最終話
町外れに差しかかると、舗装は途切れ、砂利道に変わる。
そこから先は街灯もなく、ポケットライトの光だけが頼りだった。
やがて視界の奥に、懐かしい屋根の線が浮かび上がる。祖父が建てた木造の家。
玄関の戸は、映像と同じく古びたままだった。祖父が打った飾り釘も、剥がれかけたお札も、そのまま残っている。
──雨は降っていないのに、屋根のどこかから雫の落ちる音がした。ポタリ、ポタリと、一定の間隔で。
亮介はライトを消し、暗闇の中で耳を澄ます。音は玄関の奥から響いていた。まるで、誰かが中で濡れた衣服を絞っているように。
戸口まで歩を進めた瞬間、左足に微かな沈み込みを感じた。あの映像と同じ感覚。呼吸が乱れ、膝がわずかに震える。
そして気づく──玄関の隙間から漏れる光が、二十年前と同じ色だ。温かいようでいて、不自然に黄色く濁った光。
「……まだ、そこにいるの?」
声は、戸の向こうからではなく、自分の背後から聞こえた。
振り返ると、暗闇の中に人影があった。顔は見えない。ただ、その視線だけが、確かに自分を見ている。
ライトを点けた瞬間、そこには誰もいなかった。
しかし足元の砂利には、もう一つの足跡がくっきりと残っていた──左足だけ、深く沈み込んだ跡が。
戸の前で立ち止まり、亮介は深く息を吸った。湿った木の匂いに混じって、かすかに焦げた臭いがする。二十年前の火事の夜、あの現場で嗅いだのと同じ匂いだ。
指先で戸を押すと、抵抗なくスライドし、内側の暗がりが口を開けた。
そこは、映像と寸分違わぬ玄関だった。土間の左手には古い下駄箱、右手の傘立てには、母が使っていた柄の欠けた傘が立てかけられている。
天井からは例の風鈴が下がり、揺れるたびに鈍く低い音を鳴らした。映像では高く澄んだ音だったのに、現実では金属が擦れるような濁った響きに変わっている。
亮介が一歩踏み入れると、足元の泥がぬかるみのように沈んだ。瞬間、視界がぐらりと揺れ、モニター越しに見た映像と完全に重なった。
──低い位置から見上げる天井。
──視界の端に揺れる風鈴。
──左足にかかる重い感覚。
奥の廊下に、人影が立っていた。背丈は自分と同じくらいだが、輪郭がぼやけ、顔の部分が黒い空洞になっている。
その影がゆっくりと首を傾けた瞬間、亮介の左足も同じ方向へと傾いた。
「……お前、俺か?」
問いかける声は自分の口から出たはずなのに、耳に届く響きは別人のものだった。
影は答えず、廊下の奥へと背を向けた。その足取りが、二十年前の自分の歩き方とまったく同じだと気づいたとき、亮介の背筋を冷たい汗が伝った。
彼は吸い寄せられるように廊下を進む。壁に掛けられた家族写真が一枚、また一枚と通り過ぎるたび、写っている人物の顔が徐々に空白に変わっていく。
最後の一枚には、幼い自分と兄の姿だけが残っていた──だが、兄の顔は黒い穴だった。
その瞬間、背後で戸が勢いよく閉まり、風鈴が大きく鳴り響いた。
現実の音と映像の音が、完全に一つになった。
廊下の奥へ進むたび、足音が二重に響いた。自分の靴底の音と、半拍遅れて追いかけてくるもう一つの足音。
その足音は、左足が床を踏むたびに深く、重く響いた。
突き当たりの襖が半分だけ開き、薄明かりが漏れている。
中を覗くと、六畳間の中央に影が立っていた。
顔は依然として空洞だが、肩の傾きや呼吸のリズムは、まるで鏡に映った自分を見ているようだった。
亮介の胸に、あの夜の記憶が滲み出す。
火事の夜、駆けつけた自分は確かに玄関の前に立っていた。兄の声が中から聞こえ、足が勝手に前へ出た──その瞬間、視界は暗転し、気づけば家の外にいた。
その間、自分は何をしていたのか……ずっと思い出せなかった。
影が一歩、こちらへ近づく。
その動きに合わせ、亮介の体も勝手に一歩下がった。
「……お前は誰だ」
声が震えた。返事はない。ただ、影はゆっくりと手を上げ、亮介の左肩に触れた。
瞬間、視界が切り替わった。
──兄の顔が目の前にあった。
幼い兄は濡れた髪を額に貼りつけ、何かを必死に訴えていた。だが、その声は炎の音にかき消され、言葉は届かない。
