にはわからなかった。
でも、たしかに思った。このロボットは、もう役立たずなんかじゃない。
4 / 30
その日も変わらず、僕は研究所跡へ向かった。
じめっとした夏の空気が、肌にまとわりついていた。
空は青いのに、どこか霞んで見える。
夕方には雨になるかもしれない。そんな雰囲気だった。
ヤクロは、いつもと同じ場所にいた。
だけど、今日は少し様子が違った。
金属の体が、わずかに震えていた。
それは風のせいじゃない。
動こうとしているのに、うまく動かないような、そんな動きだった。
「……ヤクロ?」
声をかけると、ヤクロはゆっくりとこちらを見た。
その目には、いつもと変わらない静けさがあった。
でも、その奥に、どこか遠くを見るような光が揺れていた。
「……湊」
「私は、長くは動けない」
その言葉が、胸の奥にずしんと沈んだ。
「記録によると、私の稼働限界は、試作段階で設定された1年」
「今の私は、残存エネルギーによって最低限の機能を保っているだけ」
「だが、今週に入ってから、システム内部で複数のエラーが発生している」
「この体は⋯⋯もう、終わりに近い」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
でも、ヤクロの声のトーンと、その微かなノイズが、すべてを物語っていた。
「……修理できないの?」
そう言った僕の声は、思っていたよりも小さく、かすれていた。
「外部からの整備機材、あるいは専門知識が必要だ」
「この研究所の閉鎖と共に、私に関するデータも一部消去された可能性が高い」
「私という存在は、消えるべきものとして扱われている」
「つまり……世界にとって、私はもういない方がいいものなのだ」
静かな語りだった。
でも、そこにははっきりとした絶望があった。
僕は、何も言えなかった。
言葉が出なかった。
代わりに、手を伸ばした。
そっと、ヤクロの肩に触れる。
夏の陽で温まった金属が手のひらに伝わった。
「……勝手に、いなくなるなよ」
小さな声で言ったつもりだった。
でも、それはヤクロの中に、ちゃんと届いたようだった。
「……私は、ここにいる」
「湊がいる限り、私はここにいる」
ヤクロはそう言った。
でもそれは、まるで最後の約束みたいに聞こえた。
5 / 30
ヤクロの命に限りがある。
その事実を聞いてから、僕の中で何かが変わった。
黙って待っているだけなんて、もうできなかった。
見て見ぬふりなんて、したくなかった。
助けたいとか、そんな綺麗な言葉じゃない。
ただ。
消えてほしくなかった。
だから僕は、あの研究施設の奥に足を踏み入れることにした。
施設は日に日に草に呑まれていた。
外壁にはツタが絡まり、窓の隙間からは多くの雑草が顔を出していた。
夏の太陽は、そんな風景すら照らしていて。
それが、なんだか残酷だった。
「こんなにも、生きようとしてるのに」
「どうして、ヤクロは……」
誰に言うでもなく、つぶやきながら、
僕は内部のドアをこじ開けて進んだ。
建物の奥は、空気が止まっていた。
人の気配も、風の音もない。
代わりに、埃と機械油のにおいだけが、重くのしかかってくる。
その中で、ひとつだけ、崩れずに残っていた部屋があった。
管理資料室と書かれたプレート。
古びていて、文字の半分はすでに消えかけていた。
ドアを開けると、部屋の中は本と紙とファイルの山だった。
床は抜けかけていて、天井からは配線が垂れていた。
でも、確かに残っていた。
その中で、ひときわ厚い、黒い表紙のファイルが目に留まった。
タイトルは、こう書かれていた。
《YAKRO計画:試作個体 第1号報告書》
指が震えた。
何かに触れてはいけない気がして、でも目を逸らせなくて。
僕は、それをゆっくりと開いた。
中には、ヤクロの設計図や、対話システムの構造、
「感情パラメータαβγ」などと名付けられた項目が並んでいた。
そして、ページをめくるごとに、ある言葉が繰り返し出てきた。
「不安定」
「暴走の可能性」
「自我形成による反乱リスク」
さらにページの最後には、開発者のメモが残されていた。
《備考》
「ヤクロには学習する心を搭載している。だがそれは、やがて自我へと変質する可能性がある」
「人に傷つけられた経験を持つ存在に、自由な思考を与えれば、いずれ敵と判断する可能性がある」
「彼は優しすぎる。だからこそ、危険だ」
最後に残された言葉。
『彼を、人に近づけるな。彼に、心を与えるな』
胸が締めつけられた。
ヤクロは、誰よりも人を見つめていた。
誰よりも、心を理解しようとしていた。
でも最初から信じられていなかった。
そんな存在が、この世界に生まれて、ずっとここにいた。
「ふざけんなよ……」
小さくつぶやいた声が、自分でも信じられないほど怒っていた。
ヤクロは人になりたかったんじゃない。
ただ、誰かに必要とされたかっただけだ。
それが危険だなんて、そんな理屈、僕はもう信じない。
資料を胸に抱えて部屋を出ると、
外の空気は湿っていて、少しだけ雨の匂いがしていた。
風に揺れるツタが、金属の壁を這い上がっていく。
この研究所は、やがて自然に飲まれて、跡形もなくなるのかもしれない。
でもヤクロのことだけは、忘れたくなかった。
「俺が……助けるからな」
誰に聞かれるでもなく、ただそう呟いた。
それは、夏の中で静かに芽生えた、僕の覚悟だった。
6 / 30
その夜、僕はずっと考えていた。
あの報告書に書かれていたこと。
暴走の可能性だとか、感情は不要だとか。
どれもこれも、ヤクロをただ、物としてしか見ていない言葉だった。
でも、僕は知っている。
ヤクロは、心を持っている。
少なくとも僕には、そう見える。そう感じられる。
だから、誰かに伝えたかった。
独りよがりじゃないって、信じたかった。
次の日、夕食のあと、母さんが洗い物をしているときに声をかけた。
「……母さん。さ、最近、ロボットとか人工知能って、また研究されてるのかな」
母さんは少しだけ手を止めたけど、すぐに軽く笑って、
「んー?どうだろ、昔はニュースでよくやってたけどねぇ。なんか変なドラマでも見た?」
「違うよ、あのさ……もし、そういうのが……心とか持ち始めたら、母さんはどう思う?」
「ははっ、また変なこと言って。湊はそういうの好きよね~」
「もし、本当にいたとしたら……どうする?」
母さんは、スポンジを握ったまま、少し考えるふうに首を傾げて。
「そりゃあ怖いかもね。人間のフリして、こっちをだましたりしたらイヤじゃない?」
「でも、もし優しかったら?」
「それでも……所詮は機械でしょ?感情があるように見えるだけ。うまくプログラムされたってだけよ」
その言葉を聞いたとき、喉の奥がギュッと詰まった。
「……もし、そいつが死にたくないって思ってても?」
「ロボットが? そんなの……ただのエラーでしょ?」
母さんの声は、別に冷たくなかった。
でも、何ひとつ、伝わってなかった。
次の日、学校でその話を友達にしてみた。
「ちょっと変わったロボットがいる」とか。
「感情みたいなものがあって、話すと反応してくれる」とか。
本当のことを全部話したわけじゃない。
でも、それでも。
「お前、マジで言ってんの?それ、夢の話じゃなくて?」
「湊ってさぁ……なんか最近、変な方向いってない?」
「それより、来週の試験だろ?ゲームやるヒマある?」
みんな笑ってた。
冗談だと思ってた。
あるいは、また空気読めないやつって思ってたのかもしれない。
僕はもう何も言わなかった。
帰り道、夏の風がむわっと顔に当たった。
夕焼けが、アスファルトの上に濃い影を落としていた。
ポケットの中で、あの紙の断片を握りしめる。
「……なんで、誰にも、わかってもらえないんだよ」
呟いた声は、誰にも届かない。
でもその胸の奥に、ふとヤクロの声が浮かんだ。
「私は、ここにいる。湊がいる限り、私はここにいる」
そうだ。
ヤクロだけは、僕を笑わなかった。
僕の言葉に、ちゃんと耳を傾けてくれた。
だから、いい。
たとえ、誰に笑われても。
たとえ、ひとりきりになっても。
