雨宿りのカフェで
高木凛
雨宿りのカフェで
今年の梅雨が明け、日が暮れてもまだじめっと蒸し暑い夕方。桜井華絵はまとわりつくような暑さの中、仕事終わりの道のりをゆっくり歩いていく。
時刻は午後五時半を過ぎ、このまま行けば駅には六時前には着けるだろう。本来であれば今頃電車に乗り込んでいるはずだったが、学生相談が長引いてしまい退勤が遅れてしまった。とはいえ明日は休みで、残業と言っても実際は十分程度。華絵は一週間頑張ったご褒美を思いつき、順調に進めていた足を止め、周囲を確認すると坂道の途中で少し細い路地を歩き始めた。
駅に向かうならこのまま道沿いに行くべきで、路地を通っても行けないこともないが、ぐるりと遠回りすることになる。空を見上げれば、いつの間にかくすんだ濃い色の厚い雲がどこから風に乗って迫ってきている。梅雨は明けたとはいえ、突発的な豪雨が降ることも多い。華絵は歩を早め、目的地へと急いだ。
時間にして五分足らずだが空はすっかり厚い雨雲に覆われ、今にも降り出しそうなところ、華絵は雨に当たることなく店の中に滑り込めた。
〝カフェ・ルアン〟
古書店や地元で愛されている老舗と住宅が入り交じるこの辺りには、ひっそりと佇む隠れ家のようなカフェや喫茶店がいくつかあり、華絵はその中でもここによく訪れていた。カランと優しい鐘の音が響くと白髪のおっとりとしたマスターが顔を上げ、華絵の姿を見るとそっと微笑む。
「華絵さんでしたか。いらっしゃいませ。お仕事お疲れ様です」
多いときだと週に一度、間が空いたとしても隔週くらいで訪れていることもあって華絵はマスターに名前で呼ばれるほどの常連だ。華絵以外にも常連がいるようだが、せいぜい見覚えのある人であれば会釈をくらいで、互いに干渉することはない。きっかけがあれば話すこともあれど、それぞれが心地よい空間で静かに過ごすことがほとんどだ。
華絵は窓に近いカウンター席に腰を下ろし、視線の先にある小さな黒板にあるメニューを見つめた。
「暑かったでしょう? 今日もとびきりのアイスブレンドがありますよ」
夏でもホットコーヒーを飲むことが多い華絵だが、汗ばむ体は冷たいコーヒーを欲している。願ってもないマスターの提案にこくりと頷いた。
ほどよい室温の店内でようやくほっと一息つくと、見計らったかのようにざあざあとけたたましい雨音が響いている。間一髪のところで土砂降りを回避したらしく、ここに滑り込んだのは正解だったようだ。この後は家に帰るくらいでこれといった予定もない。念の為とスマートフォンで雨雲の状況を確認するとどうやら一時間はこのままの勢いが続くようで、華絵は雨雲が去るまでルアンでゆっくりすることに決めた。
程なくして雨音が些細な音をかき消す中、店のドアががらんと開いて、窓越しでも滝のような雨の轟音が流れ込んでくる。雨と同時に入ってきたのは半ばドブネズミと化したサラリーマンと思われる男だった。風こそないが、あまりの雨量にお手頃なビニール傘や折りたたみ傘では耐えきれなかったのだろう。肩や裾の色が変わっており、傍目にみてもずぶ濡れであることは間違いなかった。
「お客様、よかったらこちらへ」
マスターは華絵が座る席の反対側のカウンター席に男性客を案内すると、素早く裏に向かい、フェイスタオルを取ると男性客に手渡した。
「そんな、すみません」
「遠慮なく使ってください。カフェラテで大丈夫ですか?」
マスターの言葉に男性は改めてお礼を述べると、水が滴る髪、ずぶ濡れになっている肩から腕にかけてタオルで水気を取っていく。華絵は男性を心配しつつも、まじまじ見るのはいかがなものかと思い、視線を彷徨わせた。少なくとも華絵が記憶している限り常連客ではなさそうで、周りに気をつけながら拭いているところに声をかけるのも邪魔になりそうだったため、華絵は静かにコーヒーを飲んでいた。
