我が愛しき黒光り

鵠 理世

我が愛しき黒光り

 —幼年期—

 

 “それ”に関して原体験と呼べるものがあるとしたら、小学一、二年生の時だろう。


 そのころ僕にはジャイアンのような友達と、スネ夫のような友達がいた。二人目を仮にスネ夫と呼ぶ。


 学校の帰り道。一度だけお邪魔したスネ夫のお宅は、近所の住宅地でもそれなりに立派だった。

 夏休みに行ったという映画のパンフをパラパラと、何冊か自慢されたことは覚えている。


 けれど僕が目を奪われたのは、人形であふれたおもちゃ箱。その中の一つ。


 異形のソフビだった。


 色は黒か青、異常に突き出した後頭部。

 口の中から不気味に飛び出した、第二の口。


 一目見てわかったのは「こいつは只者じゃない」ということだった。


「貸す? ちゃんと返してくれるならいいよ」


 七つの僕に、そのアイテムは魅力的過ぎて。


 だけど、お母さんになんて言おう。

 日の傾いた家路。揺れるランドセルにそいつを忍ばせながら、幼い僕はそんな心配でいっぱいだったと思う。


 締め切った子供部屋、そいつが顔を出す。


 飛び出した口の先には小さな穴。水鉄砲になってるんだとか。

 だけど人形は借り物で、お風呂場に持ち込むには、なんとなく気が引けて。ちゅーっと飛び出す水勢だけを、僕は想像することにした。


 あれは結局、お母さんに見つかってすぐに返したんだっけ。



 —少年期—


 ゴールデン洋画劇場、日曜洋画劇場……家族団欒で楽しむ洋画の黄金時代。

 途中まで観たら、良い子は寝る時間だ。


 そして周期的に訪れた、“それ”との邂逅。

 今じゃお茶の間では流せない数々の名場面。もしかしたら録画だったかもしれないけど、よく覚えている。


 一度目、あれが腹を食い破って現れた。CM。子供は寝る時間。


 二度目、暴走したアンドロイドが燃やされて溶け崩れる。CM。前回よりは進んだけど、子供はもう寝る時間。


 三度目。脱出した母船が自爆システムの光に包まれた。最後まで見たかは覚えていない。


 CMが明けるたび画面に現れる、カタカナのロゴ。丸みを帯びたその独特のフォントが、妖しくて、忘れられなくて。

 とにかく不気味さと、ショッキングなシーンだけが、少年時代を駆け抜けてなお僕の脳裏にこびりついていた。



 —青年期—


 大人になった僕は、初めからそうなると決まっていたかのように——すっかり洋画の世界に魅せられていた。


 映画は監督で追う。リドリー・スコットは偉大だ。

 『グラディエーター』『ブレードランナー』『ブラックホーク・ダウン』……ジャンル史に刻まれる大傑作が、24インチの液晶の世界で次々に咆哮した。


 そして、どうして忘れていたんだろう。僕は再び“それ”と出会う。

 かつて両親の影からクッションを抱えて目撃した、その光景。「もう寝なさい」のその先へ、とうとう僕はフィルムのコマを走らせた。


 グッズはすぐに増えた。

 ちゃちなソフビとはワケが違う。何千、何万円もする精密な立体物が、まるで何かを埋め合わせるように僕の棚と心を満たしていった。


 一度見たら忘れない、機械的で醜悪な美しいその姿。それもそのはず。

 二十世紀スイスを代表するシュルレアリスム作家、ハンス・リューディ・ギーガーが手がけた入魂のデザイン。彼自ら造形にも加わったその異形。

 1979年。宇宙生物の概念に革命をもたらした、完全なる有機体。その存在自体が一つの物語。



 それこそが、僕が愛してやまないクリーチャー。その第一作。


 “ALIEN”


 という単語は、本来「異邦人」の意味。そして「異星人」としての意味を決定的にしたのが、この映画だった。


 そのSFホラーの金字塔はすぐにナンバリングを重ね、シリーズは巨匠たちの実験場になった。キャメロンが戦場に放ち、フィンチャーが監獄に閉ざし、ジュネが祝祭へと昇華させた。

 どの解釈も鮮烈で、だが僕の心を掴んでいたのは常に——黒く蠢くその異形だった。



 そして満を辞しての新作がやってきた。僕は銀幕で対峙した。

 初代監督・リドリー・スコット自らメガホンを取ったその前日譚シリーズは——大コケした。


 丁寧に設えた星間航行SFのワクワク感と、独創的な舞台美術を——やはり贅沢に血で染め、台無しにする。

 ただそれだけだ。あまりにワンパターン。生身の惑星探査、挙句に寄生される宇宙船クルーの無警戒さは、滑稽ですらあった。

 過去作からの唯一の変化「人間という創造主へ挑もうとするアンドロイド」のテーマは、苛烈で野心的だった。けれど作品の軸を大きく揺らしていた。


 そして僕は、その不出来いびつさにさえ心酔した。



 —現在—


 例の三部作は第二作で頓挫したが、どうやら奴は何度でも蘇るみたいだ。


 時を経て、ハイクオリティな新作は次々と生まれている。

 “1”と“2”のミッシングリンクへ差し込まれた続編。それは新進気鋭のホラー監督が紡いだ、優等生的だけど原典へのラブレターのような一本だった。

 この夏始まったばかりのドラマシリーズは、宇宙船という密閉空間スリラーとしてのフォーマットを舞台を地球へと広げている。



 だけど、満たされ続ける心の奥底で、一つの空洞が静かに膨らんでいる。



 4K HDR化した円盤は、大画面で擦り切れるほど流した。関連書籍は読み漁り、メイキング本はページの糊付けが剥がれ落ちた。フィギュアはケースに所狭しとひしめいて、何体かは壁にかかったブリスターのパッケージで息を潜めている。


 「一体あれは何だったんだ」という子供の頃の違和感は、いつしか「この作品に関しては俺オタクだよ」という肥大化したプライドが踏み潰していった。


 それでも、僕はそれを追うことをやめていない。これからも、やめられないだろう。



 —エピローグ—


 もしかすると、結局のところ僕が追い求めているのは作品そのものではなくて……欲しても、もう二度とは戻らない体験思い出の幻影なのかもしれない。


 それはブラウン管の向こう、子供部屋へ帰されたあとも続くロマン。

 まだ「何かを知ろうとしても、できなかった」頃の、眩いばかりの“未知”と“無知”。



 正体不明だった一体のソフビ人形は、今も記憶の宝箱。

 その奥で、ひときわ黒く、ぬめった輝きを放っている。



 <リプリー、通信終了>




■ 作品データ

『エイリアン』(1979年)— 監督:リドリー・スコット

『エイリアン2』(1986年)— 監督:ジェームズ・キャメロン

『エイリアン3』(1992年)— 監督:デヴィッド・フィンチャー

『エイリアン4』(1997年)— 監督:ジャン=ピエール・ジュネ

『プロメテウス』(2012年)— 監督:リドリー・スコット

『エイリアン: コヴェナント』(2017年)— 監督:リドリー・スコット

『エイリアン:ロムルス』(2024年)— 監督:フェデ・アルバレス

『エイリアン:アース』(2025年)— ショーランナー/製作総指揮:ノア・ホーリー(シリーズのため各話監督は複数)

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