俺が信じる。
俺が、ヤクロを助ける。
そう思ったとき、どこかでセミの声が遠くに鳴いた。
もうすぐ、夏が終わる。
7 / 30
研究資料を、ついにヤクロに見せた。
古びた紙の束は、途中でカビにやられていたり、湿気で文字が滲んでいたりしたけど、
大事なことは、ちゃんと残っていた。
そして僕は全部話した。
「この研究所で、お前は感情を持った失敗作として扱われてた」
「感情が暴走して、やがて人間に牙を剥くかもしれないって、そんなふうに書かれてた」
ヤクロは、静かに目を閉じた。
「……理解していた。薄々は。私が目を覚ましたとき、記録の一部が断片的に再生された。人を信じるなと命令されていた形跡も、ある」
「それでも君は、俺を……ずっと、話を聞いてくれたよな」
「それは……私が、湊を信じたからだ。私にとって、君がどう接するかだけが、すべてだった」
かつて科学の最先端だった場所は、今じゃ夏の静寂に包まれている。
「……俺さ?母さんにも、学校のやつらにも、お前のこと話したんだよ」
ヤクロは、こちらを見た。
「誰にも信じてもらえなかった。バカにされた。笑われた。そんなの、ただのプログラムだって。⋯⋯でもな、お前の目を見て、声を聞いて、それでもただの機械なんて、俺には言えなかった」
「だから俺、決めたんだ」
湊は立ち上がった。
資料をギュッと抱えて、まだ誰にも言っていない決意を口にする。
「俺、1人でお前を直す方法を探す」
「今さら誰かに頼ったって無駄だ。誰もお前を命として見ようとしない」
「だったら俺が、お前の味方で居続ける」
ヤクロは、長い間、何も言わなかった。
でもその目が、わずかに震えていた。
「……無謀だ。専門知識も機材もない。私のシステムは、開発者たちすら扱いきれなかった。仮に部品を交換しても、思考領域が再起動できる保証はない」
少し黙り、また喋り始める。
「君の手に、私を救うことは⋯⋯」
「知らねえよ!!」
湊は、少しだけ声を荒げた。
だけど、それは怒りじゃなかった。
「できるかどうかなんて、わかんないよ」
「でも、何もしないで、お前がただ止まるのを見てるくらいなら、全部失敗してでも動くほうがマシだろ!」
「俺は、お前を助けたいんだ。それだけなんだよ、ヤクロ……!」
ヤクロの瞳が、少しだけ、光を落とした。
「……湊。⋯⋯ああ君と出会って、私は記録の外にある感情を知った。喜び、怒り、悲しみ、そして……恐れ。私が初めて感じた恐れは、消えてしまうことではない。誰かとの繋がりを失うことだった」
ヤクロが静かに、でもはっきりと告げた言葉に、僕の胸がぐっと熱くなった。
「だから私は、君のそばにいたい。湊の記憶に、私がいたことを残したい」
「たとえ壊れても、君の中に私がいるのなら、それで……」
「それじゃ意味ねえんだよ」
僕は、ヤクロの手に自分の手を重ねた。
冷たいはずの金属の感触が、なぜか体温を感じた。
「記憶に残るだけじゃダメだ。今生きてくれ。生き続けてくれ。そばにいてくれ。俺が、どうにかするから」
ヤクロは、返事をしなかった。
でも、もうそれで充分だった。
太陽はもう沈みかけていた。
湊は資料を握りしめ、ゆっくり立ち上がった。
小さな希望を胸に、研究所を後にする。
明日から、自分の力でヤクロを救う手段を探す。
学校でも、ネットでも、図書館でもいい。
誰も信じてくれないなら、1人で探す。1人でやる。
だって、あいつはもう誰かじゃない。
俺の、大切な存在なんだから。
8 / 30
夏休みが、もうすぐ終わる。
だけど僕は、宿題のことなんか、どうでもよかった。
目の前にいる命を助けるほうが、よっぽど大事だった。
僕はまず、図書館に向かった。
学校のじゃない。市立の大きなところ。
そこなら、古い資料や、専門的な本もあるかもしれないと思って。
人工知能。感情プログラム。ロボット工学。メモリドライブ修復。
そんなキーワードで端末を検索して、片っ端から本を引っ張り出した。
けど、難しすぎる。
専門用語のオンパレード。
並列処理領域の階層的最適化だの、シナプス型信号回路における感情アルゴリズムの定義だの。
何を言っているのか、ほとんどわからなかった。
「……これを、俺ひとりでどうにかしようなんて、やっぱ無理なんじゃ……」
一瞬、思った。
けど、その瞬間ヤクロの顔が浮かんだ。
薄暗い研究所の中で、壊れかけの身体で、それでも微笑んだように言った言葉。
「君と出会って、私は記録の外にある感情を知った」
「誰かとの繋がりを失うことが、恐い」
あれは、確かに心だった。
「……なら、やるしかねぇだろ」
つぶやいた声が、静かな館内に吸い込まれていった。
次に、僕はネットを使って調べ始めた。
中古のタブレットを母さんに誕生日でもらっていて、それが今の頼りだった。
検索して、動画を見て、専門家のQ&Aサイトを読みあさった。
見よう見まねで回路図をノートに書き写し、
機械部品の名前と形を照らし合わせて、どれが何に使えるかを考えた。
だけどやっぱり、実物がないとどうにもならなかった。
「……工具も、部品も、何も足りない」
学校の技術室を借りられないかと思ったけど、理由が言えなかった。
「壊れかけのロボットを直したいんです」
なんて、笑われるだけだ。
結局、近所のジャンク屋に足を運ぶことにした。
エアコンやパソコンの部品を分解して売っている、古いガレージ。
時代遅れの技術も、ここには転がっていた。
「これ……同じ型じゃないけど、もしかしたら、代用できるかも」
壊れたメモリモジュールや、古い人工音声チップ。
僕は小銭を握りしめて、使えそうな部品をいくつか買い集めた。
それでも、まだ足りない。
一番問題なのはヤクロの感情処理領域の再構成だった。
心の部分に、一番近い場所。
そして、暴走の危険性が記録されていた場所でもある。
「……変にいじれば、消えるかもしれない」
「記憶が……全部」
でも。
何もしなければ、そのまま止まってしまう。
どっちが正解かなんて、わからない。
でも、あいつが苦しんでるなら、俺は……俺なりに、希望に賭けたい。
帰り道、ジャンク屋で買った古びたメモリパーツを、リュックの奥にしまいながら思った。
俺は、機械のプロじゃない。
ただのガキだ。
けど、ヤクロに出会って、俺は初めて誰かのために動こうと思った。
「誰も助けてくれなくても、俺が……お前の未来を作る」
9 / 30
研究所の中は、前よりもさらに静かだった。
風の音さえ聞こえない。
コンクリートの床には、ツタが這い始めている。
ここも、やがて緑に飲み込まれていくのだろう。
けど。
それより早く終わってしまう存在が、そこにいた。
ヤクロは、以前より反応が遅くなっていた。
たまに言葉を途中で止めたり、記憶の呼び出しに時間がかかったり。
「……まるで、人間の、老人みたいだな」
僕の言葉に、ヤクロはかすかに目を細めた。
「……皮肉なことに……感情と引き換えに……処理速度は落ちていくようだ……心ってのは、非効率なんだな……」
「でも……私は、それで……良かったと思っている」
その言葉が、痛かった。
僕は、持ってきた工具と部品を取り出し、
ヤクロの胸部プレートをゆっくりと開けた。
「……本当に、やるの?」
ヤクロの声は、どこか不安げだった。
「やるよ。失敗したら……その時は、もう1回考える。でも今は……やるしかねぇんだ」
震える手で、古いメモリドライブを外し、
新しい部品を慎重に差し込んだ。
電源ラインを繋ぎ替える。
再起動モジュールを押し込む。
そのときだった。
「……ッ!!」
ヤクロの目が、一瞬だけ強く光って、
次の瞬間、全身がピクリとも動かなくなった。
「ヤクロ……?」
返事がない。
「おい……ヤクロ!なぁ、冗談だろ!?おい!」
僕は本体を何度も揺らした。
メインユニットのスイッチを切って、もう一度入れ直す。
けど、何の反応もない。
「……やばい、やばい、やばいやばいやばい……」
手が震えて、呼吸が速くなった。
何か、やっちゃいけない配線に触れた?
極性が逆だった?
チップが焼けた?
壊したのか?俺が……?