「さあ、温まってください」
「あ、ありがとうございます。この分のお代出しますんで」
マスターはホットカフェオレをカウンターに置き、男性からタオルを引き取ると再び裏に回ってタオルを置いてきたようだ。男性もジャケットを乾かすように椅子の背もたれに広げて、ようやく腰を下ろした。
「お騒がせしてすみません」
落ち着いたところで男性は華絵にも一言謝罪の言葉を口にした。特にうるさかったわけでもなく、騒がしさなら外の雨音の方が強いし、周囲に気を配りながらタオルで拭いていたのを華絵はちらちら伺っていたのだ。
「い、いえ……急な雨でしたもんね、大丈夫ですか?」
「えぇ、マスターのおかげでなんとか。傘もあったんですが、滝には勝てなかったみたいで」
「この雨だと傘があっても、ですね……」
男性が使っていた折りたたみ傘は入口の傘置きに立てかけてあるが、頭を濡らさないようにするのが精一杯だろう。建物の中にいてもけたたましい雨音が響いているのだ。
「まあ不幸中の幸いはあとは帰るだけってところですかね。雨が収まるまでは無理そうですけど」
苦笑いを浮かべる男性に、華絵はただ「そうですね」と返す。決して話を切り上げたかったわけでも、人見知りが激しいわけでもなかったが、男性は引きどころを心得ているようで、一言二言添えて、マスターが出したホットカフェラテが入ったカップに大きな手を添え、手を暖めるような仕草をした。
店内にかかる心地よい音楽は激しい雨音でかき消されているものの、華絵はコーヒーを口にしながらその音に耳を澄ました。
マスターも華絵も、男性も特に会話をすることなく夕立が通り過ぎるのを静かに待つ。その後は男性も、華絵も本を読んだりスマートフォンを眺めたりして雨がおさまるまでゆったりとした時間が流れた。
耳が慣れていた雨音も一時間も経てば雨雲が通り過ぎたようで、軒先で滴る水音だけとなった。
「おっと、もうこんな時間か」
腕時計を眺めた男性がポツリと呟き、外を眺める。人通りが少ない路地だが、偶然目にした人影は傘をさしていない。
「マスター、ありがとうございました」
「いえいえ。またいらしてください」
「はい。そちらの方も、お邪魔しました」
男性は淀みのない綺麗な動きで頭を下げる。華絵からしてみれば、話しかけられたことに答えるくらいしかしておらず、お礼をされるほどのことはしていない。「お気になさらず」と答えれば、男性は一瞬驚いた表情を見せて改めて礼を述べた。
男性が店を出ると、華絵もスマートフォンの画面を眺め時間を確認した。雨も止んでいて、優雅なコーヒータイムも満喫できた。ただ今出ると、先程の男性と駅で会うような気がしてもう少しここでゆっくりしてから向かうことにしよう。この後の予定を決めたところで、華絵はマスターに声をかけた。
「さっきの方って常連さんですか?」
「いえ、初めての方ですね。きっとまた来てくださると思いますよ」
「そうなんですか? マスターの勘は当たるからなぁ」
華絵の言葉にマスターは上品に笑う。職業柄、人を見る機会も多いだろうしと言葉通りに受け取った。
(まあでも、感じの良い人だったなぁ)
マスターの言葉を信じ、無意識に再会を願う華絵だったが、本人はそのことに気づいていない。
蝉の声が響き渡る。玉のような汗が噴き出しこめかみを伝ってシャツを濡らす。猛暑どころか酷暑が続く中、柏木涼介はかんかん照りの中、人混みを縫って歩く。
二週間ぶりのエリアを歩きながら、涼介はその時のことを思い返した。
新しく営業周りで訪れた場所で、その日のアポを終わらせ、直帰するために駅に向かったところ、ゲリラ豪雨に当たってしまい、傘をさしても支えきれないほどの雨脚で全身ずぶ濡れになった。こんな状態で訪れても迷惑だろうと思いながら、滝のような雨から逃れるべく一軒のカフェの扉を開けた。
