電話小屋で君の声を待っている
彩原 聖
声をなくした夏、君に出会った
昭和十年、八月。
海辺の村は夏の陽に包まれていた。
木造の家々は潮風に洗われ、板戸の隙間からは蝉の声が絶え間なく忍び込む。白い砂の浜には、波がひそやかに寄せては返し、寺の鐘が遠く、低く、響いてくる。
それは、昼と夜の境を曖昧にするような、時の輪郭をやさしく溶かす音だった。
彩花は縁側に膝を抱えて座っていた。細い指先で畳の目をなぞりながら、ぼんやりと庭先の柿の葉が風に揺れるのを見ている。何も言わず、何も求めず、ただ蝉時雨に身を沈めていた。
彼女は春に声を失った。
熱と咳が続き、医者が「肺の病だ」と告げた日のことは今もはっきりと記憶に残っている。
声がかすれ、やがて音を結ばなくなったとき、彼女はまるで世界と自分の間に分厚い硝子を挟んだような孤独に包まれた。
かつて村の学校で彩花は読み聞かせや手紙の代筆をしていた。子どもたちは彼女の話す声が好きだった。落ち着いていて、どこか夢のような響きを持っていたと皆が言った。
けれど今は声の代わりに沈黙がその場を占める。
言葉は心に澱のように積もり、どこにも流れてゆかない。
「空っぽの鳥籠みたいだな」と、ふと思う。
自分の中にはまだ声がある。けれど、それを誰にも届けることはできない。
開かれた窓からただ風だけが吹き抜けていく。
その日もまた蒸し暑い午後だった。
彩花はなぜか足が村外れの林を向いていた。気づけば、小さな坂を下り、藪の先の電話小屋の前に立っていた。
木造の柱に支えられた古びた公衆電話である。
赤い屋根はところどころ塗料が剥げ、受話器には潮風の跡が残っている。今はもう、あまり使う者もいない。
誰に呼ばれるでもなく、甘い蜜に誘われるカブトムシのように彩花は戸を開け、中へ入った。
海の匂いが染みついた空間にいろんな想いや願いが閉じ込められているようだった。
そして何の前触れもなく――
電話が鳴った。
小さな音だった。だが、静寂に沈んだ空間ではそれが雷鳴のように響いた。
彩花はためらいながらも受話器を取った。
「……あ、もしもし?」
青年の声だった。どこか気の抜けたようで、それでいて丁寧に言葉を選んでいる印象があった。
「こちら旅先からです。誰かと話したくなって……でも間違えたかな」
彩花は答えられなかった。声が出ないことを彼は知らない。
だが、電話の向こうの青年――悠と名乗った――は沈黙に慣れているようだった。
「……黙って聞いてくれるだけでもありがたいです」
そう言って、彼は自分の見た風景や今日の空の色潮の香りについて話し始めた。
彩花はただ受話器を握りしめていた。
彼の声は夏の夜の海のように穏やかでどこか遠くの波のざわめきを運んできた。
彼女の沈黙はその波に揺れる小舟のようだった。
彼の声を聞くだけで泣きそうになり、受話器を握る手が次第に震え始める。
彼が「じゃあまた」と言った後、その震えは確かにおさまった。
それからというもの、電話は毎晩、ほぼ同じ時刻に鳴るようになった。
彩花は日が傾くとそっと家を抜け出し、草の匂いが満ちる道を辿って、あの電話小屋へ向かう。
きっかけは今でもわからないが、日課のようになっていた。
古びた扉の軋む音も、もう怖くなかった。
最初の数日はただ受話器を取り、耳を傾けるだけだった。
青年――悠は彩花が言葉を返せないことを知ってか知らずか何も問い詰めずただ語り続けた。
「今日は村の灯台に行ってきたんです。風が強くて、帽子が飛びそうだった。海って見てると心が広くなる気がしますね」
「昔、声が少し高いってよく言われました。からかわれて、ずいぶん黙っていた時期もあって。でもね、不思議ですよね。黙ってると逆にいろんなことが見えてくる」
彼の声は電話の線を伝って彩花の心の奥にそっと触れた。
まるで、何かを無理にこじ開けるのではなく、優しく包むようにして。
その優しさに触れて彩花は思い立つ。
彩花は息をふっと吹きかけて応えることを覚えた。受話器に小さな音が残ると悠はそれを理解し微笑むような声で言った。