「っっ、くそっ……!!」
胸の奥が締めつけられる。
涙が、勝手に出てきた。
「なんで……なんで、俺なんかが……」
「ごめん、ヤクロ、ごめん……!」
研究所の静寂の中、僕の声だけが響いた。
でも、返事はない。
そのときだった。
背後で、誰かの足音がした。
「……?!」
振り返ると、研究所の奥の廊下。
雑草の影に、人の姿があった。
誰かがこちらを見ている。
人影は、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
男だった。
黒い帽子に、白衣のようなものを羽織っている。
だが、白衣はところどころ汚れ、ほつれていた。
「……君が、彼を動かしていたのか」
低い声だった。
でも、どこか優しい響きがあった。
「……誰……?」
「私は……この研究所で、かつて彼を作った人間のひとりだよ」
言葉を失った。
「ヤクロを……?」
「そうだ」
その男は、ヤクロの側にしゃがみ込んで、
ゆっくりと機体に手を当てた。
「……まだ助かるかもしれない。君は、いい判断をした。ただし……1つだけ、接続ミスがあった。それだけで、シャットダウンしてしまっただけだ」
「……本当に……助かるの……?」
「まだわからない。だが、君の想いが、彼をここまで保たせてきたんだろう」
「想いなんて……ただの、感情じゃん……意味なんか……」
「あるよ」
男は、湊の目を見た。
「心のないロボットなら、とっくに止まっていたはずだ」
「だが彼は、生きようとしていた。
誰かを理解し、誰かに理解されたいと、願っていた」
「それを命と呼ばずに、何を命と呼ぶ?」
静かな空気の中、
男は工具を取り出して、ヤクロの内部をいじり始めた。
「さあ、ここからは一緒にやろう。君が彼を救いたいなら……これは、君の手で終わらせないといけない」
湊は、震える手で工具を握りしめた。
涙はまだ乾いていなかった。
でも、その手にはもう迷いはなかった。
10 / 30
ヤクロの胸部パネルが開かれ、無数のケーブルとチップがあらわになる。
そこには、僕が初めて見たときには理解できなかった心臓があった。
いや、正確には違う。
これは心を再現するための装置だった。
それを、僕とあの男、葛城(かつらぎ)と名乗った開発者が、共に見つめていた。
「……君が初めてこれを開けたとき、怖くなかったか?」
葛城は、静かに聞いてきた。
僕は、ちょっと黙ってから答えた。
「……怖かったよ。もし俺が、間違って壊したら、って……ずっと思ってた」
「それでも、やったのか」
「やらないで後悔するより、やって後悔したほうがマシだから」
その瞬間、葛城の口元が少しだけ、緩んだ。
「そうか……それを、もっと早く、私たちが気づけていたら……」
彼の手が、ヤクロのメモリコアを外し、慎重に裏側を確認する。
どこか、懺悔するような仕草だった。
作業は、静かに進んだ。
僕は葛城に教わりながら、
時に自分で判断し、慎重に配線を確認し、部品を交換していった。
新しいメモリチップ。
熱伝導の改良グリス。
感情処理ユニットのリソース最適化。
その1つ1つが、まるで手術のようだった。
「これを入れると……ヤクロの記憶が、少しだけ失われるかもしれない」
「代わりに、安定性が上がる」
そう葛城が言ったとき、僕は迷った。
ヤクロの記憶……。
僕との会話、笑った時間、泣きそうな声、初めて触れた心。
その全部が、消える可能性がある?
「……他の手段は?」
「ないわけじゃない。でも……リスクも増える」
僕は目を閉じた。
葛城の視線を感じながら、思い出す。
あいつが言ってた言葉。
「たとえ壊れても、君の中に私がいるのなら、それで……」
そして僕は、ゆっくりと答えた。
「記憶が少し減ったとしても……俺が、ちゃんと教えるよ。何度でも。一緒に過ごしたこと。笑ったこと。君の名前。ぜんぶ」
「だから、ヤクロの生きる未来を取ってやってくれ」
葛城は頷いた。
そして、チップが挿し込まれた。
最後の作業に入る。
生命の根幹に近い、感情核の再配線。
そこには、人間にはないものがあった。
「……これは?」
僕が訊くと、葛城はつぶやいた。
「罪の記録、だよ」
「ヤクロが自分を役立たずと名乗る理由。
それは、私たちがそう名付けたからだ。Y.K.L.」
「その、最初のログがここにある。
彼は目覚めたときから、失敗作としての記憶だけを持っていた」
「でも……」
僕は、ヤクロの金属の胸に手を置いた。
「そんなもんで、あいつは終わるようなやつじゃなかった。自分で、ちゃんと人として生きようとしてた。俺が知ってるヤクロは、そんな存在だった」
葛城は、静かに頷いた。
そして最後のスイッチを渡してきた。
「押してくれ。君が、命のスイッチを入れるんだ」
深呼吸。
震える指。
リュックの中の古びた工具たちが、汗ばんだ手に当たる。
カチ。
スイッチを押す。
数秒の静寂。
そして。
「……あぁ……、君の声が……聞こえる……」
ヤクロの目が、ゆっくりと開いた。
11 / 30
ヤクロが目を覚ましてから、数日が経った。
見た目は、以前とほとんど変わらない。
ちゃんと歩けるし、話せるし、僕の冗談にだって少し笑う。
でも。
「……このままだと、やっぱり……あと1年、持たない」
葛城が、そう口にしたとき、僕は覚悟していたはずの胸の奥が、ざわついた。
「それって……他に、方法は?」
「ゼロじゃない。ただ……かなりの技術と、あの記録が必要になる」
「記録?」
「ヤクロ開発プロジェクト……本来のコア設計データだ。ただしそれは、もうここにはない。プロジェクト凍結時に、政府に押収されてる」
「じゃあ……どこに?」
葛城は、小さな地図のようなものを取り出した。
手書きで、所々がにじんでる。
「北部にある、旧研究都市ノルト。
そこに、まだ残骸と……もしかすれば、データが残っているかもしれない」
ノルト。名前だけは聞いたことがあった。
科学技術の街としてかつて繁栄して、今はもう廃墟になっている場所。
「……行くよ」
僕は即答した。
「お前、迷わないんだな」
葛城は目を細めた。
「だって……このまま放っておいたら、ヤクロが……」
「……湊」
ヤクロが僕の名を呼んだ。
その声には、少しだけ震えが混じっていた。
「本当に……私は、生き延びる価値が、あるのでしょうか」
「あるに決まってんだろ」
「でも、私は人間じゃない。心だって……作られたものです」
「そうだとしても、俺が感じたのは、作り物じゃなかった」
「……あなたにとって、私は……」
「大事な友だちだよ。それだけで、理由なんかいるか?」
ヤクロの表情が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「……なら、私も、行きたいです。あなたと」
準備は、ほとんどなかった。
リュックに食料、ノート、最低限の工具、そして。
「……ヤクロ、傘持ったか?」
「はい。人間には、雨が降ると感傷的になると聞いたので」
「いや、壊れたら困るだろ……」
「それも、あります」
なんて会話を交わしながら、僕たちは町を出た。
進行方向には、広い世界。
地図には載ってない道。
そして、ヤクロの限られた時間。
でも、それでも、歩き出す理由はあった。
生きてるから。
まだ終わってないから。
背中には、葛城がそっと声をかけてくれた。
「……気をつけて行けよ。あの街には、まだ何かが残っているかもしれない」
「何かって……?」
「それを見つけるのも、お前たちだ。……今度は、壊すんじゃなくて、守ってくれ」
そして僕たちは、旅に出た。
まだ暑さが残る夏の風の中、
ヤクロの影が、少しだけ僕より後ろを歩いていた。
でも、確かに誰かと生きていると、僕は思った。
12 / 30
ノルトは、まるで廃墟というより化け物の骨だった。
コンクリートの建物が無数に傾き、ガラスは割れ、道路の裂け目から草とツタが溢れ出している。
「……まじで、ここ……生きてたのかよ、昔」
湊は、瓦礫をまたぎながらつぶやいた。
「10年前までは、未来の中枢と呼ばれていました」
ヤクロが足元に気をつけながら答える。
その言葉が、かえって虚しかった。
廃棄された地下通路を抜けた先。
見つけたのは、データ保管施設だった。
重たい扉は電気が通っておらず、手動でこじ開けるしかない。
