星海の夜
憂類
或る男の独白
はい、はい。なんでしょう。ああ、邪魔なら申し訳ない。釣りに来られた方ですか?生憎ですが、ここはあまり良くないですよ。もう少し開けたところなら、時期が良ければキスやイカなんかが釣れますが。はぁ、違いますか。釣りじゃないと。では、何用で?……インタビュー?……そうですか。まあ、ずっとこんな辺鄙なところに座っている男がいたら、気になりますか。……そうですね、かれこれ、十年くらいになりますか。まあ、良いですよ。みんな気味悪がって、僕の話を聞きたがる人間なんていませんから。お話しします。あの日、海の向こうに消えた、僕の想い人について。
***
あれは、初夏のよく晴れた昼下がりのことです。僕は営業の仕事に疲れて、真野浜の沿道に車を止めました。そうです、この浜辺のことです。飴屋の桟橋あたりは有名ですが、ここは釣り人くらいしか知らない場所ですから、サボりにはちょうど良かったのです。
車を降りて胸壁を登ると、底抜けに澄んだ青空と、三日月のような真野の湾岸が一望できます。
その頃胸を締めていた失恋や失敗が、吹き抜ける海風に流されていくようで、自然と口角が上がりました。
僕は胸壁脇の石階段を降りて、蒸れた革靴を脱ぎ捨て、日射で焼かれた砂の熱さと、背丈の低い和草を裸足の裏に感じながら、しばらく歩きました。砂浜を見渡しても僕の他に人はいなくて、聴こえるのは細波の音と、海猫の声だけ。良い気分でしたね、とても。
気がつくと随分奥の方まで来てしまって、浅く寄せては引く波と、大袈裟に抉れた海食崖の作る日陰が、どこか秘密基地みたいな雰囲気を漂わせる、そんな場所に着きました。
はい、そうです。僕たちがいる、ちょうど此処ですね。見ての通り先はないですから、僕は此処に腰を落ち着けることにしました。
日陰から海を眺めると、歪に開け放たれた巨大な窓から異世界を見ているような、不思議な感覚があります。水平線の向こうから白い巨人が現れて、こちらに手を振らないだろうか。昔話題になったネッシー、いや真野湾だからマッシー?……そんな首長竜が、海面から首を覗かせないだろうか。未確認な円盤が空から舞い降りて、怪しげなサーチライトをこちらに向けないだろうか——そんな下らない妄想に浸っていると、視界の端、波打ち際に光るものを見つけました。
何かが砂の中から飛び出していて、引き波の時に露出したそれが陽光に照らされ、キラキラ輝いているのです。それは、小さな瓶でした。波に揉まれて打ち上がったはずなのに、不自然なほど全く傷のない、透明な小瓶。古びたコルクで蓋がされていて、中には円筒形に丸められた紙が一枚、入っていました。
貴方は、ボトルメールってご存知ですか?まあ、見た目は今言った通りです。瓶に手紙を封じて、海の向こうの顔も知らぬ誰かに向けて、誰にも言えない愚痴や告白を流すのです。
僕は運がいいと思いました。……だって、普通は流れ着いたりしないでしょう?大概は栓が抜けて水底に沈んだり、岩礁にぶつかって割れてしまうでしょうから。能登の辺りから流れ着いたか、大陸から真っ直ぐ届いたのか知れませんが……兎に角、僕はその珍しい郵便物を見てみることにしたんです。
コルク栓を崩さないよう慎重に力を込めると、ある時ポンッと音がして、拍子抜けなほど簡単に開きました。中の紙は、和紙って言うんですか……ゴワゴワした手触りで少し黄ばんでいました。それが髪の毛みたいに細い、黒い紐で結ばれているんです。
僕はなんだか嫌な気がしました。本当になんとなくの感覚ですが、中を見ちゃいけないもののような気がしました。一旦瓶に戻して、砂浜に埋め直したりもしました。……でも結局、好奇心には勝てませんでした。黄ばんだ紙には、こう書かれていたんです。
こんにちは。わたしとおはなししませんか。
紙のせいか酷く滲んでいましたが、とても女性的な、やわらかい筆跡でした。内容も普通だ、なんだ、心配して損した。初めはそう思いました。
