SCENE#75 ディア・ママ 束縛からの解放

魚住 陸

ディア・ママ 束縛からの解放

第1章:檻の中の鳥と、色を失った世界





「裕太、また飲み会?いい加減にしなさい。会社はあんたの遊び場じゃないのよ!」





電話口から響く母、美津子の声は、裕太の心を冷たい檻に閉じ込める。25歳になった今も、裕太の人生は美津子の掌の上で完璧に管理されていた。大学卒業後、美津子が選んだ安定した仕事に就き、給料は彼女が管理する口座に振り込まれる。





「これはあんたのためよ!お母さんが、裕太の一番いい道を知ってるんだから!」




美津子のこの言葉が、裕太には愛情ではなく、絶対的な支配に聞こえた。友人との飲み会はいつも美津子からの電話で中断され、新しい恋人ができるたびに美津子の過干渉によって関係は壊された。裕太は、自分の人生が美津子の脚本通りに進む舞台のようだと感じていた。





彼の心の奥底には、誰にも見せたことのない「夢」があった。それは、幼い頃から好きだったデザインの世界だ。小学生の頃、こっそり描いていた空想の街の設計図。色の洪水が紙の上で踊り、無限の可能性を秘めていた。しかし、ある日、それを見つけた美津子は、鋭い眼差しで裕太の目をまっすぐに見つめ、こう言った。





「こんなくだらないこと、何の役にも立たないでしょ!将来はちゃんと、安定した会社で働きなさい。決して、お父さんのようにはならないで!」





裕太の父は、裕太がまだ幼い頃に家を出ていった。自由な発想を求めていた芸術家だったと、親戚から聞いたことがある。美津子にとって、父の存在は「不安定」と「裏切り」の象徴だった。そして、その瞬間から、裕太の世界は色を失い、白黒の檻の中に閉じ込められた。




ある夕食中、裕太は意を決して、留学の話を切り出した。




「あのさ、母さん。会社を辞めて、海外でデザインの勉強をしたいんだ!」




美津子は持っていた箸をテーブルに強く叩きつけ、絶叫した。





「海外?バカなこと言わないでちょうだい!そんな芸術家ごっこで、あんたが路頭に迷ったらどうするの!あんたを一人にしたら、誰が私の面倒を見るの?絶対にお父さんの二の舞にはさせないわ!」





美津子のヒステリックな声と、鋭い眼差しに、裕太はいつものように何も言い返せなかった。その夜、裕太は自室の壁に立てかけてあった、色あせた父の描いた絵を静かに見つめた。そこには、裕太の心の中の空想の街に似た、色鮮やかな街並みが描かれていた…





第2章:ささやかな反逆と、もう一人の孤独





留学の夢を打ち砕かれ、絶望の淵にいた裕太だったが、会社の同僚である真理子に心惹かれた。彼女は自由奔放で、自分の意見をはっきりと口にする女性だった。裕太は美津子に隠れて真理子と会う時間を少しずつ増やしていった。




「裕太くん、最近元気ないね…何かあったの?」




真理子はいつも真っ直ぐに裕太を見てくれた。真理子と過ごす時間は、裕太にとって初めて味わう、色のあふれる自由な時間だった。ある時、真理子は裕太の腕にある、無数の引っ掻き傷に気づいた。




「裕太くん、この傷…どうしたの?」




「いや、ちょっと、ぶつけただけだよ…」




裕太は言葉を濁したが、真理子は裕太の隠された苦悩を察した。真理子は裕太の手をそっと取り、静かに語り始めた。




「私はね、昔、父の期待に応えるために、ずっと自分のやりたいことを我慢してきたの。でも、ある日、ふと思ったの。この人生は誰のものなんだろうって。だから、全部捨てて、自分の人生を生きることにしたの。後悔はしていないわ…」




真理子の言葉に、裕太は自分の人生と重なり、こらえきれずに涙を流した。




「真理子、俺、母さんの人形なんだよ。何を言っても聞いてもらえない。俺の人生は、全部母さんが決めてしまうんだ…」




真理子は静かに裕太の背中をさすり、優しく語りかけた。



「裕太くん、あなたは、あなたの人生を生きるべきよ。誰のためでもない、自分のために。私、そんなあなたの力になりたい。あなたの描くデザインの絵、いつか私にも見せてくれない?私、あなたの絵、見てみたいわ!」