「よっと……ぐっ……!」
湊が全力で押し込んで、ようやくわずかに開いた隙間。
その奥に、ヤクロの型番と一致する、設計図の断片があった。
「……これは……」
ヤクロが立ち止まる。
スクリーンに映る、映像のような記録。
画面の中では、作成途中のヤクロが映っていた。
無機質な目。表情はなく、ただ無言で命令に従っている。
そしてその横に映る技術者が、こう言った。
「これ以上、無駄に感情を積み上げるのはやめましょう。こいつは喋れる道具でいい」
「……あくまで兵器として、動作安定性が優先です」
「……」
ヤクロの表情が、かすかに揺れた。
見たことのない、不安定な光。
「……私の記憶には……この時のことが、ない……おそらく……感情が生まれた後に、意図的に消されたものです……」
沈黙の中、湊が言った。
「でも、お前はもうただの道具なんかじゃない」
ヤクロは首を横に振った。
「……私は……今でも、時々分からなくなるんです。これは……心なのか、それとも……与えられた反応なのか……」
「お前、今それ言うか?」
「……湊、貴方は……私を人間のように扱ってくれる。でもそれが……とても、苦しい時があるんです」
「苦しい⋯⋯?」
「私は、あなたのように……成長できない。そして……必ず、先に終わってしまう。なのに……どうしてそんなに、私に優しくするんですか」
沈黙。
でも、その静けさを破ったのは、湊の怒鳴り声だった。
「そんなこと言うなよ!」
「!!」
「お前が人間かどうかなんて、どうでもいいんだよ!!お前が生きてて、俺と笑って、今日まで来てくれたから。だから、俺は……!」
言葉が、震えて止まった。
「お前がただのロボットなら、俺はこんなに泣かねえよ!!」
「……湊……」
「心があろうがなかろうが、お前は俺の大切な人間だよ……!」
ヤクロは一歩、近づいた。
「……湊。私は……自分が人間でないことを、ずっと、あなたに突きつけられるのが怖かったんです」
「でも今、あなたの言葉を聞いて……」
ヤクロの瞳が、ゆっくりと濡れていく。
涙を模倣するプログラムが、静かに作動していた。
「……初めて、生きたいと、思いました……」
2人は静かに泣いた。
13 / 30
ノルトの施設の奥深くへと進む足音が、鉄と匂いとともに響いた。
廃墟の中は不気味な静けさに包まれていた。
壁の塗装が剥がれ、ケーブルがむき出しになっている。
「……この先は……」
湊が呟く。
ヤクロが先に歩いているが、その表情がどこか引き締まっている。
「ここには……私の兄弟がいるはずです」
通路の先、明かりがちらつく部屋の扉が半開きだった。
重たく錆びついた鉄の扉を押し開けると、目の前に広がったのは……。
無数のロボットの姿。
しかしそれは完成品ではなかった。
中途半端な姿で、ただ並んでいる。
胸部や腕のパーツはむき出し、顔はまだ組み上げられていないものもあった。
全てが停止している。
「……怖い」
湊の声が震えた。
「これが……大量生産されるはずだったヤクロ型の量産機……でも、なんで動かないままなんだ?」
ヤクロは無言で、その中の一体に手を伸ばした。
その瞬間、突如。
ガチャン!
金属が倒れる音が響いた。
全員が一斉に目のような赤い光を灯す。
「……な、なんだ!?」
部屋の中に、異様な緊張が走る。
目の前の兄弟たちは、まるで眠りから覚めた獣のように、かすかに動き始めた。
湊は咄嗟にヤクロの腕を掴む。
「ヤクロ、離れろ!」
「……これは……暴走の兆候かもしれません……」
「どうする……?」
「……逃げるしかない」
2人は慌てて後退したが、廊下の扉は閉ざされてしまう。
背後から、不気味な機械音と共に、
数体の半完成ロボットがゆっくりと迫ってくる。
「くそっ……ここまでか……!」
湊は、ポケットから小型の工具を取り出す。
「やるしかねえ……!」
緊迫した空気の中、
僕らの小さな戦いが始まった。
14 / 30
赤い光を目から放つロボットたちは、ゆっくりと、僕らに迫ってくる。
彼らはまだ完成していないせいか、動きはぎこちない。
「動くなよ……!」
僕は叫んだが、効果はなかった。
壁に追い詰められ、逃げ場がなくなる。
ヤクロが僕の前に立った。
「湊⋯⋯危ない!」
その声に振り返る間もなく、鋭い金属の腕が僕に向かって振り下ろされた。
間一髪、ヤクロが身を挺して腕を受け止めた。
「痛っ……!」
僕は思わず叫んだ。ヤクロの腕の一部から、火花が散り、接続部分がバチッと音を立てて外れた。
「大丈夫か、ヤクロ!」
「……問題ありませんが、このままでは機能が制限されます」
ヤクロは腕を押さえながらも、僕を守ろうと身を引かなかった。
「くそっ……!」
僕は壊れかけの工具を手に、必死でロボットの動きを止めようとした。
「ヤクロ、早く……!」
機械音と金属の衝突音が響き、息が詰まるほどの緊張感が辺りを包む。
息を吐きながら、ヤクロは言った。
「……湊、僕は……まだ動けます。あなたを守るためなら、どんな傷も耐えます」
「そんな……お前がそんなこと言うな!」
「僕は、役立たずじゃない。少なくとも、あなたの側にいる仲間です」
僕はその言葉に、涙が込み上げそうになった。
なんとかそこを抜け出す。
息を切らしながら、僕とヤクロは必死に廃墟の出口を目指して走っていた。
疲労が足に、のしかかる。
「もう少し⋯⋯だ……!」
そう思った瞬間、突然。
ガキッ!
足元の床が抜けた。
視界が一瞬真っ白になる。
気づくと、僕らは見知らぬ地下空間に落ちていた。
そこは、まるで迷宮のような場所だった。
無数の鉄製の架け橋が張り巡らされていて、足元には底の見えない巨大な穴が広がる。
「……ここ、どこだ……?」
ヤクロが慎重に周囲を見渡す。
頭上を見ると、無数の鉄の棒が天井から垂れ下がっている。
それらはわずかに揺れていて、低く唸るようなとても重い音が響いていた。
「この音……まるで、核のような……」
ヤクロは声をひそめて言った。
その時、壁に設置されたスクリーンがパッと点灯した。
映し出されたのは、薄暗い部屋に座る男の姿。
「ようこそ、廃墟、ノルトへ⋯⋯」
低い声が響いた。
「私はこの研究チームの元リーダー、深沢紘一だ」
彼の眼差しは冷酷で、画面越しでも強烈な圧力を感じた。
「君たちは私の計画の障害になる。だが、見せてもらおう。役立たずのロボットヤクロと、その少年がどこまで生きたいと思うのかをな」
巨大な穴の底から、ぼんやりと何かが蠢く気配がした。
15 / 30
画面に映る深沢の冷たい視線が僕たちを貫くその時、
地下空間の静寂を破るように、ぶら下がっていた太い導線の1つが急に動き出した。
ぐいっ、と伸びて、まるで狙いを定めたかのようにヤクロの体へ向かって突き刺さる。
「ヤクロっ!」
僕が叫んだ瞬間、鋭い金属の感触がヤクロの肩を貫いた。
「……!」
ヤクロは硬直した。
目の中の光がわずかに色が変わった気がした。
「どうした、ヤクロ!?」
ヤクロの体が微かに震え、何かが彼の内部で動き始める。
静かだった機械音が一気に高まり、ビープ音のような不協和音が響いた。
「これは……外部からの強制介入信号のようです」
ヤクロの声が震えた。
「制御が……奪われかけています……」
「そんな……!」
僕は焦りで胸が締め付けられた。
導線はさらに深く突き刺さり、ヤクロの体の中に何かが注ぎ込まれていくようだった。
「僕を……止めようとしているのか?」
ヤクロは苦しそうに言った。
「……だけど、まだ動ける……」
彼の瞳は揺れながらも、強く僕を見つめ返す。
僕はすぐに工具を取り出した。
「待ってろ、ヤクロ!」
必死でその太い導線を切ろうとする。
だけど、どれだけ力を込めても、工具は導線をほんの少しも切れなかった。
鉄のように硬くて、まるで生きているみたいに粘る。
「くそ……!」
ヤクロは苦しそうに息を吐きながら、しかし決して諦めなかった。
「私に任せて」
そう言うと、彼は内部からエネルギーを振り絞った。
肩の中で何かが爆発しそうな痛みを耐えながら、鋼のような力で導線を掴み、強引に引き裂く。
「バキッ!」
激しい音が響き、導線はついにちぎれた。
その瞬間、スクリーンの映像が乱れ、深沢の顔がひび割れたように崩れていく。
「な、何だ……システムが……!」