「……今のはうなずいたってことですか?」
ある晩、彼は言った。
「あなたは僕にとって風みたいです。言葉はなくてもちゃんと何かを伝えてくる気がする」
彩花の目に不意に涙が滲んだ。
自分の沈黙が誰かにとって「意味のあるもの」になったのは声を失ったあの日から初めてのことだった。
それから、彼女は小さなノートを持ち歩くようになった。
白い紙に鉛筆で今日の空の色波の音蝉の声を綴った。
「言葉が心の声にならないなら、書くことで伝えたい」
そんな思いが彼女の手を動かしていた。
悠は彩花が何も言わないままページをめくる音に気づいたのかふとこんなことを言った。
「……あなた何か書いてますね。ページをめくる音、僕は好きですよ。静かな夜にぴらぴらと紙の鳴る音ってなんだか時間が止まるみたいで」
彩花は胸の奥にそっと火が灯るのを感じた。
彼女は書くことで自分の「声」を探していた。
悠は話すことで自分の「音」を受け入れようとしていた。
そんなふたりの声と沈黙は毎晩、あの小さな電話小屋の中で波の音に溶け合っていった。
八月の終わりが近づくにつれて、村の風は少しずつ涼しくなり始めた。
けれど彩花の胸には夕立のような焦燥が渦巻いていた。
あの電話を通して毎晩言葉を交わすうちに悠の存在は少しずつ心の奥へと染み込んでいた。
だが、彩花はその気持ちをどう表していいのか分からなかった。
声がない。
それは自分という人間の輪郭が曖昧になることだった。
言いたいことが喉の奥に澱のように沈み、口を開いてもただ空気が流れるだけ。
ある晩、受話器の向こうで悠が問いかけた。
「もし、君が声を持っていたら……どんな話を僕にしてくれますか?」
その瞬間、胸の奥にずっと沈んでいた何かが、波打った。
彩花は唇を震わせた。
声を失ったあの日から二度と挑戦しようとしなかったことをした。そして、迷いながらも、ほとんど聞き取れないほどのかすれ声で、こう囁いた。
「……きこえる……?」
沈黙。
自分の声がどれほど歪んでいたか彩花自身にも分かっていた。
すぐに羞恥が襲いかかり、頬が熱を帯び、涙が浮かぶ。
次の瞬間、彼女は思わず電話を切っていた。
夜の電話小屋に響いた、機械的な「カチャリ」という音が、胸をひどく痛めつけた。
数日、電話は鳴らなかった。
まるで、あの一言がすべてを壊してしまったかのように。
自分の声が醜く、弱く、哀れでしかなかったことに打ちのめされながら、彩花は床に伏せた。
眠れぬ夜、ノートに繰り返し書いたのは、自責と後悔の言葉ばかりだった。
――私はもう誰とも繋がれない。
こんな声じゃ誰も…
けれど、三日目の夜、郵便受けに封筒が届いていた。
差出人の名前に見覚えのある字。
悠からの手紙だった。
震える手で封を切り、便箋を広げる。そこには、彼の細やかで癖のある文字が並んでいた。
「あの夜、僕は君の声を聞きました。壊れた琴の弦のように、繊細で、弱くて――けれど、確かに心に触れました。声というのは、音だけのものじゃないと、僕は思うんです。君の沈黙が、僕の中で響き続けています。君が何も言わずに、ただ耳を傾けてくれた夜々を僕は忘れません。君が書いた言葉も君の手の仕草もきっと全部、君の声です。」
読み終えたとき、彩花の目から静かに涙がこぼれた。
嗚咽混じりの鳴き声が小さな部屋でこだまする。手紙を読んだ後のその声はなんだか愛らしく感じた。私の声、私だけの声なんだなって。
しばらくして、彼女は窓を開け、夜風にあたった。寺の鐘が遠く響き、蝉の声がひとつ、またひとつ、夜の帳に沈んでいった。
その数日後、村では夏祭りが催された。
灯籠が川を流れ、子どもたちの歓声が響く中、彩花は電話小屋へ向かった。けれど、その夜に限って、電話は鳴らなかった。
電話は故障していた。
受話器を取っても、耳に届くのはただの静けさだけ。
けれど彩花はあの温かな声が自分の中でまだ消えていないことに気づいた。
声を失っても自分の想いはまだここにある。
そして、それを受け止めてくれる人がいる。
彩花はふと口を開く。
ほとんど音にならない息の中でひとこと呟いた。