でも、変なんですよね。この文章。
僕さっき言いましたよね、ボトルメールなんて、無事に流れ着くこと自体珍しいって。そりゃ同じ内容の手紙を沢山流せば何処かしらには流れ着くでしょうが、返事なんて到底望めるものじゃありません。
でもこの手紙は返事がもらえることを前提に書かれているんです。おかしいですよね。
まあ、大方暇なマダムの道楽か何かだとは思いましたよ。でも人って違和感に気づくと、あれこれ考えを巡らせてしまうものじゃないですか。
例えば、何処かの国の工作員なんかがこの手紙を埋めていて、少し遠くの崖辺りから此処の様子を窺っている。誰かがボトルメールで返事を流すのを見ていて、その人が後日気になって此処を訪れた所を攫ってしまう……とかね。此処は絶対、人目に付きませんから。
……ははっ、考えすぎですよね。当時の僕もそう思いました。そして、いっそのこと返事を書こうとも思ったんです。ちょうど社給のメモ帳とペンを持っていましたし、小瓶を集めるビーチコーミング的な趣味もありませんから、手紙のおまけを添えて海に流してしまおうと。本当に万が一、ボトルメールを流した人の元に届いたなら、運命的で良いじゃないですか。そういうの好きなんですよ、僕。
私で良ければ、ぜひお話ししましょう。実は、先日失恋をしまして。仕事であまり構えなかった僕も悪いんですが、彼女は別に男を作って消えてしまいました。やっぱり寂しくて……退屈なんです。文通出来たら嬉しいです。お返事待っています。
殴り書きでこんなことを書きました。どうせ届かないと思ってましたから、失恋のこととか赤裸々に書いてしまって。お会いしたばかりの人様に聞かせるような内容じゃないですね、お恥ずかしい。
小瓶に細く丸めたメモ紙を詰めて、ついでに近くに落ちていた綺麗な貝殻も入れておきました。この辺りにしかいない貝だったら、物珍しくて嬉しいかと思って。
日陰から出て小瓶を海面に浮かべると、波の押し引きで何度か行ったり来たりしながら、沖の方に運ばれていきました。すごく波が穏やかな日だったのに、すぐ見えなくなって驚きましたね。
小瓶を見送った後は浜を真っ直ぐ引き返して、車に戻りました。座席に放り投げていた携帯電話にいくつも着信が入っていて、冷や汗をかいたものです。
そこからしばらくは、あの手紙のことも忘れて仕事に明け暮れました。
***
一ヶ月ほど経った後でしょうか。また仕事で真野の方に行くことになって、僕はボトルメールのことを思い出しました。珍しく梅雨晴れの日で気分も良かったので、散歩がてら小瓶を探すことにしたんです。
......あはは、もちろんサボりですよ。今じゃ許されませんかね。波打ち際を眺めながら、以前と同じ浜を歩きました。
その日も随分波が穏やかで、遠くで魚の跳ねる音が聞こえるほど静かでした。
あぁ、浜には色々なものが落ちてましたよ。漁で使われたであろう網の切れ端、薄汚れたペットボトル、流木、片方だけのサンダル。まあゴミですよね。
次第に期待も薄れていったんですが、あるとき、唐突に見つかったんです。ボトルメール。以前と全く同じ場所、この海食崖の麓の波打ち際に埋まっていました。
なんか、ぞっとしちゃいましたよ。こんなことあるんだって。この浜の何処かに流れ着くなら百歩譲ってわかりますが、全く同じ場所っていうのは、偶然にしては出来過ぎですよね。
しばらくあれこれ考えましたが、もういいや。とりあえず開けてみようと思って、中の紙を取り出しました。
おへんじありがとうございます。ぶんつう、ぜひしましょう。しつれんをされたのですね。さぞ、おつらかったことでしょう。わたしでよければ、おはなしききますよ。おへんじまっています。