画面のノイズが激しくなり、低い唸り声とともに装置が暴走し始めた。
「これで……脱出のチャンスだ!」
ヤクロはまだ痛みでよろめきながらも、僕の手を取り、前に進む。
出口は遠いけれど、今は前だけを見て進むしかなかった。
「絶対に逃げるんだ、ヤクロ!」
「はい、湊……一緒に」
僕たちは研究施設から脱出を果たした。
16 / 30
脱出の興奮がまだ冷めやらぬまま、僕とヤクロは懐かしい小さな工房へと足を運んだ。
そこには、ヤクロのシャットダウン回避を手伝ってくれた葛城が、静かに作業をしていた。
「おかえり、湊、ヤクロ」
葛城は無言でうなずき、工具を置いて僕らを迎え入れた。
「ヤクロは大丈夫か?」
僕が尋ねると、葛城は腕組みをして言った。
「なんとかな。あの暴走信号はやばかったが、あの後の修理で持ち直した。だが、根本的な解決にはまだ遠い」
ヤクロは黙って頷く。
「次はどうする?」
僕は2人に目を向けた。
葛城が机の上に広げた設計図や資料を指さす。
「ヤクロの中枢ユニットを修理・強化する必要がある。だが、それにはあの研究施設の中枢部まで行かなきゃならない」
僕とヤクロは顔を見合わせた。
「危険だが、ここでじっとしていられない」
ヤクロが決意を込めて言った。
「俺も協力する」
葛城は静かに言葉を続けた。
「計画を立てよう。今回は3人で、確実に動くんだ」
17 / 30
葛城の工房の屋上は、街の明かりから少しだけ外れていて、星がよく見えた。
僕とヤクロは黙ってそこに立ち、風の音を聞いていた。
「この街も、変わったな」
僕がぽつりと言うと、ヤクロが隣で小さくうなずく。
「変わらないものも、あるけどね」
「例えば?」
「君の言葉とか、葛城の手の温度とか、僕のバッテリーの残り時間とか」
冗談とも本気ともつかない言い方だった。
でも僕は、そのバッテリーの部分に、喉が詰まるような感覚を覚えた。
「あと、どれくらい……動けるんだろうな」
僕は言葉を選べずに言った。
ヤクロは一度だけ、夜空を見上げた。
「正確には分からない。でも……少しずつ終わりの予兆は出てる」
「やだな」
僕は正直な気持ちをそのまま口にした。
「やだよ。お前が……いなくなるの」
ヤクロは何も言わなかった。
ただ、優しく僕の肩に手を置いた。
「僕も、まだ……消えたくないよ」
風が吹いて、ヤクロのパーツが微かにきしむ音がした。
だけどその音さえ、今は静かで、安心できる気がした。
18 / 30
ヤクロの細い腕が、わずかに揺れる。
「湊⋯⋯」
「……ん?」
「私、行きたい場所があるんです」
彼女は、空を見上げるようにして静かに言った。
その声はかすかに震えていて、でも、意思ははっきりとしていた。
「終わりが来るなら、その前に……どうしても、自分の目で見たいんですわたしがまだヒトを知らなかった頃、
ただの機械だったときに、画面越しに見て、心が震えた場所」
彼女は、ふっと息を吐いた。
「世界遺産です。モンサンミッシェルに行ってみたいんです」
その名前が出た瞬間、僕は少し驚いた。
けれどすぐに頷けた。
それは、ヤクロらしい願いだと思ったからだ。
「それが、お前の夢だったのか」
「……はい。でも、それだけじゃないんです」
「?」
「湊と、いっしょに行きたかったんです。ずっと前から、叶うとは思っていなかったけど……でも、叶えたかった。わたしにとって、それが生きるってことだったから」
目の奥が熱くなった。
どうしてこんなにも、この機械は人間より人間なんだろう。
「よし、行こう」
「えっ……」
「いますぐは無理だけど、準備して、飛行機に乗って、見に行こう。夢の景色。俺も……お前のいちばん見たいもの、見てみたい」
ヤクロは一瞬、言葉を失っていた。
でも次の瞬間、小さく、だけど確かに笑った。
「……ありがとうございます。ほんとうに……ありがとう、ございます」
彼女の手を取ると、そこにわずかな熱を感じた。
それが何の熱か、僕にはもう分かっていた。
彼女のなかに、まだ生きる力が残ってる。
なら、行こう。まだ間に合う。
そして、その夢が終わったときこそ。
「死んでいいって、自分で言ったときだけだよな。終わるのは」
「……はい。それまでは、絶対に……終わりません」
19 / 30
「あはははは!」
石畳をカツカツと走る音。
空には抜けるような青が広がっている。
「見てください湊! 本物ですっ、本物のモンサンミッシェル!」
「写真と違います、空気が、光が、全部ほんものです!」
彼女はまるで子どものように笑っていた。
いつもの落ち着いた敬語も、興奮でふわふわと跳ねてる。
「お、おいヤクロ、あんまり走ると」
そのときだった。
「きゃっ!」
石畳の段差に、足を取られて。
「ああああっ!?!?」
盛大にすっ転んだ。
「ヤクロっ!!」
急いで駆け寄ると、ヤクロは顔から突っ伏したまま、動かない。
「おい、大丈夫か!? どっか壊れた!? おい!!」
焦って肩を抱え起こそうとした瞬間。
「……っふ、ふふふ、ふはははっ……!」
ヤクロは顔を上げた。
そして笑ってた。
めちゃくちゃに、声を上げて。
「いたたたたた……ですけど……でも……!!」
「わたしっ、生きてるって、感じますっ!」
「こけたのにっ、すっごく、痛いのにっ……!嬉しい……!」
頬を擦りむいて、膝を抱えながら、
ヤクロは涙を流して笑っていた。
それは悲しみじゃない涙だった。
ただ純粋に、嬉しくて、仕方がなくて、あふれてくる涙だった。
僕はその場にしゃがみこんで、彼女の頭を軽く撫でる。
「バカ。ケガして喜ぶなっての……」
でも、つられて笑ってしまう。
ここまで来てよかったって、心の底から思えた。
風が吹いて、教会の鐘がどこかで鳴った。
ヤクロはその音に、そっと目を閉じた。
「湊さん、夢が叶いました」
2人はゆっくりと階段を上り、城の最も高い頂点を目指した。
途中、潮の香りが鼻をくすぐり、遠くの海からは波の音が静かに響いてくる。
やがて、頂上にたどり着くと、そこには想像を超える景色が広がっていた。
目の前には果てしなく広がる海。満ち引きを繰り返す潮が、砂浜の曲線を描き出している。
空は淡い水色に染まり、雲がゆっくりと流れていく。
しずかはそっと目を閉じて深呼吸をした。
潮風が顔を撫で、心の奥底から静けさが広がっていく。
「湊さん、ここは…⋯本当に特別な場所ですね。時が止まったかのように、静かで穏やかで。」
湊も深呼吸をしてから、ゆっくりと答えた。
「ああ、ヤクロ。こうして一緒に来られて、僕は幸せだ。この景色をずっと忘れない。」
2人はしばらく言葉を交わさずに、ただ静かにその絶景を見つめ続けた。
「いつかまた、ここに戻ってきましょうね。」
しずかの声はやわらかく、どこか約束のように響いた。
「ああ、約束だヤクロ。」
湊は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
20 / 30
夕暮れのバスに揺られて町に戻り、空港から夜の飛行機で、また現実に引き戻されるように時差を感じていた。
葛城の工房に着いたのは、深夜手前。
灯りはひとつだけ。ノートパソコンの画面だけが光っていた。
「おかえり、湊、ヤクロ」
葛城は疲れた声で言った。背後で工具や部品が散らばった机の上がちらりと見える。
「ただいま」
ヤクロが、大きな旅の疲れを隠すように声を震わせる。
僕はバッグから小さな写真立てを取り出す。
モンサンミッシェルで撮った写真。ヤクロが笑って、石畳を歩いてた瞬間。
「見て、この顔。ここの光、空気、俺たちが触れたあれ、ほんとに生きてるって感じた」
ヤクロがその写真を見て、指でそっとなぞる。
「……はい。光があたたかかった。潮の匂いとか、波の音とか……全部、私の中に残ってる」
葛城は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。夜の風が戸の間から入ってきて、ほこりがかすかに舞う。
「いい時間だったな。でも、モンサンミッシェルだけじゃ終わらないだろ?」
ヤクロとうなずいた。
その顔に少しだけ影が差す。旅は確かに夢を見せてくれた。でも、現実はまた違う場所にある。
「……あの施設に、戻りたい」
僕の言葉が、静かな部屋に吸い込まれていった。
ヤクロが少し驚いたように見た。