オフィスカジュアルで清楚な装いの女性と柔和という言葉がピッタリな初老のマスター。涼介の姿を見るなり、席へ案内してタオルを手渡した。周囲を汚さないよう注意をしながら滴る水を拭き取りつつ、店内の様子を伺う。
閑古鳥が鳴くようなお店というよりも、単に悪天候のせいで訪れる人がいないだけだというのは、入ってから感じた雰囲気ですぐに理解した。初めてのお店できょろきょろ見渡すのもどうかと思い、自然に目に入る範囲で観察していたのだが、店内を彩る装飾も華美なものはなく、心地よさを重視したことが見て取れる調度品、つい長居してしまいそうなお店だ。
一通り濡れたところを拭き、マスターが出してくれたカフェラテに口をつける。いくら外が暑いとはいっても水浸しになるほど濡れてしまっていたからか、苦みと甘みのバランスがよい温かなカフェラテは今の体に染み渡る。
落ち着いたカフェにどたどたと現れてしまったことを思い出し、カウンターに座る女性に声をかけると、戸惑いつつも嫌な顔することなく、むしろ見ず知らずの涼介を心配した。通り道で滑り込んだが、良いお店に出会えたことに感謝をしつつ、適当なところで話を切り上げた。
営業の間にお店に立ち寄ることはよくあるものの、こんな風に落ち着いてコーヒーを飲むことはほとんどない。慣れない空気ではあったが、嫌ではないのはおそらくこのカフェが織りなす雰囲気によるものだろう。
気がつけば雨音と店内に流れる音楽に耳を傾けながら、雨がおさまるのを待った。
一時間もすれば雨雲は去ったようで、涼介はマスターと女性に声をかけて店を出た。
(あのカフェにぴったりな素敵な女性だったなぁ)
そう思いながら駅へと向かった。
そして二週間が経ち、偶然出会ったあのカフェの近くのエリアを再び営業で回っていた。以前と同じ、夕方にアポが終わった。今日はこの後一軒、寄るところがあるものの、それまで少し時間がある。
この間は大雨で周囲を見る余裕はなかったが、カフェの名前は覚えていたため、スマートフォンのナビを起動して場所を確認して、仕事の疲れをものともせず足早に向かった。
カフェと共に浮かぶのはあの日カウンター席に座っていた女性。あの大雨で駅からも少し距離があるカフェにいたこと、雨に当たった気配がなかったことを考えると涼介のような一見とは思えない。少し話しただけで大半は無言の時間だったのに苦に思うどころか疲れが吹き飛んだ気持ちになったのは美味しいカフェラテと彼女のおかげだったのではとすら思った。
また会えたら――そのくらいの下心は許して欲しいと思いながら、カフェへと向かう足をもう一段階早めた。もちろん、マスターの淹れたコーヒーが飲みたいというのもあるのだけれど。聞こえないとは理解しつつ、涼介はマスターに釈明するのだった。
カランと柔らかな鐘の音を鳴らし、店内に入る。
「いらっしゃいませ。あぁ、あなたは大雨の日の」
さすがというべきだろうか。マスターは涼介の顔を見るなりすぐに顔を思い出したようだ。涼介は「その説はありがとうございました」と礼を述べると、マスターに席へと案内される。奇しくもあの日と同じ席だ。
「あの後は大丈夫でしたか?」
「えぇ、温まってからだったのでなんとか。濡れたまま乗るわけにもいきませんでしたし、本当に助かりました」
微笑むマスターに改めて礼を伝えた。今日訪れたのは立ち寄れる時間があって、また足を運びたいと思ったからなのもあった。
「いえいえ。それが縁でこうしていらしていただけたのなら私も嬉しいですし」
「えぇ。あのときのカフェラテ、とても美味しくて。今度はゆっくり来たいと思っていたんです。もちろんお礼も改めてしたかったのはあるんですが」
