近所救い
クライングフリーマン
近所の人々
======== この物語はあくまでもノンフィクションです =========
姉が今でも言う。
実家のトイレが「共同便所」だったことを。
数日前。思い出した。
小学校の友人の家と隣家も「共同便所」だった。
公衆便所と勘違いする人もいるが、大きく違う。
アパートの共同便所が、数部屋分の住人の共同利用と同じく、隣り合った家同士のトイレが共有スペースなのだ。
ともあれ、私の実家は、元々が同じ借家だった。ややこしいことに借地借家の貸主が別々だった。
借家の貸主が建築の際、「ケチった」結果だと私は思っている。
トイレに用を足しに行くと、誰かが入っている。
我慢して出直す。
また、誰かが入っている。
当家は、婆ちゃん、父母、姉、私、妹の6人家族。
正確なことは知らないが、隣家は10人家族くらいだった。
『短い用足し』は必須だが・・・まあ、いい。
向かいの婆さんは世話焼きで、何の権利も義務もないのに、実家の商売の手伝いをしたりした。手伝いと言っても、お客の為に値段を父や母に尋ねてやったり、精算済みの商品をカゴや鍋に入れてやったりしていた。
今や、ペットのトイレットペーパーに成り下がった『新聞紙』は万能だった。
「便所紙」は勿論、商品を包む包装紙の役目をしたり、割れてしまってこぼれた油の吸い取り紙になったり、掃き掃除をする際の埃よけになったり、畳と床の木材の緩衝材になったり、無論、テレビ・ラジオの番組のガイドであったり、ニュース(瓦版)だったりした。
近所に新聞配達所があって、朝に夕に、近所のおばさん(当時でもおばあさん)が配達をしていた。
隣家は、どこかの工場の下請けの金物細工をしていたようだ。
その隣は、奥さんの内職で、傘の修繕をしていた。息子は同級生だった。
傘の修繕の、所謂「物売り」の類いがなかなか回って来なかったから、成り立っていたのだろう。
当家の前は、一時バス停とバス駐車場があったそうだ。
後年、バイパス化した、当家の前は山の方の町村に続く道でもあり、秋祭りの時はメインストリートだった。
バス駐車場は工場になり、後年買い取った家の所有地になったが、駐車場になった。(現在は、借り手一軒で維持している)
傘の修繕の家の隣は、確か「和服の小売り」をしていた。
その隣がたばこ屋だった。
かつてバス駐車場だった場所の隣は、工場の下請けで、同級生がいた。
その隣は小さな祠がまだあるが、お稲荷さん。その隣が新聞配達所だった。
世話好きのお婆さんの隣家は紡績工場で、奥さんが内職で靴や下駄を売っていて、「下駄屋」と呼ばれていた。
その隣が自転車屋で、小学校の頃、珍しく大雪降った時、スキー板を出して来て、主人が滑っていた。
さて、当家の「共同便所」隣でない方の隣は、元は何の商売だったか忘れたが、長い間「無許可」のクリーニング屋をしていた。
その隣は、写真館。色々あって引っ越したのだが、近年、夜逃げしたのか、単に引っ越したのか、急に写真館は消えた。
倒産したのではないか?と私は思っている。
1キロもない、商売の通りは「めかけ通り」というあだ名が付いたこともある。
当家の爺さん初め、「てかけさん」がいる家が一時多かった。
当時のことは、もう私の記憶にしかない。
色んな問題があっても、何かのイベントがあったら、鍋釜を皆で持ち合って、料理をした。
当家の片づけ(借地借家を貸主に返却)する際、鍋釜バケツが沢山出てきた。
「年貢」に苦しみ、異国人が好き勝手出来る時代では無かった。
魑魅魍魎が跋扈する時代を、隣組で旅行に行ったり海水浴に行ったりした時代からは微塵も想像出来なかった。
体が不自由でなかったら、「竹槍」作って、突撃したい。
―完―
近所救い クライングフリーマン @dansan01
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