妖人(ようじん)
齊藤 車
妖人(ようじん)
田舎の剣術道場師範の次男として、又二郎は生を受けた。
物心ついたころには床の間に飾られた代々伝わる
この太刀を譲り受けたい。剣の腕を磨いたのはそのためである。
又二郎には兄の又一郎があった。又二郎の腕はみるみる伸び、又一郎よりも才があるのは誰の目にも明らかだった。
兄弟はともに一人前となり、免許皆伝の後しばらくして師範である父が突然他界した。
父は生前、長男の又一郎ではなく又二郎に道場を継がせるよう言っていた。又一郎は父がそう口にするたびに苦い思いを募らせていた。
父の葬儀が終わった後、熾烈な跡取り争いが繰り広げられるのでは、と親族や門下生たちがざわめき始めるころ、又二郎の方から又一郎に話を持ち掛けた。
「道場は兄上がお継ぎください」
又一郎は目を丸くした。鬼気迫る眼差しで稽古に打ち込む又二郎は、てっきり跡継ぎを狙っていたと思い込んでいたからだ。
「その代わり……」
又二郎は条件を付けた。
「兼鷹を私にお譲りください」
もとより、兼鷹に執心していたことは知っていた。名刀とは言えど、名高き名刀から見れば並ぶに及ばず。道場を継ぐことに比べても取るに足らない。
それを、道場を捨ててまで得たいというのか。又一郎には又二郎の意図が全く読めなかった。
「して、お前は兼鷹を譲り受けて何とする」
「兼鷹を携え、修行の旅に出たいと存じます」
いよいよ分からない。しかし又一郎にとってはこの上なく都合がよかった。
道場を継げる。自分よりも腕の立つ又二郎が道場から去れば、腕の差で肩身の狭い思いもすることがなくなる。それが兼鷹を手放すだけで手に入るのだ。
「よかろう。兼鷹は譲る」
兄の口からその言葉がこぼれた瞬間、又二郎は深く一礼した。伏せた顔には刀を得た悦びがこぼれ出ていた。
その夜、又二郎はひとり兼鷹を膝に置いた。鈍い灯の下、刃がゆらりと光を返した。
刃紋は
夜が白み始めるまで、又二郎は自分の顔の反射する刃を眺め続けていた。
数日の後、兼鷹を携えた又二郎は、又一郎に見送られながら道場を後にした。振り返ることは一度もなかった。
当てもなく、ただ人の多い江戸へと向かう。
道中の河原で足を休めながら刃を眺め、茶屋で一服しながら刃を眺め、宿の床で刃を眺める。
――斬りたい。
ただ斬りたいわけではない。正当な理由を持って、少しの後ろめたさもなく、ただ、思いきり人を斬りたい。
旅路はあえて人通りの少ない道を選んだ。泊まる宿はなるべく喧噪の激しい、血の気の多い者がたむろしていそうな宿を選んだ。
しかし、又二郎の手練れの気配を察してか、一向に機会は訪れない。
――斬りたい。斬りたい。斬りたい。
辻斬りが現れるという噂があった。足は自然とその付近に向かった。
くだんの町に宿を取り、夜更けに宿を抜け出し徘徊を続ける。
――今日も会わぬか。
諦めて踵を返そうとしたまさにその時、空気が変わる気配がした。正面の路地から、浪人とおぼしき影がぬっと生えるように現れた。
――来た。
にじり寄るように互いに歩みを進め、両者同時に足を止めた。
間合いの読み合いがすでに始まっている。
さっと生ぬるい風が吹き、それを合図に両者すらりと刀を抜いた。
雲が風で押し流され、月明かりが辺りを照らす。
背筋をなぞるような悪寒が、又二郎の全身を駆け抜けた。
目の前の男は、どう見ても自分自身だった。
輪郭、姿勢、構え、そしてもはや見紛うはずもない。その手に握られた兼鷹までもが、まったくもって同じであった。
――妖かしか?
恐怖がたちまち歓びに変わっていく。
――斬ってよい。
突如現れ刃を向ける自分と瓜二つの人ならざる者。誰にとがめられることもない。斬ってよい。
又二郎は音もなく踏み出した。静かな踏み込みに地が鳴いた。対する影も鏡映しのように同じく動いた。
兼鷹と兼鷹が交差する。刃が刃を叩き、火花が夜気を斬り裂いた。
一手、二手、三手。何合も打ち合う流派ではない。次の一刀で勝負は決する。
脇を閉め、最速の一撃を頭上から振り下ろす。その刹那、相手の踏み込みがぴたりと止まり、刃がくるりと翻った。
――まずい。
刀の反り分の長さが足りず、空を切った刃の下から逆袈裟に相手の兼鷹の刃が跳ね上がった。
兼鷹の刃の心地よい冷たさが、斬られた胴体に一本の線を作った。
その心地よさが赤くなった鉄のような熱に変わり、さらに熱い血潮が噴き出した。
薄れゆく意識の中、又二郎は相手の又二郎の顔を見た。無であった相手の又二郎の顔が、いつの間にか恍惚に歪んでいる。
――ああ、是非とも私が斬りたかった。
崩れ落ちる又二郎には、目の前の又二郎に狂おしいほどの羨望の眼差しを向けることしかできなかった。
体が地面に落ちるころ、斬った又二郎の姿はどこかに消え失せ、斬られた又二郎の瞳に光はなかった。
地面に転がった兼鷹の刃が、月光を反射して美しく静かに輝いていた。
妖人(ようじん) 齊藤 車 @kuruma_saito
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