そういうと涼介はアイスカフェラテを注文する。仕事の合間に飲むのはもっぱらブラックコーヒーだったが、あの日の印象が強く、あれから少しだけカフェラテにハマったのだ。ただほかで飲むと物足りなさがあり、ここでカフェラテを飲むのが楽しみになっていた。
手際よく準備されたカフェラテが目の前に置かれると、涼介は早速一口目をいただく。コーヒーの苦味と牛乳のまろやかさのバランス、よく冷えているのに味が損なわれていないのは素人ながらにさすがお店の味と感心していた。
今は涼介以外に人がいないこともあって、マスターとの会話を楽しんだ。この辺りには仕事で時々訪れること、最近担当になったので営業の合間にいろんなお店をチェックしていること、あの日はたまたま目に入って飛び込んだこと。
偶然だったとはいえ、あの日訪れたのがカフェ・ルアンだったことは涼介にとって運命的で、散々な目にあったことが帳消しになるくらいの素敵なカフェに出会えたことを心の底から喜んだ。世間話程度の雑談を少ししたところで、涼介は店を出た。
「また来ます」
涼介の言葉にマスターは微笑みながら頷き「いつでもお待ちしております」と答えた。
(今日はあの人、いなかったなぁ。次は会えるだろうか)
駅に向かう道すがら涼介はあの日のことを思い出していた。
それからというもの、営業で訪れるたびに涼介はカフェ・ルアンにも足を運んだ。 すっかりとりこになってしまい、マスターにも名前を覚えてもらうだけでなく、他の人がいなければあのカウンター席でカフェラテを味わうのが常となるくらいになっていた。
しかし、涼介があの女性に会うことはなかった。曜日や時間帯を変えても。偶然なのだろうと思いつつ、ここまで来るとどうにかもう一度出会えないものか。涼介はカレンダーと記憶を遡り、訪れた日はいつも晴れていたことを思い出す。
(雨の日だったら会えるのだろうか?)
期待を胸に、次に足を運ぶ日は雨になることを願った。
快晴が続いていた中で訪れた雨の日。湿度が上がり、空模様の割に気温は高く、まとわりつくような空気は不快指数が上がる中、涼介はつい鼻歌を歌ってしまうくらいに機嫌がよい。仕事が滞りないことももちろんだが、今日はカフェ・ルアンに寄る日だ。そして雨。転機となったあの日以来、足繁く通っているのに出会わない彼女に会える予感がして、涼介は柄にもなく朝から何処か浮足立っていた。
仕事を終え、すっかり慣れた足取りでカフェへと向かう。今日こそは、そんな願いを込めて扉を開けた。
「こんにちは」
涼介が店内に入ると、マスターと目が合う。一歩足を踏み入れれば、指定席となったカウンターの端の席に案内された。カウンターがまるっと入る位置に来て涼介は思わず「あっ」と零す。
期待していたとはいえ、いざ現実で目の当たりにすると人間は固まってしまうらしい。今日はあの時の彼女がいたのだ。
涼介が席に座ると、助け船を出すように「いつもので大丈夫ですか?」とマスターが声をかけた。涼介が了承するように頷いた。
「あの、この前の大雨のときの方、ですよね?」
「えぇあの時はどうも」
「あの後は大丈夫でした?」
彼女も涼介のことを覚えており、心配する言葉に涼介は胸の奥がぎゅっとなった。柔らかく耳にすっと入る声に聞き入りそうになりながら、涼介は「大丈夫でした」と答えると、彼女はホッとした表情を見せる。
「結構濡れていたみたいだったので心配だったんです」
「マスターのおかげで大丈夫でした。あの時いただいたカフェラテの味が美味しくってあれからたまに来ているんです」
二人の会話にも耳を傾けていたマスターはニコニコと微笑みながら同意した。