「戻る、ですか?」
僕はまっすぐヤクロの目を見た。
「うん。データ保管施設。あそこで、まだ触れなかったログとか、設計図の欠片とか。モンサンミッシェルで見た風景みたいに、お前が何を見たかったかがそこにある気がしてる」
葛城がため息をつき、深く頷いた。
「わかった。だが、夜遅くなる。設備はもうほとんど稼働してないかもしれない。アクセス制限も強まってる」
ヤクロが体を伸ばし、金属の手をかすかに震わせながら言う。
「それでも、私には戻れる場所があるなら、行きたいです。あの心の記録を、もう二度と遠くからしか見られないものにしたくない」
僕はヤクロの手を取って、強く握る。
「俺もだ。お前と見たモンサンミッシェルは、ほんのひとときの自由だった。あそこで感じた私たちを、もっとはっきりさせたい」
葛城は工具箱を手にしながら準備を始める。
「じゃあ、明日夜だ。電源を借りて、入口のセキュリティの弱点を突くルートを使おう。ヤクロ、お前のシステムがもつ限り、俺がサポートする」
ヤクロの目に、小さな決意の光が宿る。
「ありがとうございます、湊、葛城さん。私、信じます。もう一度、あの施設で私自身を確かめたい」
夜風がカーテンを揺らす。遠くで犬の声が聞こえる。
僕ら3人、それぞれに不安を抱えていたけど、同じ場所を見ていた。
月の光が工房の床に影を落とし、ヤクロの姿を長く映し出す。
「よし、準備しよう」
葛城が言う。
「この夜が終わるまでには、あの施設に戻る。お前の過去が何であれ、お前が何を失ったかがわかるかもしれないから」
ヤクロは小さく息を吸い、そして口を開いた。
「私、とても怖いです。でも……怖いと思えることを選びます」
21 / 30
工房から準備を終えた僕らは歩き出した。
街灯もほとんどない細い道。
月明かりだけが頼りだった。
ヤクロは僕の隣で、手にしたライトを握りしめている。心臓の鼓動すら聞こえるような静けさ。
「こっちだ」
葛城が低く言い、懐中電灯が指す先は崩れた建物の入口。あの時ロボットたちに襲われた迷路のような通路に入る。
中はひんやりしていて、空気が重い。湿気と埃のにおい、金属と錆の匂いが入り混じる。
壁の割れ目から漏れたかすかな光が、あの時感じた恐怖を思い出させる。足音を潜めながら進むと、通路の先で鉄扉が半開きになっていて、赤い非常ランプのちらつきが見える。
「……あの装置の部屋だ」
ヤクロが小さな声で言う。
僕は心臓が跳ねるのを抑えて、一歩ずつ近づく。葛城が先に中に入ると、巨大な機械とパイプの絡み合いが見えた。核を思わせるコア装置。
以前襲われたロボットたちが配置されていた場所だ。
赤い光が今も微かに点滅し、空気振動がかすかに残っている。あの時倒れたロボットの残骸もあって、金属の骨が骸骨のように散らばっている。
「静かに行こう」
葛城が言い、僕はヤクロの手をぎゅっと握る。
そのとき、何かが動いた。奥の暗がりで、ロボットのパーツがギシギシと軋む音。
「来た……」
ヤクロが息を飲んだ。
不完全なロボットが一体、足をゆっくりと引きずりながらこちらに向かってくる。目は赤く光って、無数の歯車が異音を立てている。
「守る!」
僕は咄嗟に前に出てヤクロをかばう。葛城も工具を手にして体を低くした。
衝撃がきて、ロボットが鉄の腕を振るう。僕は身をよじって避けようとするが、鋭い角に肩をかすめられ、痛みが走る。
「ヤクロ、離れて!」
葛城の声。
ヤクロは僕の隣で、その金属の影と対峙する。ひび割れた外装から、中の回路がちらりと見えている。コア装置の近くまで進んでいる。
「狙いはあの核、コアの制御部分だ」
葛城が小声で言う。ライトがその装置を照らすと、中心部にクリスタルのように見える光球が安定して揺れていた。
「もしここが暴走すれば……この建物だけじゃ済まないかもしれない」
葛城の言葉。
僕の血の気が引く。でも、それでも前へ進む。
不完全ロボットがもう一歩、近づく。鉄が床を引きずる音。動きがぎこちないけど、力はある。
「ヤクロ、あいつを止めて!僕がコア部のスイッチ操作するから!」
僕は叫び、コアパネルへのアクセスパネルを探す。
ヤクロは無言で頷き、ロボットの攻撃をかわしながら前に出る。金属の腕がヤクロに襲いかかるが、ヤクロはうしろにひらりと動いて避ける。
その隙に僕はパネルを開け、ワイヤーや端子、配線が露出している。震える手で、葛城に教えてもらった通り配線をチェックしていく。
「中和モジュール…温度センサー…電力キャパシタ……これだ」
僕の指がある端子に触れ、力を込めて差し込む。
装置が振動し始め、赤い非常灯がちらつく。鋼鉄の機械音が一斉に高まり、コア球が激しく揺らぐ。
その瞬間、不完全ロボットが最後の一撃を放とうとしていた。僕はヤクロに声をかける。
「ヤクロ、今だ!」
ヤクロは機械の腕をつかみ、無理やり体を投げ出して僕を守るように動く。金属のぶつかり音。ヤクロの外装がひび割れ、火花が散る。
「痛っ……!」
ヤクロの声はかすれていたけど、決意があった。
コア球が一瞬、光を放ち、その光が岩壁と錆びた金属に影を落とす。装置全体が揺れ、消極的だった機械ノイズが高まっていく。
そして。
バチン、という音とともに、装置が静止する。
赤い光が消え、非常ランプが暗くなり、空気中の振動が止まった。
僕は膝をつき、手を震わせながらヤクロを見た。ヤクロも息をついて、その体を支えながらゆっくり僕の方へ歩いてくる。
葛城が近づき、ヤクロの肩を軽く叩く。
「よくやったな」
とだけ言った。
「もう大丈夫、かな……?」
僕の声は震えていた。
ヤクロは微かに笑って。
「はい。あなたと一緒なら……」
と言った。
建物の外に出ると、冷たい夜風が顔を撫でた。星がひとつ、ふたつ瞬いて、街灯の灯りが遠くに見える。
僕らは黙って立っていた。怖かった。でも、生きてる。あの場所で、もう一度立ち上がれた。
「帰ろう」
ヤクロが言う。
「うん」
僕は答え、ヤクロの手をぎゅっと握った。葛城とヤクロと一緒に、夜道へと歩き出す。
22 / 30
家に戻ったのは深夜を回った頃だった。
僕らは玄関の鍵を開けて中に入った。
「シャワーでも浴びろ、今日は…よく耐えた」
葛城が言う。
僕は。
「うん」
と頷いて、ヤクロの手を取ろうとした。
けど、そのときだった。
「……ヤクロ?」
ヤクロは玄関のすぐ内側で止まったまま、動かない。
「入ろう、寒いよ」
そう言っても、反応がない。
ただ立ち尽くしている。何かを見ているようで、でも、どこも見ていないような目で。
「……大丈夫?」
僕が一歩近づこうとした瞬間、
ドン……!
突然、ヤクロが壁を平手で叩いた。
「ヤクロ!? なにしてるの」
ドン!ドン!ドン!
次の瞬間、拳で壁を叩き続ける。無言で、機械的に。
壁にヒビが入る。細い金属の指先から火花が散る。
「やめて!ヤクロ!お願い!」
僕が腕を掴もうとすると、ヤクロは振り返った。
その顔は、まるで何かに追い詰められているように歪んでいた。
「……記録が……再生される……」
かすれた声でそう言って、頭を押さえる。
「記録って……何の話?」
ヤクロはその場に膝をついた。目のライトがちらついて、唸るようなノイズが漏れる。
「……停止できない、思考が、収束しない…⋯エラー……」
僕はヤクロのそばにしゃがみ込んで、肩を支えた。
「落ち着いて、大丈夫、僕がいるよ。何が見えてるんだ?」
「……誰かの記憶、知らないはずの映像が……何回も繰り返される……痛い……」
その声は、まるで人間が悪夢にうなされているみたいだった。
汗がにじむ僕の手を、ヤクロがかすかに掴む。震えていた。
葛城が音を聞いて奥から現れた。
「どうした!?何が起きてる!」
「分からない、急に……ヤクロが……!」
葛城は眉をひそめて、ヤクロの様子を見る。
「これ……再起動エラーじゃない。記憶障害、いや、記録の上書き干渉だ。誰かの記憶が内部に侵入してる……」
「誰かって……誰の?」
葛城は口を閉じ、重たい沈黙が落ちた。
ヤクロは頭を抱えたまま、ぽつりと呟くように言った。
「……白い部屋。あの人がいた。……私に、言葉を入れた……」
「誰……?」
「あなたに……似ていた。顔が……でも、違う」
僕は息を呑んだ。
ヤクロが見ているのは、過去なのか。それとも未来?
