漣
縫
漣
それから、
開け放たれた窓から、風が入ってくる。
潮の匂い。レモネードの匂い。いつもの。
カーテンがふわりと持ち上がって、また静かに落ちた。
僕はその動きをぼんやり眺めながら、縁に寄りかかって、渚のマグカップを両手で抱えていた。
「風、強いね」と僕が言うと、
渚はタオルで髪を拭きながら、うん、と小さく返事をした。
それっきりだった。
窓の向こうに、白い船が一隻浮かんでいた。
小さくて、遠くて、ぼやけて見えた。
「……茅野も、こんなふうに海、見てたっけ」
そう口にすると、渚は手を止めた。
それから、少し考えるふうをして、「そうかもね」と言った。
僕はその声を、どこか遠く感じた。
思い出すような
──なんで、君はそんなふうに答えるんだろう。
そんな疑問が浮かびかけて、でも口にはしなかった。
それが“おかしいこと”だって、言葉にしてしまったら終わってしまう気がして。
昼をすこし過ぎた頃だったと思う。
渚がアイスティーを出してくれて、僕はひと口飲んだ。溶けかけた氷が、静かにグラスの中で鳴った。
「……ねえ、茅野って、紅茶より珈琲派だったよね」
何気なく言ったつもりだった。
でも、渚は少しだけ間をあけてから、「え……どっちだったかな」と呟いた。
僕はグラスの縁に視線を落とした。
琥珀色の水面に、歪んだ光が揺れていた。
「ほら、あのときも言ってたじゃない。海辺の喫茶店で──」
そう言いかけて、ふと、続きを思い出せなかった。
喫茶店。潮風。夕暮れ。
それから……なにを、話していたんだっけ。
「……あれ?」
自分でも、言葉のつづきを探して、探して、それでも見つからなかった。
「ごめん、僕、何が言いたかったんだろう」
渚は笑った。
「眠いんじゃない?」
「かもね」
取り繕うように笑って、視線を逸らした。
本当は、眠くなんてなかった。
ただ、記憶が、少しずつ霧に呑まれていくような感覚がしていた。
茅野の声が、思い出せなかった。
どんなふうに笑ったか、どんな風に、僕の名前を呼んだか。
「……渚、さ」
「うん?」
「茅野のこと、どれくらい、好きだった?」
問いながら、自分の声にかすかなざらつきを感じた。
意地悪なつもりじゃなかった。ただ、確かめたかっただけなのに。
渚は少しだけ首を傾けた。
「どれくらい……って、どう答えたらいいのかな」
「例えば、茅野がいなくなって、すごく悲しい、とか」
「それは……まあ、うん」
言葉が、ふわりと浮いて、着地しなかった。
心に届く前に、空中で霧散するみたいだった。
──やっぱり、渚は泣いていない。
あんなに近くにいたはずなのに、まるで、他人事のような温度で、茅野のことを話す。
そう思ってしまう自分のほうが、冷たいのかもしれない。
渚は、悲しみ方が違うだけなのかもしれない。
「ねえ、渚。茅野って……」
また訊こうとして、言葉を呑んだ。
訊いてどうする。訊いて、それでなにが変わる。
答えを求めるふりをして、僕は逃げているだけじゃないのか。
気がつくと、渚の横顔をじっと見ていた。
さっきまで水気が残っていた髪。静かな呼吸。
近くにいるのに、触れたことのない距離。
僕は、誰を見ていたんだろう。
ずっと。ずっと、誰に触れようとしていた?
「……渚」
ぽつりと名前を呼んだら、渚は、何も言わずにこちらを向いた。
そして、ただ、まっすぐに僕を見ていた。
ああ、と思った。
胸の奥で、
何かが、ゆっくりと、ずれていく音がした。
その夜、夢に茅野が出てきた。
何も話さなかった。
ただ、海辺に立って、こちらを見ていた。
風が吹いていた。
潮の匂いがして、髪がふわりと揺れて、それなのに、顔が思い出せなかった。
名前を呼ぼうとしたけど、喉がからからで、声が出なかった。
目が覚めたとき、喉じゃなく、胸の奥がひりついていた。
部屋はまだ暗くて、隣の部屋から、渚がコップを置く音が聞こえた。
僕は起き上がって、静かに歩いた。
リビングの明かりは点いていなかった。
けれど、窓際に座る渚の姿が、外の街灯に照らされて、うっすら浮かんでいた。
「渚」
名前を呼んだ僕の声が、自分でも驚くほどに掠れていた。
渚は振り返らなかった。
それでも、気づいてくれている気がして、僕はそっと隣に座った。
しばらく何も言わずに、
二人で夜の風を受けていた。
そして僕は、ふと口にした。
「──茅野、いなかったんだ」
渚は動かなかった。
「僕が、作ったんだと思う。君が誰かを好きだって、知りたくなくて。でも、知ってしまって。
どうしても、直視できなくて……誰か、間に立ってくれればって。……それが、茅野だったんだと思う」
言ってしまってから、ひどく静かになった。
自分の声が、どこか遠くで凍ったようだった。
渚は、窓の外に視線を向けたまま、少しだけ目を細めていた。
海鳴りが遠くでくぐもっていた。
「──それで?」
その声は、責めても、驚いてもいなかった。
ただ、静かに、まっすぐだった。
「な、渚が……他のひとを好きでも、それでも。──君のこと、好きなんだ。……ずっと、前から」
僕はやっとそれを口にできた。
喉の奥で、何かが崩れて、ようやく言葉になった。
渚はしばらく僕を見ていて、
それから、ごく自然な動作で、僕の手に自分の指を絡めてきた。
「知ってたよ。最初から」
その声には、責めるような響きはなかった。
かといって、優しいわけでもなかった。
ただ、ずっと前から、そこにあったような、静かな温度だった。
「君が話してた茅野は、どこにもいなかった。でも、僕のほうばかり見ないようにしてる君がいた。だから、たぶん、そうなんだろうなって、思ってた」
僕は、息ができなかった。
「怖かった。見ないでいてくれたほうが、楽だった。でも、ちゃんと見たとき……ああ、僕、君のことが好きなんだって思った」
声が震えていた。
心臓がひどく痛くて、でも、それでも逃げたくなかった。
渚はゆっくりと、こちらに顔を向けた。
そして、静かに、まっすぐに僕を見て言った。
「──ちゃんと此処に来てくれて、嬉しいよ」
それは、たったひとつの言葉だったけれど、
たぶん、僕がずっとずっと欲しかったものだった。
僕はその場で泣くかと思った。
けれど、涙は出なくて、代わりに、手を伸ばした。
渚の胸が、何も言わずにそこにあって、そっと、僕と重なった。
そのまま、ふわりと腕が背中をまわってきて、抱きしめられた。
強くもなく、弱くもなく、ただ、たしかなぬくもりだった。
風が吹いていた。潮の匂いがした。
レモネードの匂いは、もうなかった。
でも、ちゃんと今、
この部屋にふたり分の体温があった。
漣 縫 @nui_zca
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