「……悠、ありがとう」
祭りの翌日、彩花はひとり、村の古老のもとを訪ねた。
電話小屋の管理を任されているという老人は記録帳の埃を払いながら彼女にそっと話しかけた。
「……この夏、東京から来とった書生がな。毎晩、決まった時間に電話をかけとったよ。宿は港のそばの“あおしま屋”ちゅうところじゃったな」
彩花は深く頭を下げ、急いで港へと向かった。
潮の香りが濃く、海風が髪をなびかせる。港の小さな宿の前に立つと胸の奥が波のようにざわついた。
縁側にひとりの青年が座っていた。
夏の光に目を細めて本を読んでいたその人は電話で聞いたあの声と同じ穏やかな空気を纏っていた。
彩花の気配に気づいたのか彼がゆっくりと顔を上げる。
目が合った瞬間、ふたりの間にあった時間のすべてが一気に静かにほどけていくようだった。
彩花は震える指で小さなノートを差し出した。
彼はそれを受け取りページをめくった。
「私は声をなくしてしまいました。でも、あなたの声が私の沈黙を照らしてくれた。書くことで私はまた“誰かとつながっている”ことを思い出しました」
彼—悠はゆっくりと頷き、ノートの文字を目でなぞったあと、やわらかな声で言った。
「君の書いた言葉、ちゃんと聞こえていますよ。……君の声はまだここにある」
彩花はそっと口を開いた。
ほとんど音にはならないかすれた声で言葉を紡ぐ。
「……ずっと怖かった。声がない自分をどうやって……誰かに見せればいいのか……」
悠は首を横に振った。
「声は心の一部だけれど全てじゃない。君がくれた沈黙や言葉や手の動き――それ全部が君の“響き”なんだと思う」
ふたりは海の見える丘へと歩いた。
夏の終わりの夕陽が波間に溶けるように落ちていく。
彩花は懐からノートを取り出しそこに一編の短い詩を綴って悠に手渡す。
悠はそれを声に出して読んだ。
ひとときの声は消えても
波はただ岸を撫でて
言葉なきひかりを運ぶ
風が吹いた。
どこからか寺の鐘がひとつ鳴った。
それはまるでふたりの出会いを祝福するような音だった。
八月の終わり海の村は少しずつ秋の気配を帯び始めた。
空は高く澄み、蝉の声もどこか遠く、微かになった。
夏の光が、惜しむように木の葉を照らしている。
悠は旅を続けるため、村を離れることになった。出発の朝、彩花は浜辺まで見送りに来ていた。風に吹かれるスーツ姿の彼はほんの少し頼りなさげで、けれどどこか希望を孕んだ眼差しをしていた。
言葉は少なくても、ふたりはわかりあえていた。
別れの時、彩花は小さな封筒を渡す。中には、彼と出会ってから書き綴った短い詩と、まだ聞かせたことのない感謝の言葉がしたためられていた。
悠はそれを胸にしまい穏やかに微笑んだ。
「君の声、僕の旅にちゃんと連れていきます」
そして、汽船の汽笛が鳴り、白い波をたてて船が沖へ向かう。
彩花はその姿が見えなくなるまで静かに見送った。
その後彩花は再び村の子どもたちの前に立った。
けれど、かつてのような読み聞かせはもうしない。
代わりに、自分で書いた詩や物語を手紙として子どもたちに届け、誰かがそれを読み上げる時間を作った。
声はなくとも、言葉は届く。
想いは届く、遠くへ響く。
それを彩花は悠から教わったのだった。
彼女は今も村外れの電話小屋へ通っている。
電話はもう鳴らない。けれど、そこは彼と出会った場所であり自分の“声”を取り戻した小さな舞台だった。
ある日、彩花は波打ち際に腰を下ろし、ノートを広げる。
そして、誰に向けるでもなく、風に吹かれながらそっと声を絞り出す。
「――ありがとう」
その声はまだかすかで風の音にも掻き消されそうだった。
けれど確かにあった。彼女自身の声だった。
寺の鐘がひとつ、低く鳴る。
波の音が寄せては返し、空を流れる雲の影がゆっくりと地面を撫でていく。
彩花の声は夏の残響として、その海辺の村に静かに溶けていった。
電話小屋で君の声を待っている 彩原 聖 @hijiri0827
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます