母の糸

糸を通すとき、指が少し震える。

針の穴は小さく、灯が弱い。

それでも私は、夜になると針箱を開ける。

もう袖を縫う人はいないのに。


あの日から、家は静まり返った。

戸口の音が鳴った瞬間のことを、何度も思い出す。

私が袖をつまみ、すぐに離した、その短い間の温度。

糸の結び目はまだ固く、娘の匂いがした。


あの日、村の広場には行かなかった。

鐘の音を聞いただけで、足が動かなくなった。

人の波の中で娘を見送るくらいなら、

針の先で自分を刺していたほうが、まだ現実を感じられた。


夜が来るたび、私は糸を結び直した。

焦げた布の欠片に、白い糸を通す。

糸が擦れる音が、息をするように響く。

何を縫っているのか、自分でもわからない。

ただ、糸を結んでいれば、あの子の名前を呼ばずに済む。


冬が過ぎ、雪が溶けるころ、

村を出る書記が訪ねてきた。

彼は紙の束を抱えており、何かを言いかけて黙った。

机の上に一枚の紙を置いていった。

そこには、私の娘の名が書かれていた。

だがその下に、細い筆で小さな文字が添えられていた。

「この記録は、神ではなく人が書いた」と。


その言葉を見たとき、私は初めて針を置いた。

糸が机の上で丸くなり、息をしているように見えた。

娘の袖をほどき、新しい布に縫い合わせる。

糸を結び、指で押さえる。

結び目が光を受け、白く揺れる。


私は祈る。

神ではなく、糸に向かって。

ほどけずに残ったものたちが、

誰かの手に触れたとき、また優しく結ばれるようにと。


外では風が鳴る。

遠くで子どもの笑い声がする。

その声の高さが、あの子の幼い頃に似ていて、

胸の奥が少し温かくなる。


針を箱に戻す。

灯を消す。

闇の中で、糸だけが微かに光って見える。

まるで、まだ縫い終えていない言葉が、

そこに静かに息をしているようだった。

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袖の結び目 彼辞(ひじ) @PQTY

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