値札のない服:赤いセーター

をはち

値札のない服:赤いセーター

渋谷の裏通り、湿った石畳に雪が薄く積もる深夜。


街灯の光は冷たく、細い路地に淡い影を刻む。


古着屋「時代屋」の小さな看板は、静寂の中でひっそりと佇み、


ガラス戸の向こうでは、時代を纏った衣類が過去の物語を囁くように並んでいる。


店内の空気は埃と古布の匂いに満ち、時折、衣擦れの音が闇に溶ける。


遥(はるか)は、祖母・澄(すみ)の遺した教えを胸に、毎夜この店を開け続ける。


「時代屋」は魂の宿る衣類が集う場所。


値札のない服が現れたなら、そのまま陳列するのが務めだと、澄は語った。


あの紺色のコートの一件以来、遥は「特別な服」に宿る記憶や未練に、畏怖と使命感を抱いていた。


あの雪の夜、紺色のコートを手に去った男の背中を見送った翌朝、棚に新たな服が現れていた。


色褪せた赤いセーター。


毛糸はところどころほつれ、襟元には小さな刺繍――小さな鳥の形――が施されている。


値札はない。


遥は一瞬、胸に冷たいものを感じたが、澄の教えに従い、静かにセーターを陳列した。


その夜、店に足を踏み入れると、空気がいつもより重く、かすかに甘い花の香りが漂っていた。


まるで春の庭に迷い込んだような、懐かしくも切ない匂いだ。


セーターの近くに立つと、香りは一層濃くなり、遥の耳に微かな笑い声が響いた。


子どもの声のように高く、しかしどこか遠く、記憶の底から響くようだった。


振り返っても、店内には誰もいない。


ガラス戸の外では雪が静かに降り続け、路地の闇を白く染めていた。


数日が過ぎるにつれ、セーターの異変に遥は気づき始めた。


赤い毛糸の色が、夜ごとに少しずつ鮮やかさを増しているのだ。


まるで誰かがその色を塗り直しているかのように、ほつれた糸も少しずつ整い、


鳥の刺繍はまるで羽を広げるように鮮明になっていく。


深夜、帳簿を整理していると、セーターの近くから子どもの歌声のような旋律が聞こえるようになった。


無垢で、しかしどこか寂しげなメロディー。


音は近づくと消え、遠ざかるとまた響く。


ある夜、遥は意を決してセーターを手に取った。


指先に触れた瞬間、柔らかな毛糸から温もりが伝わり、まるで誰かの体温が残っているかのようだった。


同時に、視界の端で何か小さな影が動いた気がした。


驚いてセーターを棚に戻すと、背後でかすかな囁きが響いた。


「かえりたい…」


声は小さく、か細く、まるで風に揺れる木の葉のようだった。


振り返っても、誰もいない。


店内の空気は一層重くなり、花の香りが強まった。


遥は震える手で帳簿を閉じ、澄の言葉を思い出した。


「魂の宿った衣類は、旅立つべき場所を求めている。この店は、そのための場所なの。」


このセーターには、誰かの未練、願い、記憶が宿っている。


だが、それが誰のものなのか、なぜここに現れたのか、遥には知る術がなかった。


ある雨の夜、店に一人の客が訪れた。


年老いた女性だった。


白髪をゆるく結い、薄手のコートは雨に濡れて色褪せている。


彼女は小さな傘を畳み、ゆっくりと店内を見回した。


その目は、懐かしさと深い悲しみに曇っていた。


女性は奥の棚に真っ直ぐ向かい、赤いセーターを手に取った。


指がセーターをなぞる動きは優しく、まるで愛おしいものを思い出すように。


「このセーター…」


女性の声は震え、言葉は途切れがちだった。


「私の娘が…愛していたもの。あの春、彼女はこれを着て…」


彼女の目は遠くを見、記憶の断片を拾い上げるように言葉を紡いだ。


「公園で、桜の下で、笑いながら歌っていた。あの鳥の刺繍を、彼女はとても気に入っていたの。」


遥は息を呑んだ。


女性の背後で、店内の空気が一瞬揺らぎ、花の香りが一層濃くなった。


女性はセーターを胸に抱き、涙をこぼした。


「あの子は、病気で…もう帰ってこなかった。このセーターだけが、彼女の笑顔を覚えている。」


その瞬間、店内に温かな風が吹き抜け、セーターの赤が一瞬、眩いほどに輝いた。


子どもの笑い声のような旋律が響き、ゆっくりと消えていった。


鳥の刺繍は、まるで飛び立つように一瞬だけ光を放ち、静かになった。


女性はセーターを手に、雨の夜へと去っていった。


ガラス戸が閉まる音が、店内に小さく響いた。


遥は空になったハンガーを眺め、澄の言葉を反芻した。


「この店は、魂が旅立つための場所なの。」


翌朝、棚にはまた新たな服が現れていた。


藍色の浴衣。


白い朝顔の模様が、まるで夜明けの空に咲く花のように繊細に描かれている。


値札はない。


遥は深く息を吐き、陳列の準備を始めた。


深夜の「時代屋」は、今夜もまた、彷徨う魂を待ち続ける。

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値札のない服:赤いセーター をはち @kaginoo8

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