「そうだったんですね。良かったですね、マスター。常連さん増えたみたいで」
「えぇ。心地よいと思って来てくださるのは嬉しいですからね」
マスターと彼女の会話に、彼女もまた常連であるのだと理解し、次も機会があるだろうかと頭の片隅で考えていた。
「ということは常連仲間、ですか?」
「はい。私、この近くの大学で働いていて……」
「あ、そうなんですね? ということは研究者さんとか?」
「いえ、学校事務のお仕事を。学生の相談に乗ったり、手続きの対応したりするんです」
「なるほど。学校でのお仕事かぁ。僕は営業やってて、ここ最近この辺りの担当になったんです」
お互い差し支えない範囲で自然と会話を進めていく。仕事のことだったり、カフェを見つけたきっかけだったり。どれも他愛もない話だったが、心地よい談笑に二人は笑顔を浮かべていた。
お互いの名前を知る程度に話したところで、彼女が先に店を後にする。同じタイミングで出て、話ながら駅に向かう勇気もなく、涼介はようやく話せた彼女――華絵のことを思い浮かべた。
(さすがにいつ来るかとは聞けなかったなぁ。でも――)
雨の日に彼女に会える。涼介の中で一つの仮説が確立したのだった。
暦の上では夏は過ぎたというのに、気温が下がる気配を見せることがない。冷房の効いた社内で涼介はデスクワークに励む。一息つくために席を立ち、自販機がならぶちょっとした休憩スペースで温かいコーヒーを飲みながら、窓に目をやる。
朝からどんよりとした空模様で雨が降ったり止んだりを繰り返している。予報では夕方は雨らしい。今日は内勤だけだが、雨とあれば向かう先といえばカフェ・ルアンだ。
「柏木、何か機嫌いいな」
「そうか?」
「えっ、無自覚なの? 朝から『今日は雨かぁ〜』って嬉しそうに言ってただろ」
同僚からの指摘に涼介は頬をかいて誤魔化した。同僚の前で呟いた自覚は全くない。しかし、浮足立ってしまう心当たりは十二分にある。雨の日であれば、雨の日の彼女――華絵に会えるからだ。
何かを察した同僚は涼介に追求し始めたため、慌てて自席へと避難する。夕方が待ち遠しい。カップに残っていたコーヒーを煽ると足早に仕事へと戻った。
夕方。追求の手を止めない同僚を振り切って、涼介は小雨が降る中、カフェ・ルアンへと向かう。いつもは営業先から向かうが、今日は会社から家とは反対方向の電車に乗り込む。十分ほど電車に揺られ、最寄り駅につけばうっかり顔が緩んでしまう。はやる気持ちを抑え、すっかり慣れてしまった道のりを歩き、店の中を覗けば既に華絵がいつもの席に座っていた。
「いらっしゃいませ」
マスターの出迎えにぺこっとお辞儀をしてから、マスターの声で振り返った華絵に手を挙げて挨拶をする。マスターは二人の様子を微笑ましく見守っているのだが、当の本人たちは気づいていない。
「柏木さん、お疲れ様です」
「桜井さんも、お疲れ様です」
どちらも明言したわけではないのだが、雨の日にカフェ・ルアンで話すのが二人の中での習慣になりつつあった。ただ偶然、あの雨のひどい日に出会っただけ。二人の間では雨の日が暗黙の約束となり、心地よい時間へと変わっていった。
話をするようになり、お互いのことも少しずつ知っていく。仕事のこと、休みの日は何をしているか、ここに来るきっかけ。紳士的に振る舞う涼介と仕事柄も相まって聞き上手な華絵。過度に気を遣わず、それでいて自然体でいられる心地よさに二人ともこのひとときを楽しみにするようになった。
出会った時から素敵な人だと感じていた涼介はもとより、華絵もまた話していくうちに涼介のことを意識するようになった。よく話を聞く学生からも「最近雰囲気が変わった」と言われ、恋だ彼氏ができたと騒いでいた。華絵自身、それについては否定しているが、カフェで出会った話をしては火に油だと思い、結果、華絵の中で涼介と会うことは誰にも内緒の楽しみとなっていたのだった。