あの黄ばんだ和紙に、こう書かれていました。全部ひらがななのが不思議でしたが、やはり字が酷く滲んでいますから、画数の少ないものを選んで潰れないようにしていたんだと思います。この手紙を読んだ時、なんだか心が軽くなったような気がしました。もちろん、変な陰謀じゃあなさそうだって安心感もありましたよ。でも気軽に愚痴をこぼせるような仲間もいませんでしたから、初めてまともに話を聞いてもらえたようで、嬉しかったんです。偶然の恐ろしさなんて、些細なことのように思えました。むしろ、海流ってやつの影響で上手いこと流れ着いてるんだろうな、なんて考えていました。
僕はまた返事を書きました。恥ずかしいので具体的には言いませんが、別れた彼女とのことを、より詳しく。今回は少し沖の方へ押し出すような感じで、小瓶を流しました。小瓶はその日もまた、あっという間に水平線に吸い込まれていきました。
この日を境に、僕は休みの日を使ってボトルメールを探しに行きました。雨の日でも、風の日でも、海が荒れていても。そうすると決まってあの場所に、小瓶が落ちているんです。初めはまだ偶然を疑う気持ちもありましたが、やり取りをするうちに、全く気にならなくなりました。お互い名乗りはしなかったけれど、何度も、何度も何度もやり取りをしましたから。僕の仕事のこと、趣味のこと、昔の失敗や、将来のこと。彼女は本当に楽しそうに、僕の話を聞いてくれました。でも、彼女自身の話は全くしてくれませんでした。僕は不思議に思って、ある時彼女に聞いてみたんです。
いつも僕の話ばかりで、申し訳ない。君は楽しそうに聞いてくれるけれど、君の話しも聞きたいな。何が好きで、どんな仕事をしてるのか。
わたしは、このうみがすきです。ここにはみんながいて、さびしくないし、あなたともおはなしできるから。おしごとはしていないの。わたしには、できないことだから。
これ以上のことは、何を聞いても教えてもらえませんでした。おそらく、漁師の娘か何かなのでしょう。病弱で海を眺めることしかできないから、あまり世間を知らない。それでも、気立ての良い子なのだと。
実際、彼女とのやりとりは本当に穏やかなものでした。彼女は携帯電話もパソコンも持っていないようで、ボトルメールでしか連絡が取れません。
僕は早く返事が欲しくて、休みの日だけ見に行っていたのが、次第に一日、二日と短くなって、遂には毎日この浜に来ていました。
この頃には、何だか強迫観念に近しいような情動が、僕の心を圧えつけている気がしました。ボトルメールはいつ来ても、同じ場所にありました。小瓶の色、コルクの状態、中の和紙に至るまで、全く、同じ姿で。
それでも、そこに彼女がいないから。僕の胸は段々と締めつけられていったんです。そして、ある日限界が来ました。
僕、どうしても貴女に会いたいです。無理を言っていることは、わかってます。お互い何処に住んでいるかも、それ以前に名前も知らないのに。でも、もう無理です。会いたいんです。僕の名前と、住所を書いておきます。貴女が良ければ、いつでも訪ねて下さい。
八月の、よく晴れた日でした。僕は慣れた手つきで瓶にコルクを詰めて、浅瀬から海に流しました。途中波に揉まれて見えなくなってからも、僕は突っ立って、遠くを眺めていました。
こつっ。
革靴に何かが当たりました。硬い感触。何か小さな瓶のような——僕が視線を落とすと、そこには見慣れたボトルメールがありました。
彼女からだ。
僕は丁寧にそれを拾い上げて、手紙を取り出しました。すぐに返事をくれるなんて、なんてマメな子だろう。そう思いました。
きょうのよる、そこにいてください。いっしょにいきましょう。
僕はその夜、いつもの場所に車を停めました。雲一つない夜空に浮かんだ青白い満月が、真野湾の輪郭をはっきりと映しています。胸壁を降りたところでは家族連れが花火をしていて、その暖かな光と談笑する声が、夜凪に浮かんでいるような気がしました。
僕はするりと横を抜けて、歩き始めました。押し引きする浅瀬の波は海蛍の青光によって朧に照らし出され、黒々とした夜海に導かれているような気がしました。
