ガラスの壁

火曜日の朝、俺は蓮よりも先に目を覚ました。

昨夜、感情をぶつけてしまった気まずさから、蓮の顔をまともに見ることができなかった。俺は蓮が起き出す前に身支度を済ませると、書き置きだけを残して早々に部屋を出た。


『食料は冷蔵庫。チンして食え。』


まるで、ペットに餌を与える飼い主のようだ。自嘲的な笑みが、乾いた唇から漏れる。


会社へ向かう足取りは、昨日よりもさらに重かった。

一度綻びてしまった日常の仮面は、もはや元の形には戻らない。オフィスにいる間中、俺は常に誰かの視線に晒されているような、針の筵に座っているような心地だった。


電話が鳴るたびに、心臓が跳ねる。

部長に声をかけられるだけで、冷や汗が背中を伝う。

同僚の美咲さんが「橘さん、やっぱり元気ないですよ。今日のランチ、付き合いますから、何か悩みがあったら話してくださいね」と気遣ってくれる。その優しさですら、俺にとっては恐ろしい罠のように思えた。


「……ごめん、今日はちょっと、食欲なくて」


そう言って断るのが精一杯だった。本当は、誰かと一緒に食事をするのが怖かった。何気ない会話の中で、俺がボロを出してしまわないとも限らない。


昼休み、俺は一人、会社の屋上へ続く階段の踊り場で、コンビニで買ったパンを喉に詰め込んだ。

ガラス窓の向こうには、オフィスビルが立ち並ぶ、見慣れた都会の風景が広がっている。人々が忙しそうに行き交い、車がひっきりなしに流れていく。

ほんの数日前まで、俺もあの風景の一部だった。

だが今は、分厚いガラスの壁一枚を隔てて、まったく違う世界にいるようだった。あちら側は『日常』で、こちら側は『非日常』。もう、二度とあちら側には戻れない。


その時だった。

ポケットの中のスマホが、短く震えた。

ニュース速報の通知だ。嫌な予感が、背筋を駆け上がる。


俺は震える指で、スマホのロックを解除した。画面に表示された見出しに、俺は息を呑む。


『新宿区男性殺人事件、警視庁が捜査本部を設置。被害者の身元判明、交友関係を中心に捜査へ』


心臓が、ドクン、ドクンと嫌な音を立て始める。

被害者の身元が、割れた。

交友関係を洗うということは、いずれ、蓮の存在に辿り着くということだ。そして、蓮と繋がりのある人間として、俺の名前が浮上するのも、時間の問題かもしれない。


「……っ」


吐き気がこみ上げ、俺はその場にうずくまった。

どうする。

どうすればいい。

蓮を、警察に突き出すか? 今からでも、自首させるべきか?


いや、だめだ。

俺はもう、共犯者なんだ。蓮を匿い、証拠隠滅に加担した。今更、知らなかったでは済まされない。


俺たちが助かる道は、もうどこにもない。

あるのは、破滅までの、わずかな猶予だけだ。


その日の午後、俺がどうやって仕事を乗り切ったのか、まったく覚えていない。

ただ、時間が過ぎるのを、嵐が過ぎ去るのを待つように、デスクの椅子の上で息を潜めていただけだった。


定時になり、会社を飛び出す。

一刻も早く、部屋に戻らなければ。蓮に、このことを伝えなければ。


アパートのドアを開けると、部屋は薄暗かった。蓮はソファの上で、相変わらず膝を抱えて座っていた。


「……蓮」


俺の声は、自分でも驚くほどかすれていた。


「……ニュース、見たか」

「……いや」


蓮は力なくかぶりを振る。俺に怒鳴られた昨夜の一件以来、彼はテレビもスマホも、一切触っていないようだった。


俺は、スマホの画面を蓮に見せつけた。


「……被害者の身元が割れた。警察は、お前の周りを嗅ぎまわるぞ。時間の問題だ」


蓮は、画面の文字を食い入るように見つめている。その表情は、暗くてよく読み取れない。


「……どうするんだよ」


俺の問いに、蓮はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと顔を上げると、俺の目をまっすぐに見て、言った。


「……拓也」

「……なんだよ」

「……ありがとうな」


は?

ありがとう?

何を言っているんだ、こいつは。


「……ふざけるな! 礼を言ってる場合か! 俺たちはもう、終わりなんだぞ!」

「……分かってる」


蓮は、静かに頷いた。


「……でも、俺は、お前がいてくれてよかった」


その瞳は、不思議なほど穏やかだった。まるで、全てを諦め、受け入れたかのような。

その覚悟を決めたような目に、俺は気圧され、何も言えなくなってしまう。


「……腹、減っただろ」


蓮は、ゆっくりとソファから立ち上がった。そして、俺が朝に残した書き置きを手に取ると、キッチンへ向かう。


「……俺が、何か作るよ。拓也は、座ってて」


その言葉に、俺はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

昨日まで、置物のように動かなかった男が。俺が与える食事を、ただ待っているだけだった男が。

今、俺のために、食事を作ろうとしている。


この閉鎖された世界で、俺たちの歪んだ関係性が、また少し、形を変えようとしていた。

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俺が殺人犯の親友を匿って、共犯者になった話 境界セン @boundary_line

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