二人にとっての雨の日の楽しみはあれから更に三週間ほど経過した。
だいぶ暑さが和らぎを見せるある晴れた日。今日も涼介は営業を終え、駅に向かうところだった。ここからであればカフェ・ルアンに寄るのも良いなと思いつつ、今日、彼女に会うことはない。彼女との逢瀬は「雨の日」と決まっているから。
ただカフェ・ルアンで時折マスターと話しながら、静かにコーヒーを飲む時間も涼介にとっては心地よい時間だった。彼女がいない日にも行くことはあったし、雨の日で彼女に会えない日もあった。だから今日、仕事終わりに立ち寄るのも悪くはない。そう思うと自然に足が向かった。
少し様子を、通りかかる際に店内を覗くと、涼介は驚いた。いつもの席に彼女が、華絵が座っていたのだ。見慣れた姿に間違えるはずもない。
彼女には彼女の事情がある。いつ訪れていてもおかしくはないし、雨の日に会うのは暗黙の約束になっていただけで、それ以外に会ってはいけないということもない。ただその約束を反故にしていいものか。彼女から見えない位置に移動して、中に入るか悩み、意を決してカフェに入ることにした。無論、彼女を責めるつもりなどは毛頭ない。単に、彼女に会えるのならいつだって嬉しいという自分の気持ちに素直になっただけのことである。
「こんにちは、どうぞこちらへ」
マスターの案内にぺこりと会釈をする。彼女もマスターの声につられて振り返り、一瞬目を見開いた。それもそうだろう、普段は会わない人がそこにいるのだから。
「あ、か、柏木さん?」
「どうも、桜井さん」
華絵の動揺は涼介の目から見ても明らかだったことから、彼女も涼介は「雨の日にやってくる常連」と思われていたのだろう。
「晴れてたんですけど、近くを通ったので寄っちゃいました」
「そう、だったんですね。私も今日は何となく寄りたい気分で……」
二人とも饒舌に話すタイプではなかったが、いつもよりぎこちなさが残る。周囲にいるのはマスターだけなのが救いだった。
「ちょっとストックが切れてしまったので少しだけ裏にいます。もし何かあったら遠慮なく呼んでください」
「は、はい!」
マスターは優しく微笑み、華絵からは見えない場所に移動すると涼介に向かってウィンクをした。どうやらマスターにはいろいろ筒抜けらしい。嫌な気持ちになるどころか、マスターの茶目っ気と心遣いに感謝した。涼介は少しだけだが冷静になれた気がした。
「初めてここを来た後にも何度か来たんですけど、二回目に桜井さんに会ったのが雨の日だったので、雨の日ばかり来てました」
言外にあなたに会いたくて雨の日に来ていたと懺悔すると、華絵は驚きこそしても頬を赤らめ、少し目を伏せた。
「私も、よくここには来ているんですけど、行く日は決めてなくて。でもどうせいくなら、柏木さんが来てそうな日にしようって……私も雨の日だったら会えるのかなって思って、その……」
雨の日なら会える。そう思っていたのは自分だけではなかったという事実に二人は揃って顔を赤くした。嬉しさ半分、恥ずかしさ半分。まるで思春期の学生のように、我ながら初々しいと自覚してしまうからこその恥ずかしさがある。
恥ずかしさで引きつりそうになる顔を抑えながら、涼介は意を決した。
「今度は晴れた日にお茶しませんか? 今日も含めて」
涼介の提案に華絵は勇気を振り絞って涼介の目を見て頷いた。
「はい、ぜひ」
雨宿りから始まった二人の物語は、晴れ渡った空の下で新たな一歩を踏み出した。
雨宿りのカフェで 高木凛 @kouboku_rin
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