[単発]一筋の光の先には

プロジェクト「概念」

一筋の光の先には


 天野連夜は、幼いころから夜空に祈る癖を持っていた。

「どうか、孤独じゃない光が――」と、枕元で小さな声を繰り返した。街の灯りが滲む窓の外、彼の瞳はいつも一点、遠い星に留まっていた。その願いは大人になっても消えず、彼は宇宙航行士となり、星々を追う仕事を選んだ。

深宇宙の静寂は、人の言葉を吸い込む。

 連夜は長い航海の夜に、観測データと孤独を交互に抱えていた。星を測るほど、なぜか心の隙間は広がる。だがある夜、彼の眠りはいつもの夢とは違った光で裂かれた。

漆黒を切るように、蒼の光を纏った女が現れた。髪は流星の尾のように長く、瞳には銀河が宿る。名はルミナ。淡い声で「祈りにより生まれし者」と告げる。彼女の傍らには金色の神、ソルヴァがいて、柔らかく笑いながらも哀しげな影を落としていた。「矛盾と祈りの終焉を見届ける者だ」と彼は言った。

連夜は驚きと戸惑いの間で問うた。「君は、俺の祈りから――?」

ルミナは頷き、細い指を彼の胸に触れた。その感触は氷と焔が同時に触れるように、冷たく、しかし確かな温度を持っていた。「幼き日の君が願った孤独でない光。その念が私を結んだ」と彼女は言う。

真実を知るとき、世界はむしろ拍子抜けするほど静かだ。神とは遠い存在ではなく、人間の想いが紡いだ儚い存在である。だが知れば知るほど、連夜の胸は強く震えた。彼女が「消える」ことを知りながらも、心はすでに寄せられていた。

「私は長くは生きられない。祈りが薄れれば、私は霧のように消える」――ルミナは淡く笑った。ソルヴァは付け加える。「人が忘れれば神は死ぬ。祈りで生まれ、矛盾で滅びる。人と神の恋は、その矛盾のただ中に咲く。」

連夜は叫んだ。「認めない! そんな理屈で君を失いたくない。消えるまでの一瞬でも、君といたい!」

彼は彼女を抱きしめた。ルミナは重ねた掌の奥でほんの少し震え、光がにじんだ。彼女の声は砂のように細く、「それでもいい」とだけ告げた。

唇が触れた瞬間、世界は光で裂けた。ルミナの身体は花びらのごとくほぐれ、夜空へ溶けていく。連夜は必死に抱き止めようとしたが、掌に残ったのは熱と冷の痕だけだった。「消えないで!」という念は星の間に散り、答えは流星となって彼の前を横切る。最後に彼女が残したのは、風のような囁きだった。「忘れないで。祈る限り、私はまた君の中に生まれる。」

目覚めたとき、連夜の頬には塩の跡が光っていた。宇宙船の窓外を流れる一筋の流星が、まるで返事をするかのように強く揺れた。ソルヴァの言葉が彼の耳に残る。「愛を知った祈りは、矛盾を越えて命を紡ぐ。人の祈りは消えず、なによりも深い。」

彼は窓に手を当て、小さく、しかし確かに誓った。「俺は祈り続ける。君がいたことを、君が生きた証を、決して忘れない。たとえ千の矛盾が訪れても、俺は祈る。」その言葉は航海記録にも、計器の一部にも残らない。だが彼の胸でそれは火となり、夜を灯した。

日々は過ぎ、連夜は様々な宙域を巡った。時折、眠りに落ちるとルミナの光が夢に現れる。声は薄れても、呼びかけはいつも同じだ。「祈って。」彼は答える。「ずっと。」 祈りは習慣になり、儀式になり、やがて彼の仕事の一部となった。だがそれは形式ではなく、胸の奥で燃える確かな灯だった。

