第16話

 あの日、レイが「契約破棄」というカードを切って以来、彼とノアの間の空気は、凍りついたように冷え切っていた。

 ノアは、レイの友人たちのデータを観測することをやめた。その代わり、彼女はレイに対する、ほとんど全ての口頭でのコミュニケーションを停止した。

 朝食の席で交わされるのは、執事を介した、業務連絡のような伝言だけ。日中の「課題」も、端末に送られてくる無機質な指示に変わった。

 レイは、その静寂を歓迎した。彼女の声を聞かなくて済む。彼女のガラス玉のような瞳に見つめられなくて済む。それは、精神的には、遥かに楽だった。

 だが、その完璧に管理された静寂は、この豪華な医療タワーが、やはりただの監獄であることを、レイに嫌というほど思い知らせた。


 そんな奇妙な冷戦が、一週間ほど続いた、ある日の午後。

 レイが自室で、ただぼんやりと窓の外を眺めていると、部屋のドアがノックされた。入ってきたのは、ノアだった。

 彼女は、何も言わずに、レイの前に一つの箱を置いた。リボンまでかけられた、過剰に立派なギフトボックスだ。

「……なんだ、これ」

「贈り物です」

 ノアは、淡々と答えた。

「データ分析の結果、友人関係の構築において、『贈与』は極めて有効な手段であると結論付けられました。よって、あなたとの関係改善のため、これを贈ります」

「はあ?」

 レイは、呆れて言葉も出なかった。関係改善? こいつは、俺たちの喧嘩を、そんな風に分析していたのか。

 レイは、乱暴に箱を開けた。中に入っていたのは、最新鋭の携帯ゲーム機だった。ストレイ層の人間が、一生かかっても買えないような代物だ。

「あなたの年齢、性別、社会的階層における、最も人気の高い娯楽用品です。統計上、92%の確率で、あなたのポジティブな感情を引き出すと予測されます」

「…………」

 レイは、無言で箱を閉じると、それをテーブルの隅へと押しやった。

「いらねえよ、こんなもん」

「なぜです? 統計的妥当性は、十分に担保されています」

「そういう問題じゃねえんだよ」

 レイは、頭痛をこらえるように、こめかみを押さえた。

「いいか、友達ってのはな、こんな風に、相手が欲しがりそうなものをデータで調べて、一方的に送りつけるようなもんじゃねえんだよ」

「では、どのようなプロセスが、より最適なのでしょうか?」


 ノアの、あまりにも真剣な問いに、レイは、怒る気力さえ失っていた。

 こいつは、本気で分からないのだ。

 レイは、やけくそになったように、言った。

「……そうだな。例えば、ジンとは、よく一緒にバカなことをしたもんだ」

「『バカなこと』。定義が曖昧です。具体例を」

「例えば、そうだな……」

 レイは、遠い目をして、昔を思い返した。

「二人で、屋上から街に向かって、将来、どれだけでかい仕事をしてやるか、大声で叫んだりな。今思えば、本当に、ただのバカだ」

「なるほど」

 ノアは、手元の端末に何かを打ち込むと、すっくと立ち上がった。

「レイ。今すぐ、このタワーの屋上へ行きましょう」

「……は?」

「『バカなこと』の再現実験です。あなたと私が、二人で屋上から『夢』を叫んだ場合、私たちの間に『友情』に類似した感情的リンクが形成されるか、検証します」


 その、あまりにも斜め上を行く提案に、レイは、しばらくの間、完全に思考が停止していた。

 怒りを通り越して、もはや、目の前の少女が、どこか別の星から来た、全く違う生き物のように思えた。

 レイは、深く、深いため息をつくと、初めて、ほんの少しだけ、笑ってしまった。

「……あんた、本当に、変わってるな」

 それは、ここに来てから、レイが初めて見せた、侮蔑でも、怒りでもない、純粋な感情の発露だった。

 その予期せぬ反応に、今度はノアの方が、ガラス玉のような瞳を、わずかに見開いていた。


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