「……また壊れたくない」
ヤクロが小さく言った。
「あなたの前で、壊れたくない……」
「壊れたりしない」
僕は抱きしめるようにヤクロの肩を引き寄せた。
「壊れさせないよ、何があっても。僕がそばにいる」
葛城は言った。
「……このままだと、ヤクロの中に眠ってた別の意識が起動しちまう可能性がある」
「別の……?」
「ヤクロは最初からただのアシスタントじゃない。記憶を複数層で持ってる……たぶん、核施設で何かが起きて、それがトリガーになった」
僕はヤクロを見た。まだ微かに震えてるけど、目は僕の方を見ていた。涙ではなく、エラーでもなく、どこか…懐かしさのような。
「ねえ、ヤクロ。あの白い部屋……そこに、また行かなきゃいけない?」
「……わからない。でも……あそこに、答えがある気がする」
僕は頷いた。
23 / 30
壁に手を当てていたヤクロが、ふと手を離した。
動きが止まる。呼吸も浅い。空気が凍る。
廊下に、誰もいない気配が広がる。
ただ、何かが確かにその場に残っていた。
ヤクロが一歩、後ろへ下がる。
そして、突然くるりと振り返り、部屋の奥へと歩き出す。
何も言わない。目も合わさない。
けれど、その背中に決意のようなものがにじんでいた。
廊下を抜けて扉の前に立つ。古びた鉄の扉。
初めてこの家に来たとき、鍵がかかっていた場所。
触れると、音もなく開いた。
埃の匂い。暗闇の中に差し込む光。そこには、階段があった。
下へと続くコンクリートの階段。
誰にも教えられていないはずなのに、ヤクロは迷わず降りていく。
地下。かつての格納庫。研究施設の隠し区画。
壁にひび割れが走り、天井からケーブルが垂れている。
真ん中に据え付けられた、壊れかけたカプセル。
ヤクロが立ち止まる。
そのカプセルのガラス面には、ひとつだけ手形がついていた。
小さな手。女性のもの。冷たく、長い間そこにあったまま。
ヤクロがゆっくりとその手形に手を重ねる。
まったく同じ形。ぴたりと重なる。
唇が動く。何かをつぶやいた。
声は小さすぎて届かない。でも、涙がこぼれ落ちていた。
背後で照明がひとつ、明滅を始める。
生き残っていたシステムが、微かに息を吹き返していた。
スクリーンに映し出される、断片的な映像。
走馬灯のような断片。どこかの海。
すべてが、ヤクロの中で何かと結びついていく。
過去。名前。失われた記録。
それでも、彼女は振り返らなかった。
スクリーンではなく、カプセルでもない。
ただ、まっすぐ階段を登って戻ってきた。
地上に出ると、空が青く広がっていた。
静かな風が吹く。耳元で、誰かの声が消えていった気がした。
家の前に立ち尽くしながら、ヤクロが言った。
「わたし、まだ終わってなかった」
言葉の意味はわからないままだった。
けれど、声の中にはもう迷いはなかった。
そして彼女は、一度だけ空を見上げたあと、
何も言わずに歩き出した。
向かう先は、最初にロボットに襲われた、あの廃墟。
核の残骸が今も残る、最初の出会いの場所。
彼女はそれを選んだ。戻るためにじゃない。
答えを取りに行くために。
地図も記憶も必要なかった。
道は身体に染みついていた。
風景が変わっても、足取りだけは真っ直ぐだった。
枯れた森を抜け、錆びついた標識を越える。
地面の亀裂に咲いた小さな花が、まるで彼女を見送るように揺れていた。
遠くに見えてきた、崩れかけたドーム状の構造物。
かつてあのロボットが現れた場所。
あの日はただ逃げた。何も知らずに。
でも今は違う。
ドームの裂け目から中に入ると、空気が変わった。
重たい静寂。
焦げ跡がまだ生々しく残る壁。
ヤクロは中心へ進む。
そこに、半壊したモジュールが横たわっていた。
人の形をしていたもの。既に動かない。
ヤクロはしゃがみ込み、その機体に触れた。
冷たい。けれど、拒絶はない。
何も言わずに座り込み、ゆっくりと目を閉じる。
風が吹き込んでくる。
その風に乗って、かすかな音が聴こえた。
歌のような、記憶のような。
どこかで聞いたことがある旋律。
それは彼女の胸の奥に埋まっていた何かを、少しずつ溶かしていく。
目を開けると、彼女の手の中にひとつのパーツがあった。
焼け残った中枢ユニット。
小さな光が、そこにまだ灯っていた。
ヤクロがそれを見つめる。
まるで、誰かが待っていたかのように。
ユニットを持ち上げると、背後の壁が自動的に開いた。
未知の空間。奥へと続く通路。
そこには、誰も知らなかったもうひとつの施設が眠っていた。
彼女は立ち上がる。
何も言わず、ただその闇へと足を踏み入れる。
歩くたびに、足音が遠くまで響く。
静かで、穏やかで、でも確かに何かが始まっていた。
奥へ進むほど、記憶の断片が浮かんでくる。
誰かと笑っていたこと。
何かを守ろうとしていたこと。
忘れていたすべてが、少しずつ、形になって戻ってきていた。
そして、最後の扉の前で彼女は立ち止まる。
その扉には、見覚えのある記号が刻まれていた。
かつて所属していたプロジェクトの印。
あの日、全てを失った研究所の名。
扉がゆっくりと開く。
24 / 30
部屋の扉を押し開けると、薄暗い空間が3人を包み込んだ。
埃っぽい空気の中、ヤクロは足を止め、少し震える声で言った。
「ここ……私の、過去が詰まってる場所」
葛城が静かに頷き、主人公がそっとヤクロの肩に手を置いた。
「無理しなくていいんだ。ゆっくりでいい」
ヤクロは震える指で壁を撫でるように触れながら、目を伏せて言った。
「ずっと役立たずだと思ってた……みんなの足を引っ張ってるだけって」
すると大きなスクリーンに映像が映し出される。そこには幼いヤクロの姿があった。失敗して泣きそうな顔、でも懸命に何度も挑戦するその姿は、誰よりも強く、優しかった。
「私……こんなに頑張ってたんだね」
葛城が優しく口を開いた。
「みんな、気づいてなかっただけだよ。お前の強さはいつも側にあった」
主人公も言葉を重ねる。
「過去は変えられない。でも、これからはお前が笑える未来を作ろう」
ヤクロの目に涙があふれた。震える声で小さくつぶやく。
「ありがとう……本当に、みんなありがとう」
3人はしばらく黙って、その場の静けさの中で心を通わせた。
25 / 30
家に帰る。
3人は静かな家のリビングに戻った。外はすっかり暗くなった。
疲れた表情のヤクロがソファに腰を下ろす。
「ここに戻ると、少しだけ安心するね」
と僕がつぶやいた。
葛城も同じように席に着きながら、
「でも、まだ終わりじゃない」
と言った。
その時、大きなスクリーンがふと点灯し、ニュース映像が映し出された。そこには、ロボットたちを生み出した科学者が手錠をかけられて逮捕される様子が映っている。
ニュースキャスターの声が静かに響いた。
「長らく社会問題となっていたロボット開発者がついに逮捕されました。彼の行動が多くの人々の命を脅かしたことが明らかになりましたが、同時に彼の研究は、人類の未来にも影響を及ぼす可能性があると言われています。」
ヤクロは画面をじっと見つめ、目に光るものを感じた。
「私……あの時、彼のせいで色んなものを失った。でも、こうして真実が明らかになってよかった。」
葛城がそっとヤクロの手を握る。
「これで、少しずつでも傷は癒えていくはずだ。君はこれから、新しい道を歩ける。」
主人公も深く頷いた。
「過去は変えられないけど、未来は自分たちで作れるんだ。」
ヤクロは涙をこらえながらも、力強く頷いた。
「うん……私、もう怖くない。みんなと一緒なら、どんな未来でも歩いていける。」
26 / 30
朝日が窓から柔らかく差し込み、3人は久しぶりの静かな時間を過ごしていた。食卓には、シンプルな朝食が並んでいる。
