第17話
ノアの「夢を叫ぶ」という馬鹿げた提案は、結局、実行には移されなかった。
あの後、彼女は「更なる分析が必要です」という一言を残して自室に戻り、それ以来、二人の間には、また以前のようなぎこちない沈黙が戻っていた。
だが、その沈黙は、以前とは少しだけ違っていた。
レイは、ノアのことを、ただ冷たいだけの支配者ではなく、どこかネジが外れた、奇妙な生き物として認識し始めていた。そのおかげで、以前ほどの息苦しさは感じなくなっていた。
決して良い兆候ではない。この監獄での生活に、心が少しずつ、順応し始めている証拠だから。
その日の午後、レイはマナの病室で、彼女にオルゴールのゼンマイを巻いてやっていた。優しいメロディが、完璧に管理された清潔な部屋に響き渡る。
最新の治療のおかげで、マナの顔色は、ストレイ層にいた頃とは比べ物にならないほど良かった。彼女は、楽しそうにオルゴールの音色に耳を澄ませている。
この光景を守るためなら、俺の選択は間違っていなかった。レイは、そう自分に言い聞かせた。
「ねえ、お兄ちゃん」
マナが、ふと、不思議そうな顔でレイを見上げた。
「ん? どうした、マナ」
「最近、ミオちゃんもジン君も、全然遊びに来てくれないね」
その、あまりにも無邪気な一言に、レイの心臓が、どきりと音を立てて跳ねた。
「二人とも、元気なのかな? マナ、会いたいな」
「……ああ」
レイは、なんとか声を絞り出した。
「二人とも、元気だよ。最近、ちょっと……忙しいだけだ。また、すぐに会えるさ」
嘘だった。
最後に会った時の、ミオの泣き顔が、ジンの怒った顔が、脳裏に焼き付いて離れない。会えないんじゃない。俺が、あいつらを突き放したんだ。
マナの純粋な瞳を見ていると、自分のついた嘘の重さに、胸が押しつぶされそうだった。昨日まで感じていた、奇妙な軽やかさは、一瞬で消え去っていた。
ここには、マナの命を救うための、全てがある。
だが、ここには、俺たちが生きてきた「日常」の、温かいものは、何一つないのだ。
マナが再び眠りについた後、レイは静かに病室を出た。
廊下では、ノアが壁に寄りかかって、彼を待っていた。彼女は、中の会話を全て聞いていたに違いなかった。
「今の会話における、あなたのストレス値の急上昇を観測しました」
ノアが、いつものように、分析結果を口にする。
「個体名『ミオ』と『ジン』は、あなたの精神状態における、極めて高い不安定要因のようですね。彼らとの物理的接触を遮断した私の判断は、やはり正しかったと言えま――」
「――うるさい」
低く、地の底から響くような声が、ノアの言葉を遮った。
「全部、てめえのせいだろうが」
レイは、ゆっくりとノアの方を向いた。その瞳には、昨日までの呆れの色ではなく、凍てつくような、純粋な憎悪が浮かんでいた。
「あんたが、俺の世界に土足で踏み込んできたからだ。俺から、ミオを、ジンを、マナの前で嘘をつかなきゃいけない、こんなクソみたいな状況を……。全部、あんたが奪ったんだ」
その、剥き出しの敵意を、ノアは真正面から受け止めていた。
彼女のガラス玉のような瞳が、わずかに揺れる。
彼女の完璧なはずの観測は、またしても、予測不能なエラーに直面していた。
自分の「合理的」な判断が、サンプルであるレイの中に、観測史上、最大級の「負の感情」を生み出してしまった、という矛盾。
その事実を前に、ノアは、何も答えることができなかった。
ポンコツお嬢様が現れて、俺の人生を札束で買い占め始めた件 境界セン @boundary_line
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