後編



「マリ先生、私もいつか先生みたいに歌えるようになりますか?」


七歳の優花が上目遣いでマリを見上げた。その瞳には純粋な憧れが宿っている。


「優花ちゃんの歌声は、もう十分素敵よ」マリは膝をついて目線を合わせた。「大切なのは、自分の心の声を聞くこと」


音楽教室を始めて十年。マリの元には様々な子供たちがやってきた。プロを目指す子、ただ歌が好きな子、親に無理やり連れてこられた子。それぞれが異なる理由で音楽と向き合っていた。


優花は三年前から通っている生徒の一人だった。最初は恥ずかしがって声も出せなかったが、今では教室で一番大きな声で歌う子になっていた。


「先生の歌を聞いていると、なんだか泣きたくなります」優花は不思議そうに首をかしげた。「でも悲しくないんです。なんでかな?」


マリは微笑んだ。この子は音楽の本質を直感的に理解している。


「それはね、歌には人の心を動かす不思議な力があるからよ。優花ちゃんもそれを感じ取っているのね」




一方、高校生の翔太は典型的な反抗期の生徒だった。


「こんな古臭い歌、誰が聞くんですか」


翔太は腕を組んで椅子にもたれかかった。母親に無理やり連れてこられた彼は、最初からやる気を見せなかった。


「古臭いかどうかは、歌ってみないと分からないでしょう?」マリは動じなかった。


「僕はロックがやりたいんです。J-POPとかクラシックとか、ダサいんですよ」


マリは翔太の前でギターを手に取った。そして、激しいロックのリフを弾き始めた。翔太の目が見開かれる。


「音楽に境界線なんてないのよ。ロックにだって魂がある。でも、基礎がなければその魂を表現することはできない」


その日から、翔太の態度は少しずつ変わっていった。マリが様々なジャンルの音楽を自在に操る姿を見て、彼女への敬意を抱くようになった。




大学生の美咲は、音楽の道を諦めかけていた。


音楽大学に通いながらも、周りとの才能の差に打ちのめされ、自信を失っていた。マリの教室に来たのも、最後の砦のような気持ちだった。


「私には才能がないんです」美咲は最初のレッスンで涙を流した。「みんなすごくて、私だけ取り残されて...」


「才能って何かしら?」マリは静かに問いかけた。


「技術力とか、音感とか、表現力とか...」


「それも大切ね。でも一番大切なのは、音楽を愛する心よ。あなたにはそれがある」


マリは美咲に自分の過去を話した。操り人形だった時代のこと、すべてを失って一からやり直したこと、そして今ここにいることの意味。


「私も何度も諦めそうになった。でも、歌うことをやめられなかった。それが私の答えよ」


美咲の目に、再び光が戻り始めた。




三年後、マリの生徒たちはそれぞれの道を歩んでいた。


優花は小学校の合唱コンクールで指揮者を務め、クラスメイトたちに歌の楽しさを伝えていた。彼女の指導で歌うクラスの歌声は、聞く人の心を温かくした。


翔太は高校でバンドを組み、ライブハウスで演奏していた。彼の歌には確かな技術に裏打ちされた情熱があった。マリに学んだ基礎が、彼のロックに深みを与えていた。


美咲は音楽療法士を目指すことにした。病院や介護施設で歌い、音楽の持つ癒しの力を人々に届けたいと考えるようになった。




ある日、マリの元に一通の手紙が届いた。


『マリ先生


私は今、北海道の小さな町で音楽教室を開いています。先生に教わったことを、今度は私が子供たちに伝えています。


先生が教えてくださったのは、歌の技術だけではありませんでした。自分の心に正直であること、音楽を通じて人とつながること、そして何より、自分らしく生きることの大切さでした。


私の生徒の一人に、先生にそっくりな子がいます。最初は人形のように無表情でしたが、歌を通じて少しずつ自分を取り戻しています。


先生に出会って、私は本当の歌を知りました。そして今、その歌を次の世代に受け継いでいます。


美咲』


マリは手紙を胸に抱いた。目尻に涙が浮かんでいた。




教室の壁には、卒業した生徒たちからの写真や手紙が貼られている。それぞれが違う場所で、違う形で音楽と関わりながら生きている。


新しい生徒たちが今日もやってきて、「るらりらら」と小さく歌っている。マリが作った歌は、彼女の知らないところで歌い継がれ、新しい意味を持ち始めている。


優花は今、中学生になって合唱部の部長として後輩を指導している。翔太は音楽の専門学校に進学し、将来は音楽プロデューサーになりたいと言っている。美咲は自分の教室で、かつての自分のように悩む若者たちを支えている。


そして、その生徒たちがまた新しい誰かに歌を伝えていく。


マリは窓の外を見つめながら思った。人形の糸を切って自由になった自分が紡いだ新しい糸は、今度は人と人をつなぐ糸になっている。それは操り人形を作る糸ではなく、互いを支え合う絆の糸だった。


「歌は続いていくのね」


マリは小さくつぶやき、新しい一日のレッスンを始める準備をした。今日もまた、音楽を愛する心を持った誰かが扉を開けて入ってくるだろう。


そして物語は続いていく。歌とともに。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

掌編小説「糸繰りの人形」 マスターボヌール @bonuruoboro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