暇を踏み潰すためのショートショート
古新野 ま~ち
アポロニアギャング
勝手に診察室に来た男は外が40度に迫る夏の盛りであるのにスリーピースだった。入室するなりすぐに丸椅子に腰かけた。
「暑くて寝れない為だと思ってたんですけど、どうもそれだけじゃない気がしまして。
楽しくないというか、無性に気分が落ち込むというか。
食事も味がしませんし、夜も眠れないことが多くて。これってすごく典型的なアレですよね」
丸椅子に座った途端に、空気に溶けてしまいそうなほどか細く話し始めた。猫背をより強調するかのように肩を落としていた。
肩周辺にフケが目立つ。ベルトは茶色で革靴は黒い――しかし砂埃で灰色に見えなくもない――。
歯科医の女は困惑した。患者の名を呼ぶ前に入室してきたこともだが、普通はこちらから今日はどうされましたか等と声をかけることで大抵の診察は始まるからだ。もちろん、聞く前から症状を語り始める者もいるにはいる。
しかしながら、歯医者に来て抑鬱症状を相談する者は初めてだった。歯が痛くて気分が優れないという事かと尋ねた。もちろん、そうではないことは察していた。
「何言ってるんですか。俺がそんな風に言ってるように聞こえましたか。ちゃんと話くらい、いや、なんでもありません。俺の話し方が悪かったんでしょう」
独り言くらいの小声であった。よく耳をすまさないと聞き逃してしまいそうなほどの。あえて付け加えるように、男は右肩を揺らし鼻息を少し鳴らした。
医者は不愉快を飲み込んだ。口内のトラブルでないなら、ウチに出来ることはない。そうキッパリと告げた。女に対して侮った態度をとる手合いだろうと推察したためだ。
「いやいや、そう怒んないで下さい。まぁ俺が怒らせたからかな。反省しておきますね。
もちろん歯のことで来たんです。でも歯が痛いなんて言ってはなかったでしょ。
いや、まぁ歯医者に来る人なんて殆ど歯痛だろうから先生がそう早合点してしまった、いや、俺が先生を早合点させてしまったのも無理からぬことか。
さてと、まずは俺の話をおしまいまで聞いてほしいわけなんですが、ええですか
何日前だったか忘れたんですが、晩飯にね、安い牛のステーキを食べたんです。安いから選んだというわけじゃなく、まぁ安いから選んだんですけど、いつも安いからで選ぶわけじゃなくてですね。
先月は偶然にも服代や治療費やらが嵩んだからであって、私が恒常的に食い摘めてるわけじゃありません。ちゃんと蓄えもあります。
まぁ、そんなこんなでステーキを食べてたら奥歯がギュギュギュッと締め付けられるような心地がしたんです。久々に安い牛を食べたものだから硬い肉の下処理やら噛み方やらを忘れてたんです。
掻痒感が堪んないから食事中だったのに爪楊枝を使ったが取れない。いつもそうしてると思われたくないので言っておきますが、食事中に爪楊枝を使うなんて普段はしませんよ。
その日は念入りに歯ブラシでみがきました。指が頬の内に触れるほどでした。以前に治療した所の被せをとらないよう注意しつつ。そこまでしたのに、異物が挟まった感覚が拭えない。
そこからですよ、どんどんと気が滅入っていくわけです。毎日、左の奥歯に違和感を覚えるんです。常日頃より注意力が散漫になりました。集中できないから、会議や家族との会話も、自分の思うところを述べる隙を逸するんですね。そのようなストレスが臓腑に効いて、満足な飯を食えない。こういうわけです」
話に一段落ついたのを見計らい、医者はようやく男を丸椅子から治療用の椅子に移動させた。ようやく口内を診ることができた。
すぐに左下の奥歯に異物を発見した。異物はそれなりの大きさだった。爪楊枝でもブラッシングでも取り除けないというから微細なものを想像していただけに意外であった。
医者はピンセットでそれを摘みあげた。しかし、すぐに取り除くことはできなかった。
異物は下顎の中にでも収納されていたかのごとく、ズルズルと引っこ抜く。金属のメジャーを伸ばすのに似た感触だった。
唾液や血液が潤滑油代わりになったのか、抵抗なく引き抜くことができた。そして異物の全容を確かめた。
それは牛肉などではなく、方形で掌サイズの布だった。顎の中に収まっていたから当然だが、布は全面が血の色で染まっていた。
「てめぇこの生ゴミ糞薮医者、なにやってくれてんだ。それは俺が前に治療で埋め込んだ衣じゃねぇか。それがねぇと、俺は思ったことを何でもかんでも言っちまう糞野郎になるんだよ。あぁ、糞。糞。糞。てめぇとっとと戻しやがれ。おら、早く。てめぇ只じゃおかねぇからな。俺は女だからって容赦しねぇぞ」
男は口角から暗褐色の血が混ざった唾液を溢しながら叫ぶ。その内容は意味を成していないのに、憎悪が籠っていることは鋭敏に伝わる。怒号は診察室どころか院内全体に響き渡っている。
診察台が軋むほど男は痙攣し始めた。
怒りで身震いしているのか、あるいは加減の無い怒号による声帯の震えを震源地にしているのかもしれない。活き締めされる魚のごとき様相だ。
仰向けだから血の混ざった唾液を吹き出すと彼自身の顔に掛かるが、そんなことは歯牙にもかけない。
やがて急激な興奮状態に血管が耐えきれなかったのか、両鼻孔から血が流れはじめた。
もはや喉は限界であろうにもかかわらず憤怒の声量は増していく。間もなく声帯が決壊したらしい。それに鼻から逆流した分も含まれているだろう。激しい咳き込みとともに吐血し、その血の飛沫が医者の服にまで付着した。それでも男は叫ぶのをやめない。
医者は男の豹変が恐ろしかった。しかし、同時に自分が初めて見る事象への好奇心が否定し得ないほど沸き立ってもいた。また何よりも速やかにこの狂気じみた男を黙らせたかった。
ふと医者は自分の商売道具が目に入った。瞬時に、綯い交ぜになっていた思惑を一挙に解決する手段が閃いた。
――この男から奥歯を抜き取ったなら、一体どうなるのだろうか?
――さっきの布みたく奥歯を神経ごとズルズルと摘出してしまえば、一体どうなるのだろうか?
――奥歯の状態が人格に強く影響しているこの男は、一体どうなるのだろうか?
「なんだてめぇ、こっちを見ろよ。そんなとこでゴソゴソやってねぇで、こっちに来い。てめぇ拐ってひん剥いてぶち犯してやろうか、糞女。なんだてめぇ、文句あんのか。おい、なんだその目は。
その手に握ってやがるのは何―――
暇を踏み潰すためのショートショート 古新野 ま~ち @obakabanashi
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