第2話 僕らは透明なまま②
「明日、みんなで英文読解するんだけど、聡太も来てくれる?」
川村からのメッセージが、静かな部屋の中で小さく光った。有馬は、SNSを見ていた指を止める。スマートフォンから放たれる白い光が、窓の外の夕闇よりも冷たく感じられた。すぐに返事をしようとしたが、指が宙にとまる。
たった一言を送ることが、どうしてこんなに難しいのだろう。
胸の奥に沈んだものが、ゆっくりと波紋のように広がっていく。川村の隣で笑っていた“あの人”の姿が、ぼんやりと浮かんだ。目を閉じても、その笑顔だけは消えてくれなかった。
ふと視線を窓の外に向けると、真夏の光が白く部屋に差し込んでいた。目を細めると、そのまぶしさの向こうに、サークルで過ごした日々の景色が浮かんでくる。
春学期の授業が終わり、期末試験も終わって、気づけば長い夏休みのまっただ中にいた。言語学同好会は夏休みの間も、変わらず週に二回開催されていた。
自由参加――そのはずだったのに、有馬はほとんど欠かしたことがなかった。
理由は、サークルに行くと天野に会えるからだ。
いつから彼女に惹かれていたのかは思い出せない。ただ、気づいたときにはもう、天野の笑顔が、声が、何気ない仕草までもが、有馬の頭の中にいつまでも残っていた。彼女の姿を見るだけで、世界が少しだけ明るくなったような気がした。
それでも今日は、行く気になれなかった。
「いや、それでもという言葉は、少し違うのかもしれないな。」
そんな独り言をこぼしながら、冷蔵庫から取り出したジュースを口に運ぶ。冷たさが喉を通り過ぎても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
――天野が、川村のことを好きなのではないか。
そんな気がしてならなかった。
言語学同好会では、みんなで共通の問題を解くこともあれば、それぞれがやりたい勉強をすることもある。英作文や英文読解をする人もいれば、第二外国語の勉強に取り組む人もいる。
その中心には、いつも川村がいた。それはただ、会長という肩書きのせいだけじゃないことは、誰の目から見ても明らかだった。勉強だけでなく趣味やアルバイトなど、何事にも真剣に取り組み、一人一人としっかり向き合おうという姿勢が常に見られる彼の周りには、いつも自然と人が集まっていた。そして、その輪の中には天野もいた。
有馬は、その光景を思い浮かべるたび、胸の奥で何かがきしむのを感じていた。
今日の活動に参加するかどうか、有馬はずっと迷っていた。行けば、きっとまた胸が痛むだろう。けれど、今まで一度も休んだことのない人間が、何の理由もなく断れば――きっと心配をかけてしまう。
そんなわだかまりを感じながら、有馬はスマートフォンを握りしめる。指先に少しだけ力を込めて、文字を打った。
「はい!今日もサークル楽しみにしています!」
明るい言葉の裏に、自分でも気づかないふりをしている影があった。
送信の音が静かに響く。すぐに既読がつき、大人気バンドのスタンプが返ってきた。
――そういえば、天野さん、このバンド好きだって言ってたな。
そのときの笑顔を思い出す。小さく息を吐いて、有馬は玄関のドアを開けた。外の光は、思っていたよりもまぶしかった。
かすかに埃のにおいがする廊下を通り抜け、いつもの部屋のドアの前に来ると、いつもの光景が広がっていた。川村が天野に対して何かを話している。どうやら来ているのは川村と天野の二人だけらしい。彼女はペンをくるくると指で回しながら、川村の言葉に小さく笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、有馬の胸の奥がかすかに軋んだ。部屋のドアを開こうとした腕が動かなくなる。ふとこちらに視線を向けた川村が、有馬に気づき、笑顔を向けてきた。ぎこちない笑顔を顔に張り付けたまま、腕に力を入れて、有馬は部屋のドアを開いた。
サークル活動はいつもと変わらないまま進んだ。いつもと何も変わらないやりとり。けれど、その“何気なさ”が、どうしようもなく遠く感じられる。
有馬は手元のプリントに視線を落とし、文字を追うふりをした。内容は全く頭に入ってこなかった。ただ、笑い声とボールペンの音だけが、やけに鮮明に耳に残った。
「どうする?ご飯食べてから帰る?」
サークルが終わり、心信館の外に出たときに川村が聞いた。行くかどうか迷っていたが、天野が微笑みながらこちらを振り向いた。断ることができなった。
3人で大学の近くにある定食屋に行った。店のガラス越しに見える街の灯りが、雨上がりの道路に滲んでいる。
窓際の席で、川村が明るい声を響かせる。
「俺が好きなバンドのライブのチケット申し込んだんだけど、全く当たらなくてさ。」
「すごい人気ですもんね。私も川村さんの影響で最近いっぱい曲聴いてます。青春ソングが顔だと思っていたんですけど、バラードもすごく素敵でした。」