真理子の言葉は、裕太の心の奥底に眠っていた「色」を呼び覚ました。そして、真理子との関係を守るため、そして自分自身の人生を取り戻すため、裕太はささやかな反逆を決意した。美津子には内緒で、一人暮らしの物件を探し始めたのだ。





第3章:嵐の夜の対決と、母の仮面




裕太が物件の契約を済ませたその日、美津子は裕太の様子がおかしいことに気づいた。美津子は裕太の部屋に勝手に入り、机の引き出しから物件の契約書を見つけ出した。




雷鳴が轟く嵐の夜、美津子の怒りは爆発した。




「やっぱり!私を裏切るのね!誰のおかげでここまで来られたと思ってるの!私がどんな思いであんたを育ててきたか、分かってるの?!」




美津子はそう叫び、裕太の頬を叩いた。裕太は美津子の怒りに怯えながらも、初めて彼女に自分の気持ちをぶつけた。




「俺は、母さんの人形じゃない!母さんが思うように生きても、俺は幸せじゃないんだ!俺の人生は、俺のものだ!」





「うるさい!黙りなさい!どうせ、誰かにそそのかされたんでしょう!誰なの?言いなさい!あんたのためを思って言ってるのよ!」




「違う!母さんは俺を支配したいだけだ!母さんの言うことなんて、もう聞かない!」




裕太の言葉に、美津子は激しく動揺し、その場に泣き崩れた。




「私を…私を一人にしないで…。お願いよ、裕太。あんたまでいなくなったら、私、生きていけないわ…」




裕太は初めて見る美津子の弱さに戸惑ったが、ここで引き下がるわけにはいかないと自分に言い聞かせた。裕太は、自分の人生を歩むためには、この嵐を乗り越えなければならないと覚悟を決めた。





第4章:新たな一歩と、母の傷跡




嵐の夜、母との対決の後、裕太は家を出た。美津子は最後まで裕太に抵抗したが、裕太の決意は固かった。




「出ていくなら、もう二度と帰ってこないで!あんたなんて、最初からいなかったって思うから!」




美津子の叫びを背に、裕太は新しいアパートでの生活を始めた。最初は戸惑うことも多かったが、真理子がそばにいてくれ、少しずつ自立していった。




「料理、こんなに美味しく作れるようになったんだね。裕太くん、すごい!」




「真理子のおかげだよ。ありがとう。真理子といると、本当に自分らしくいられるんだ!」





裕太は、料理を覚え、自分で生活費を管理し、自分の時間を自由に使う喜びを噛み締めていた。美津子からの連絡は途絶え、裕太は安堵と同時に、どこか寂しさも感じていた。




ある日、親戚から電話が来た。美津子が入院したという。裕太が病院に駆けつけると、そこには別人のようにやつれた美津子がいた。美津子は、静かに裕太の手を握り、かすれた声で言った。





「裕太…ごめんね…あんたの人生、邪魔して…本当にごめんね…本当は…お母さん、寂しかったの…お父さんがいなくなって、私にはもうあんたしかいなかったから…裕太までいなくなったら…そう思うと、怖くて…」





美津子の言葉に、裕太は長年張りつめていた心が解けていくのを感じた。





第5章:空と海、そして自由の色彩




美津子の死後、裕太は彼女の遺品を整理する中で、古い日記を見つけた。そこには、裕太の父親が幼い頃に家を出て行ってしまい、美津子が一人で裕太を育ててきた苦悩や、孤独を埋めるために裕太を必要とした切ない思いが綴られていた。




「もし、裕太がお父さんのようにいなくなったら、私はどうすればいいの?私の人生は、もう裕太しかいないのに…私は、裕太に嫌われたくない…」




裕太は初めて、美津子の本当の気持ちを知った。憎しみは静かに消え、代わりに深い理解と哀しみが心を満たした。




真理子と二人で海外旅行に出かけた裕太は、空港の窓から広がる青い空を見上げていた。




「裕太くん、どうしたの?」




「真理子、俺、もう大丈夫だ。母さんのこと、はじめて許せる気がする。…本当は、母さんも寂しかったんだ。誰かに必要とされたかったんだって、今なら分かるんだ…」




真理子は裕太の手を握り、微笑んだ。水平線に広がる青い海を眺めながら、裕太はもう美津子の束縛から完全に解き放たれたことを実感した。彼の視線の先には、どこまでも広がる自由な空と海があった。そして、その景色は、彼が幼い頃に夢見た、色鮮やかな街のデザイン画と、不思議なほど似ていた…

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