僕があの場所に向けて歩みを進めると、それに呼応するように、彼らの数も増えていきます。浅瀬から沖の方へ、まるで煌びやかな化粧をするかのように、海は青く輝き出しました。
目的地に着く頃には、視界全てが星空になったような、そんな錯覚を起こすほどでした。
僕は彼女を待つために、いつもの日陰に腰を下ろしました。月光を遮る海食崖の縁が、向こうへの出立を阻む黒い門のように見えました。
パシャンッ。
耳元で、水音がしました。
あぁ、彼女が来る。
僕はゆらゆらと立ち上がりました。
海の向こうに無数の水海月が浮かび上がって、海蛍と一緒に青い絨毯を敷いています。それがこちらに向かって伸び始めると、微かに揺らいだ夜闇から彼女が現れて、此方に歩き始めました。
彼女の顔は見えず、纏うワンピースのような蒼い衣と月光だけが、その肢体を浮かび上がらせています。舞いながら海面を滑るように進むその足取りは踊り子のように流麗で、靡いた長髪が僕を誘うようでした。
僕が夜海に向けて歩き始めると、水海月たちが歓迎するように、道を作ってくれます。いつの間にか大小の魚たちも海面から顔を出していて、僕を祝福しているようでした。
太腿が半分ほど海に呑まれた頃、僕と彼女は対面しました。
彼女の蒼く光る双眸は天蓋のような睫毛に守られ、下に連なる鼻筋は名刀の反りの如く、唇は扇情的なまでの肉厚で。兎に角、物凄い美貌でした。
僕が驚いて身を強張らせていると、彼女は優しく微笑んで、くるりと水面を回って見せました。ふわりとした裾が凪いで、目が眩むほど美しかったことを覚えています。
僕は震える声で、彼女に話しかけました。
初めまして、会えて嬉しいよ。……一緒に行こう。行かせてほしい。
僕がそう告げると、彼女はにっこりと微笑んで、少女のような顔になりました。
僕が左手を差し出すと、彼女のすらりとした腕が伸びてきます。その瞬間、全身が激しく震えるのを感じました。
……もしかしたら、それまでもずっと震えていたのかもしれませんね。背筋は凍り、涙が溢れてきました。
……でも、駄目です。僕は彼女を美しいと思ってしまいました。それで、お終いなんです。
彼女の指が、掌が、僕の左腕に巻きついて——あまりの冷たさと痛みに、僕は悲鳴を上げてしまいました。身体の中から何かが引っ張り出されてしまうような、そんな激しい感覚でした。
反射で彼女の腕を振り解いて、真っ青に染まった海に尻餅をつきます。激しい吐き気と朦朧とする意識の中で、彼女の顔から愛情や期待が消えていくのを感じました。代わりに酷く冷たい、激しい怒りを湛えて。
彼女は踵を返して、沖の方に歩いていきました。いつの間にか海蛍や水海月、魚たちも、初めから居なかったかの様に、霧散していました。
……ーい、おーい。大丈夫かぁ
浜の方から、僕を呼ぶ声が聞こえます。返事をする体力も、気力も、残ってはいませんでしたが。しばらくすると救急車が来て、僕を担架に乗せました。この先の記憶はありません。夏だというのに低体温症になっていたらしく、幾重にも毛布を巻き付けられ、搬送されたそうです。
***
彼女が何処へ行ってしまったのか、彼女が何なのか、僕には分かりません。でも、消えないんです。彼女への気持ちも、あの時の海の美しさも、燻り続ける後悔の念も。
……あの時の痕、見ますか?ほら、腕に綺麗な赤い手形が残ってる。お医者さんからは手術をしないと一生消えないって言われました。そんなこと、するわけないですが。
もう、彼女は僕の前に現れないでしょう。手紙の入った小瓶を見つけることも、もう無いのでしょう。この海があの時以上に美しく見えることも、もう、二度と無いのでしょう。
それでも、それでも僕は。
きっと僕は死ぬ日まで、ここで彼女を探します。
了
星海の夜 憂類 @yurung13
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