04 逆落とし
治承三年(一一八四年)二月四日。
源義経は麾下七十騎とともに、そこから間道を抜け、福原をめざしていた。
福原には、平家棟梁、平宗盛が、本陣をかまえ、三種の神器、幼い安徳天皇(宗盛の甥)を擁している。
義経は、視界の先に福原を捉えた。
「よし」
義経は笑った。
史上、一ノ谷の戦いといわれるこの戦いで、彼は今、のちに逆落としとよばれる電撃戦をしかけようとしていた。
かつての平家の都――福原は、源義仲により焼き払われており、今は焼け野原だ。その焼け野原の中に宗盛の本陣がある。
本陣は四方に幕を張られ、平家の武者たちがそこかしこに
その武者たちが一斉に殺気立ち、矢を放つ。
「
義経は短く、切るように言う。
七十騎はその命に従い、平家の矢を躱す。
「行くよ」
義経は先陣を切り、平家の軍勢の中をまっすぐに駆ける。
「見えた」
義経は
「
馬は跳び、幕を越えた。
眼前に、宗盛、神器の箱、そして幼い帝。
「いた」
単騎踊り込んだ義経に、宗盛は驚いたが、次の瞬間、口ひげをふるわせながら叫んだ。
「
「へえ、それは大変」
幕をめくってやって来る平家の武者たちを前に、義経は肩をすくめた。
「でも、亡き父の仇、取らせてもらう。われこそは源義朝の子、九郎義経」
義経は矢をつがえた。
宗盛はその矢の向いた先に驚倒する。
「ま、まさか」
義経の矢は安徳天皇に向いていた。
「やめろ」
宗盛は安徳天皇を引き寄せようとしたが、かまわず射た。
「あっ」
一瞬。
宗盛がその身で安徳天皇を覆った。
「おや」
義経の矢は、宗盛の袖を射抜いた。
だが義経は特に残念がる素振りを見せず、二の矢をかまえた。
「どうにも弓は不得手でね。じゃ、次」
「ま、待て」
宗盛が叫んだ。
「
それまで硬直していた平家の将兵であるが、この声を聞いて、義経へ襲いかかる。
そこへ、追いついた弁慶が薙刀を振るった。
「武蔵坊弁慶ここにあり! 今ぞ、われら一万騎が九郎さまと共に!」
「い、一万騎」
宗盛がうめく。
それは事前に物見を通じて知られていた、義経が鵯越で軍を分ける前の人数である。
だが今は七十騎しかいないが、宗盛にはそれを知りようがない。
むしろ、それだけの後衛がいるからこそ、こうして大将の義経がみずから攻め込んで来たのだ──と思った。
思ってしまった。
「や……やめろ」
宗盛は思わず口走る。
こうしている間にも、義経は二の矢を放ち、宗盛がかろうじて太刀で払った。
「へえ、頑張るじゃないか。でも、逃がさないよ」
「よせ、帝だぞ、子どもだぞ」
宗盛はあえぐように言った。
恐れ多いとは思わないのか。
かわいそうだと感じないのか。
「全然」
義経はあっさりと答える。
「そも、わが父、義朝はお前たち平家によって死んだ。その仇として、その子を
平治の乱に敗北した源義朝は、平清盛に勝てず、敗走のあげくに、家人に裏切られて死んだ。
それならわが首を討てと宗盛は言おうとした。
だがその前に、義経は三の矢を矢筒から出しながら言った。
「それにお前たち平家は、その子がいなければ、ただの神器泥棒じゃないか」
義経は容赦無く三の矢を射た。
宗盛は安徳天皇を突き飛ばす。
矢は安徳天皇のいた場所に突き刺さった。
「そら、平家の肝は帝、あなただ。ここで討たせてもらうぞ。さすれば平家は逆しまに落ちる。逆落としだ――」
宗盛は歯噛みした。
そう思っていた。
だが、この目の前の源九郎義経とやらは。
「ではその首をいただく」
安徳天皇という──平家の擁する帝さえ討ってしまえば良いということに気がついた。
安徳天皇さえいなければ、三種の神器など、何の意味も無い。
安徳天皇は小さい。
つまり、安徳天皇がいなくなってしまえば、平家はただ、受け継ぐべき者のいない神器を、不当に占有する逆賊に堕ちる。
なぜなら、京には、すでにもう、帝(後鳥羽天皇)がいるのだから。
「帝、帝、落ち着かれませ」
宗盛はこの場にいることに限界を感じた。
一万騎と聞いたが、そうすぐには来まい。
それならば。
「退け! 海に出るぞ! 舟へ!」
宗盛は麾下の将兵を義経に当たらせる。
義経は冷笑して、逃げるかと言いつのった。
「かまうな! 帝、急ぎ御座船へ!」
こうなっては、生田口の知盛や塩屋口の忠度、夢野口の教経を呼び寄せている暇はない。
宗盛は必死になって、義経から逃げ、海へ海へと、遁走していった。
*
「行ってしまいましたな」
弁慶は手で
紅い旗をなびかせ逃げていく平家の軍勢が、点のようになっていく様子が見えた。
「行ってしまったね」
義経は満足そうに笑った。
彼の狙いは、実にこれであった。
平家の肝──安徳天皇を脅やかし、おそらくはそのそばに近侍する宗盛を脅し、撤退せしめる。
「さすれば、今、戦っている、それぞれの口の平家の軍も退かざるを得ない」
何しろ、大将の宗盛が退いたのだ。
安徳天皇を連れて。
「誰が恩賞をよこすのか。そう思ってしまった兵は、もう戦えない」
義経は馬首をめぐらす。
「行こう。
義経が片手を挙げて、麾下に号令しようとしたその時、弁慶は気になって、つい
「本当に帝を討つつもりだったのですか」
本気の殺意。
それが感じられたからこそ、宗盛は逃走を選んだのでは。
「ああ弁慶、お前は本当によく気がつく
義経は微笑む。
それは何ともいえない微笑みで、弁慶には、義経の本気がどこにあるか図りかねた。
「まあそうだね。むかし、牛若丸という
義経は勢いよく片手を振り下ろし、出撃を命じた。
先頭を行く義経の表情は見えない。
しかし弁慶は、今の言葉に嘘を感じなかった。
出会ったあの日の牛若丸――義経と、変わらぬまことを感じた。
だからこそ、どこまでもついていこうと思い、弁慶もまた、馬を馳せた。
【了】
義経、一ノ谷を駆ける 四谷軒 @gyro
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