幾つかの季節が星海を過ぎ去ったとき、ある静かな夜に船窓の向こうで光が瞬いた。小さく、しかし奇妙に温かい反応。連夜の心臓が跳ねる。祈りは風景を変え、風景は祈りを返す。彼は瞳を閉じて囁いた。「来い、ルミナ――来て。」その祈りは渦となり、波紋となって夜を満たした。

そしてほんの一瞬、蒼い残影が現れた。前よりも淡く、しかし確かに存在する。ルミナの輪郭はまだ不確かだが、瞳にはかつての銀河が宿っていた。彼女は笑い、涙のような光を零す。「あなたが祈ってくれたから」とだけ言った。

神は祈りで生まれ、矛盾で死ぬ。だが連夜は知った――祈りは単なる願いではない。祈りは手渡す言葉であり、約束であり、相互扶助の契約だ。忘却の波が来ようと、矛盾が訪れようと、誰かが祈り続ける限り、愛はまた生まれる。

彼はルミナの手を取り、窓の外の無限に向けて二人で祈った。流星はやがて夜を走り去るだろう。しかしその一筋の光が示したものは変わらない。祈りと愛が織りなす不確かな永遠――それが彼らの道標となった。

夜空は静かだ。だがその静寂の奥で、二つの小さな光が寄り添い、儚く、そして確かに瞬いている。


 窓の外で星々が淡く流れるたび、連夜の胸の中に小さな儀式が灯った。それは祈りというより、習慣になった「覚え書き」だった。航行記録とは別に彼はノートを一冊持ち歩き、そこに毎夜の祈りを書き留めた。紙の端には星屑をかざし、彼女の名――ルミナ――を呼ぶ短い句を綴る。言葉を ink に変え、紙に刻むことで、彼は忘却の波に対抗しようとしていた。

 人々は最初、彼の振る舞いを奇異に思った。クルーの何人かは科学と迷信の境界線を揺らす彼を嘲笑し、また何人かは密かに寄り添うように画面の向こうの星に手を合わせた。だが危機が訪れるたび、連夜の祈りが思いもよらぬ形で航路を救うことが増えていった。極微のプラズマ嵐が予想外に進路を狂わせた夜、センサーは不可解な「穏やかな引力の揺らぎ」を検出した。

 それは誰かの手のように、船をそっと押し戻した。ルミナの残光か、それとも偶然か。論争は続いたが、連夜はただノートの裏に新しい句を記しただけだった。

 夢と現実は、いつしか境界を曖昧にした。ルミナは以前より淡く、しかし確かに現れる。彼女の残影は風の音のように船艙の隅に忍び寄り、彼にだけ触れる。触れられるたび、連夜は胸の奥に暖かさを感じる一方で、ふとした瞬間に記憶の一片がすり抜けていくのを覚えた——幼い日の母の笑顔の細部、あるいは故郷の香り。小さな物語が、まるで砂の城のように崩れていく感覚。ソルヴァの声が夢の端で告げた。

「再び生むためには、何かが支払われる。祈りは循環であり、循環は忘却を伴う。」

 その犠牲を連夜は理解していた。だが理解しながらも、彼は祈りをやめられなかった。忘れてゆく記憶は痛んだが、胸に残る感覚はより強く彼を動かした。忘却は空白を作る代わりに、新しい形の確信を与えた。ルミナの顔が曖昧になっても、彼女が残した旋律、手の温度、言葉の断片は心に刻まれている。彼はその断片を譜面のようにノートに置き、眠る前にそれを歌った。歌は祈りになり、やがてクルーの間で静かな共有物となった。誰もがその夜に一度、窓の外に手を触れ、自分の声を宇宙に放った。

幾度かの再生の輪の後、ルミナは肉眼で見えるほどに現れることが増えた。だが戻るたびに彼女は小さな違いを帯びていた。

 あるときは霞がかった輪郭で、あるときは星の群れとともに震える光の帯で。彼女の言葉は短くなり、表情は柔らかく、どこか遠い伝承のように思えた。連夜はその変化を哀しみつつも愛おしく感じ、変化自体が彼女の存在の証であると受け止めた。