次の瞬間、兄の体が何かに引きずられるように後ろへ消え、視界は再び暗闇に沈んだ。
亮介は膝をつき、荒い息を吐いた。
影はすぐ目の前に立っている。黒い空洞の中で、微かな光が瞬いた──それは自分の瞳の色と同じだった。
「……俺は、お前だ」
影の声は低く、確かに自分と同じ響きだった。
風鈴が一度だけ鳴り、部屋の空気がぴたりと止まった。
その瞬間、亮介は理解した。
未放送映像の視界は、自分の記憶の中の“もう一人の自分”から送られてきている──ただし、それがなぜ今になって現れるのかは、まだ分からない。
影は一歩、また一歩と亮介に近づいてくる。
そのたびに、空気が重くなる。胸の奥が圧迫され、呼吸が浅くなる。
背後の襖が音もなく閉まり、六畳間は完全に外界から隔絶された。
「お前は……誰なんだ」
亮介の問いに、影は再び同じ言葉を返した。「俺は、お前だ」
だが今回は続きがあった。
「……お前が置き去りにした俺だ」
瞬間、視界が反転し、二十年前の夜が広がった。
──火事の中、兄が玄関の奥で手を伸ばしている。
亮介は必死に走ろうとしたが、何か冷たい手が肩を掴み、動きを止めた。
振り返ると、そこに“もう一人の自分”が立っていた。表情は無く、ただ静かに首を振っている。
次の瞬間、兄の姿は炎に呑まれた。
「俺はあの時、逃げたんじゃない……お前に止められたんだ」
影は低く告げた。「そして、お前はその記憶を閉じ込めた。俺と一緒にな」
記憶の中の光景が高速で切り替わる。
幼い頃から何度も見た奇妙な夢。玄関、濡れた足元、左足の沈み込み。
あれは夢ではなく、封じられた記憶の断片だった。
未放送映像は、その記憶を“外側”から撮っていた。
「なぜ今になって……」
亮介の問いに、影は玄関の方を指差す。
戸がゆっくり開き、そこに兄が立っていた。二十年前の姿のまま。
「お前に、伝える時が来たんだ」兄の声が部屋を満たす。
「俺は……火事で死んだんじゃない。誰かに閉じ込められたんだ。外に出られないまま、ずっとここにいた」
兄の目が玄関の外へ向く。
そこには、安藤と麻子が立っていた──はずだった。
だが、彼らの顔は真っ黒な空洞に変わり、まるで“別の何か”がそこにいるかのようだった。
亮介の頭に、稲妻のような理解が走る。
この映像、この視界、この記憶……すべては自分だけのものではなかった。
兄を閉じ込めた“何か”は、ずっとこの家にいて、そして今は自分の周囲にいる。
「……次は、お前の番だ」
兄の言葉と同時に、視界が真っ白に弾けた。
耳をつんざく風鈴の音が響き、意識が闇に沈む。
目を開けると、亮介は編集室の椅子に座っていた。モニターには再生を終えた映像の静止画──古い玄関の戸。
安藤と麻子が心配そうに覗き込んでいる。
「おい、大丈夫か? 急に意識が……」
亮介は頷きかけたが、その瞬間、胸の奥が冷たくなる。
二人の立ち位置、呼吸のリズム、そして左足にかかる重さ。──さっきまでの“影”と同じだった。
風鈴の音が、編集室のどこからか鳴った。
数日後。
亮介は局の編集室ではなく、自宅の小さな作業机に向かっていた。
あの夜の出来事を、できる限り正確にメモに書き留める。兄の声、影の感触、玄関の光──忘れないために。
ふと、デスク脇の棚に置いた段ボール箱が目に入った。引っ越し以来開けていなかった、古い実家からの荷物だ。
何気なく蓋を開けると、底の方から風鈴が出てきた。
金属の表面は錆びつき、短冊は色褪せている。それでも揺らせば、あの低い音が鳴る気がした。
机に置いた瞬間、スマホが震えた。
画面には、見覚えのない送信者からのメッセージ。添付された動画ファイルのサムネイルには──自分の背中が映っていた。
それは今この瞬間、机に向かう自分の姿だった。
そして、映像の中の自分の後ろで、黒い影がゆっくりと首を傾けていた。
了
未来を映すフィルム 山猫家店主 @YAMANEKOYA
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