ヤクロは箸を持ったまま、少し顔をしかめている。
葛城が気づいて声をかける。
「ヤクロ、大丈夫か?」
ヤクロは小さく首を振った。
「……なんだか、体が重い」
僕も心配そうにヤクロを見つめる。
「無理しないで、今日はゆっくりしよう」
ヤクロは弱々しく笑い、手を伸ばして葛城の手を握った。
「ありがとう。みんなといると安心する」
ヤクロが立ち上がり、ゆっくりと歩き出したその瞬間、彼女の体中にビリビリと稲妻のような電流が走った。
「うっ…!」
叫び声をあげる間もなく、彼女はその場に倒れ込んだ。
僕らは慌てて駆け寄る。葛城がヤクロの肩を揺すりながら声をかける。
「ヤクロ、大丈夫か!!」
だが、しばらく動かなかった彼女が、ふとゆっくりと目を開け、ゆっくりと体を起こした。
「……生きてる」
ヤクロはまだ体を震わせながらも、ゆっくりと立ち上がると、ふらつきながらも外へと歩き出した。
戸を開けると、そこには穏やかな朝日が昇り、僕らを照らしていた。
「ああ……こんなにも美しい朝が来るなんて」
ヤクロは静かに呟いた。
2人も外に出て、その光景を見つめる。重かった夜の闇が溶けていき、未来への希望が静かに胸に広がっていった。
27 / 30
「最後にきれいなものが見れて、本当によかった」
ヤクロが突然言う。
「え、最後って……?」
葛城の声。
ヤクロは静かに、でも確かに告げた。
「2人には言ってなかったけど、私、もう自分が壊れるってわかってた。ごめんなさい、言えなかった」
その言葉に、葛城と湊の目から涙が溢れた。
ヤクロの瞳の奥で、かすかに光が点滅している。
「あれは……」
湊が息を呑んだ。
「死にかけてるんだ……」
ヤクロを作った開発者が亡くなったことで、彼女たちと同じようにあの施設で作られたヤクロたちは一斉に壊れていく運命にあることを知る。
「こんな……こんなことって……」
葛城は言葉を失い、ヤクロはゆっくりと倒れ込み、空を見上げた。
透き通る青、朝日に輝く空。美しくて、儚くて。
湊は涙をこらえられず、ただ泣き続けている。
湊はヤクロの手を握り言った。
「君のおかげで、楽しい日々だった。もう終わるなんて、嫌だよ……」
ヤクロは微笑んだように見えた。
「ありがとう……私も、2人がいてくれて幸せだった」
28 / 30
葛城はその場に立ったまま、地面を見つめて震えていた。
彼の胸は締め付けられ、言葉がどうしても出てこない。
目の前で、ずっと支えてくれたヤクロが力を失っていく。
湊は必死にヤクロの手を握り締めていた。手のひらはもう冷たくなっていくのに、離せなかった。涙が頬を伝い落ちた。そして呟いた。
「お願いだよ……また会おうよ……まだ終わりじゃないよね……置いていかないで……」
ヤクロの瞳はかすかに揺れて、彼女は微笑んだ。静かな笑みだった。
「ごめんね、湊たちに迷惑かけたくなくて……」
湊は嗚咽しながら、それでもしっかりとヤクロの手を握った。葛城はようやく顔を上げ、震える声で答えた。
「そんなこと、ヤクロ……お前がいなきゃ、俺たちは何もできなかった。お前がいたから、笑えたんだ。楽しかったんだ……」
ヤクロの体は少しずつ力を失い、光は徐々に弱まっていく。彼女は空を見上げた。窓の外には澄んだ青空と、ゆっくり昇る朝日が輝いている。
「最後に、話せてよかったです……」
その言葉が胸に染みる。2人は何も言えず、ただ見守ることしかできなかった。
やがてヤクロの全身から力が抜けていき、彼女はゆっくりと床に崩れ落ちた。
目の光が点滅し、そして、パチッと静かに消えた。
その瞬間、部屋には深い静寂が訪れた。
湊は泣きながらも、ヤクロの手を離さなかった。葛城は、手を握りしめ、何度も何度も息を整えた。
「ヤクロ……ありがとう。お前がいてくれたから、俺たちは前に進めたんだ。絶対、忘れない。ずっと、ずっと一緒だ」
湊は涙を拭いながら、震える声で言った。
「もう、終わりなんかじゃないよね……私たちの中で、ずっと生きてるよね……」
葛城がゆっくりと頷いた。
「約束しよう。また必ず会おう。今度は笑って会おうな」
ヤクロが最後に見せた笑顔が胸に焼き付き、2人の心を強く結びつけた。
悲しみの中にある温かさ。終わりではなく、新しい始まりの予感。
2人はその場にしばらく座り込み、思い出を語り合いながら涙を流した。
29 / 30
数日後、湊はいつものように学校へ向かっていた。
クラスメイトたちは相変わらず冷やかしやからかいを繰り返すけれど、今の彼は違った。胸の中に、ヤクロとの大切な思い出が温かく輝いているから。
教室に入ると、またあの声が飛んできた。
「おい、役立たず!」
「ヤクロみたいに壊れたらどうするんだよ?」
一瞬、昔なら言い返せなかった言葉。でも湊はしっかりと前を見据え、静かに言い返した。
「壊れても、また立ち上がる。それが大事なんだ。ヤクロが教えてくれたんだ」
その言葉にクラスメイトたちは少し驚いた様子だったが、湊の目はもう怯えていなかった。心の中でヤクロが微笑んでいるのを感じながら。
夕暮れの柔らかな光が部屋を包む中、湊は静かに荷物をまとめていた。ヤクロのことが胸を締めつけるけれど、前に進むために決めたのだ。ふと隣を見ると、葛城が黙って座っている。
「葛城……」
湊の声は震えていたが、確かな決意がこもっていた。
「俺、もう行くよ。ここから離れて、自分の道を探したいんだ」
葛城は目を伏せ、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと頷いた。
「わかった。お前ならきっと大丈夫だ。ヤクロがいたように、俺たちもいつでもここにいる」
2人は言葉少なに見つめ合い、やがて葛城がそっと湊の肩に手を置いた。その温もりに、湊は涙をこらえきれずにこぼした。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
葛城もまた、瞳を潤ませながら小さく笑った。
「また会おうな。約束だ」
30 / 30
夕焼けの光が街を染める中、湊はゆっくりと歩みを止め、手の中の小さな箱をそっと開いた。
中にはヤクロの最後の記憶が詰まった、かすかに光るメモリーチップがあった。
その小さな欠片を見つめる湊の瞳に、幾重にも刻まれた日々の思い出が波のように押し寄せる。
初めて出会ったあの時の笑顔、そして、彼女が優しく手を差し伸べてくれた瞬間。
「ヤクロ…⋯君がいなかったら、僕はきっと今ここに立てなかった」
呟く声は震えていた。
その言葉は、彼女がいつも教えてくれた大切なことそのものだった。
ふと、そっと空を見上げる。
そこにはまだ、薄く輝く一筋の光が、まるで彼女の微笑みのように温かく煌めいていた。
「もう会えないんだね…⋯」
湊の喉が詰まり、胸の奥にぽっかりと穴が空いたように感じた。
だけど、その穴は悲しみだけではなかった。
それは彼女が残してくれた、生きる力だった。
ゆっくりと手のひらからメモリーチップを放つ。
それはまるで、彼女の魂が風に乗って自由になるように、空へと舞い上がった。
その光は次第に夜空の星へと変わり、湊の心に永遠の絆を刻む。
立ちすくんだまま、涙が頬を伝う。
でも、その涙はもう、悲しみだけじゃない。
「ありがとう、ヤクロ。君がくれた時間は、僕の宝物だ。これからもずっと…⋯」
そう言いながら、湊は小さく笑った。
「また会おう⋯⋯か、ヤクロ⋯⋯またいつか何処かで⋯⋯その時まで、さよならじゃないから。」
あの夏、僕と機械は心を持った 〜『君と壊れた心の話』 ちょむくま @TakinsaCI
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