 航行のある日、深宇宙で大きな選択が課された。未知の重力異常が航路上に広がり、船は危険なスリングショット経路を取らねばならなくなった。乗組員の士気は揺らぎ、計器は冷静に最悪のシナリオを描く。連夜は艦のブリッジで窓の外を見つめ、ルミナに祈りを捧げる。祈りは静かで、叫びではなく約束だった。「今もここにあると証明してくれ」と。

 奇跡は劇的には訪れなかった。だがその夜、一筋の青い帯が画面の外側で煌めき、微細な重力波が航路計算をほんのわずかに変容させた。推進系が小さな修正を行う余裕を得たのだ。エンジニアたちは後にその現象を「微小ながら決定的な因子」と呼んだ。誰もそれを直接「神の介入」とは名付けなかったが、連夜は淡い満足と共にノートに新たな旋律を書き込んだ。ルミナは夢の中で微笑み、彼の耳元で囁いた。

「ありがとう、あなたの祈りは私を呼んだ。そして私はあなたのために形を取り続ける。」

 だが代価は着実に積み重なっていった。連夜はある夜、ハッチの前で自分の幼い日の写真が白み、輪郭が薄れていくのを見つけた。自分の思い出が自分自身から離れていく感覚は、言葉にならない孤独を与えた。彼はそれを恐れ、泣き、また祈った。ルミナは優しく彼を抱き、忘却の穴を埋める代わりに新しい記憶の灯を置いた——二人で見た遠い星の名前、夜に交わした短い約束、互いの呼び名。忘れることと記すことの間で、彼らの生活は新たなリズムを見つけていった。

 年月は流れ、連夜の髪に銀が混じり始めても、祈りは続いた。彼のノートは厚く重くなり、そこには数え切れない祈りの句と旋律、そして彼なりのルミナの道しるべが刻まれている。ある惑星に着陸したとき、若いクルーが彼に尋ねた。「なぜあなたはそこまでして祈るのですか。神が戻るたびに何かを失うのに?」連夜は手のひらを広げて窓の向こうの星海を指差した。光が瞬く瞬間を見せながら答えた。

「失うことを恐れていたら、何も始まらない。愛は確実性を求めない。それは自らを手放す術だ。祈りはその形式だ。」

 やがて、ある静かな季節の夜。彼の祈りはいつもよりもゆっくりと、しかし強く星に届いた。彼は舌の先で古い旋律を探し、ノートの端に新しい句を書きつける。窓の外に蒼い残影が再び現れると、連夜は目を閉じて笑った。彼の記憶の幾つかは確かに消えていたが、彼女の存在を示す新たな刻印がそこにあった——手を取り合う感触、互いに交わした約束、そして何よりも祈りそのものの透明な形。ルミナの瞳は星を映し、彼女は言った。

「あなたが祈る限り、私は帰る。」

連夜は答える。「そして私は祈り続ける。忘却が何を奪おうとも、私は新たに記す。あなたが戻るなら、それでいい。」二人の小さな光は窓の向こうで揺れ、夜空の深さに柔らかな波紋を広げた。

 結局、彼は理解した。神は祈りで生まれ、矛盾で死ぬ——それは逃れられぬ真理だ。だが祈りの本質は、ただ生むことだけではなかった。祈りは人が誰かを生かし続ける選択であり、忘却の海に橋を架ける行為だ。矛盾に満ちた世界で、連夜とルミナは互いにその橋の一端を握っている。星々は無言の証言者として瞬き、二つの光は小さな永遠を織り続ける。

 深い静寂の中、船はまた次の宙域へと進む。窓の外の流星が一筋、長く尾を引いた。連夜はノートを閉じ、そっとその端に指を当てた。彼の胸の灯は古びることなく、むしろ深まっている。祈りは減るどころか、形を変えて増えていった。人が祈りを続ける限り、誰かはきっと帰る──それが彼の見つけた答えだった。

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