天野が嬉しそうに身を乗り出す。その横顔に、店内の照明が柔らかく反射した。その笑顔を見るだけで、胸が苦しくなる。有馬は、笑顔の形を作りながら話を聞いてたが、こみあげてくる痛みは誤魔化せなかった。。彼女が笑うたび、隣の川村の声にかぶさるように笑うたび、有馬の中で何かが少しずつ欠けていく気がした。
「聡太はどう? 夏休み中に何かしたいことか考えてる?」
川村がこちらに向き直って聞いた。その声が、あまりにも自然で優しくて、かえって有馬の胸に深く刺さった。気づけば、有馬の言葉が尖っていた。
「特に何も考えていませんよ。自分は川村さんみたいに勉強もできないし好きな音楽もこれといった趣味もありません。何もせずにこのまま夏休みが終わって、何も成長せずに歳をとってて死んでいくんだろうなって思ってます。」
「そんなことないよ。聡太は毎回必ずサークルに来てくれるし、サークルに来るたびに成長してるよ。最初じゃできなかった読解も今日できるようになってたし。」
「勉強ができても、俺は川村さんみたいに人の気持ちとか空気とか考えて行動できないですよ。それ本心でそれ言ってますか。会話に俺が参加できてないから輪に入れようっていう気持ちはありがたいんですけど、自分の悪いところを見せしめにされてるみたいでしんどいです。」
口に出した瞬間、自分でも何を言ってるのか分からなかった。ただ、心の奥で渦巻いていた黒い感情が、思わず溢れたのだ。
川村は一瞬黙ったが、すぐにいつものように穏やかに笑った。
「うん、ごめん。天野とバンドの話で盛り上がっちゃって、置いてけぼりにしちゃったかなって思ってた。でも、俺が聡太のことを大切な人だと思ってるのは事実だし嘘じゃないよ。大切な後輩だし、このサークルを選んでくれて知り合えたこともすごく嬉しい。だから、これからも今みたいに嫌な思いをしたら先輩だからとか関係なしに言ってほしい。自分の本当の気持ちをしっかり言えるところは、聡太のいいところの一つだよ。俺にはできない。」
川村のまっすぐな目が、有馬の視線をとらえる。揺るぎのない誠実さに、言葉を失った。
——ああ、敵わないな。
川村は本気で人と向き合える。誰かのために自然に手を伸ばせる。自分にはできないことは素直に認め、相手を尊敬することができる。その眩しさに、嫉妬と尊敬が入り混じった。
「ごめんなさい、さっきの言葉は…」
「気にしないでいいよ。俺も聡太を差し置いて話を続けちゃって悪かった。ごめんな。天野もごめん。」
「いえ。私は大丈夫です。有馬くんごめんね。」
沈黙が少し流れる。その沈黙を破ったのも、やはり川村であった。
「じゃあ逆に人の良いところの言い合いっこしようよ。まずは俺から聡太のいいところね。どれから言おうかなぁ。」
川村の提案によって場の雰囲気が和んだ。かっとなってしまった自分と、そんな自己中心的な考えの後輩の意見でさえ優しく包み込んでくれる川村。その差をより一層強く胸に感じた。
店を出ると、夜風が頬を撫でた。雨の匂いがまだ残っている。川村と天野が並んで歩く背中を、少し後ろから見つめる。街灯の下で、天野の髪が淡く光っていた。有馬はポケットに手を突っ込み、無言でその後ろを歩いた。
帰り道、駅で川村と別れ、天野と有馬は二人きりになった。ふたりとも大学の近くに住んでいるため、駅に乗らない。有馬は徒歩で、天野は自転車で大学に通学している。二人は大学の駐輪場に歩いて向かった。駐輪場までの道のりはそう長くはないはずなのに、その道中は夏の影のようにやけに長く感じた。
「あの、さっきはすみませんでした。川村さんに対してひどいことを言ってしまったし、その場にいた天野さんにも嫌な思いをさせてしまいました。」
キャンパスの入口を通り過ぎたところで、有馬は口からなんとか言葉を絞り出した。天野は一瞬黙ったが、
「確かにあれは有馬くんの少し悪いところだったかもしれないけど、それを反省して言葉にできるのは有馬くんの良いところだと思う。次から気をつければ大丈夫だと思うよ。川村さんも優しいからね。」
天野の優しさがとても身に染みた。しかしその優しさで傷を負っている自分の心の痛みも実感していた。
「今日は有馬君の本音を聞けたいい機会だったと思うよ。来週からもまた頑張ろうね。」
自分の思いとは裏腹に、有馬はただ、うなずくことしかできなかった。彼女が自転車に跨ると、夏の夜風が通り抜けて、髪が少し揺れた。
「じゃあまたね。」
「はい、またよろしくお願いします。」
彼女を見送ったあと、有馬はポケットの中で拳を握った。結局今日も、有馬が聞きたかったことは、何一つ聞くことはできなかった。
1人になった帰り道で、川村が好きだと言っていたバンドの曲を聴いてみた。まるで今の自分を言っているようなバラードに胸を振るわせた。
ケの日の僕ら よっしー @tsukimashiteha
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