第6話
局の屋上喫煙所は、夜風が湿っていた。灰皿の横には雨水が溜まり、街の灯が滲んで揺れている。
亮介はライターを指で弄びながら、火をつけるでもなく煙草を唇に挟んでいた。麻子は隣で缶コーヒーを開け、缶の縁に口をつけたまま沈黙している。
眼下の道路をタクシーが通り過ぎるたび、ヘッドライトが二人の顔を淡く照らし、すぐに闇に戻す。
「三浦さん、あの火事の夜……覚えてますか?」
麻子の声は、風の音に溶けるように低かった。
亮介は小さく頷いたが、その記憶は輪郭が曖昧だった。火の手を上げる木造家屋、焦げた匂い、泣き叫ぶ女の声。
だが、現場に着いてから撮影を始めるまでの数分間が、真っ黒に抜け落ちている。
「現場にいた他のカメラマンは、あなたが門の前でずっと立ってたって言ってました」
「……立ってた?」
「はい、動きもせず、玄関を見上げて……まるで何かを待ってるみたいに」
亮介の耳の奥で、あの風鈴の音が鳴った気がした。昨夜の映像の、あの揺れ。胸の奥がざわつく。
彼は煙草をポケットに押し込み、柵越しに街を見下ろした。信号機の赤が、ガラス越しに滲み、目の奥で小さな光の粒となって脈打つ。
──気づくと、足元に水溜まりが広がっていた。
舗道に映るのは、今の自分の姿ではない。肩から古いVHSカメラを提げ、濡れたコートの裾を引きずる若い自分。
視界は低く、歩幅は狭く、左足に重心をかけながら進んでいく。
その足取りは、未放送映像の“視界”と同じだった。
「……三浦さん?」麻子の声が現実に引き戻す。
亮介は返事をせず、ポケットの中のスマホを握った。震えも着信音もないのに、手のひらにかすかな振動が残っている。
まるで自分の中の別の誰かが、そこから外を覗いているかのように。
安藤からのメッセージは簡潔だった。
「新しい映像が来た。場所は……お前の実家だ」
亮介の呼吸が止まった。
脳裏に、二十年前の雨の夜が蘇る。父の叫び声、開け放たれた玄関、そして記憶の途切れ。その空白の中で、自分は──何を見ていた?
編集室の照明は落とされ、モニターの青白い光だけが室内を満たしていた。安藤が椅子を回転させ、亮介と麻子に手招きする。
「来たのは……これだ」
机の上には、局の正式ルートを通っていない外部ストレージ。送信経路はやはり不明。安藤が再生ボタンを押すと、画面はすぐに暗闇から始まった。
低い位置から見上げる古い木造の玄関。湿った木の匂いが漂ってくるような気がする。戸の表面に貼られたお札は端が剥がれ、風にかすかに震えていた。
──そこは、間違いなく亮介の実家だった。
彼は息を呑んだ。塗り直される前の玄関、祖父が打った飾り釘の位置まで覚えている。
雨が静かに降り始め、瓦を打つ音が映像の中で膨らんでいく。
カメラはゆっくりと前進し、戸口のすぐ前で止まった。木の隙間から、淡い光が漏れている。
次の瞬間、内側からカチリと鍵の外れる音。戸がわずかに開き、暗闇の奥に白い影が立っていた。
それは、幼い頃に亡くなったはずの兄だった。
頬は青白く、唇はわずかに開き、何かを言いかけたように見えたが、音は届かない。視線だけが、まっすぐこちらを射抜いている。
亮介は画面に手を伸ばした。指先がガラスに触れた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
気づけば、自分は映像の中に立っていた。足元の泥、雨で重くなったシャツ、そして左足にかかる鈍い痛み。
玄関の奥から、兄の声が聞こえる。
「……まだ、そこにいるの?」
その声は、二十年前に途切れた記憶の闇をこじ開けるようだった。
「三浦!」
背中を叩かれて我に返ると、そこは再び編集室だった。モニターには静止画となった玄関が映り、安藤と麻子が不安げにこちらを見ている。
「今……兄の声が……」亮介の言葉は、喉の奥でかすれた。
「音声は入ってなかった」安藤が首を振る。
「最初から最後まで、雨の音だけだ」
だが亮介には確信があった。あれは幻聴ではない。
あの夜、玄関の前で自分が見ていたもの──そして未放送映像が映しているもの──は、同じだった。
夜行バスを降りた瞬間、肌にまとわりつく湿気が濃くなった。
夏の終わり、山あいの町は都会よりも夜が深い。街灯は国道沿いに点々とあるだけで、一本路地を入れば闇が支配する。
亮介はカメラバッグを肩に掛け、薄暗い道を歩き出した。足元のアスファルトはまだ昼間の熱をわずかに残しているが、空気は冷え、遠くで虫の声が一斉に鳴いていた。
実家までは駅から二十分ほど。途中の商店街は、半分以上がシャッターを下ろし、古い看板の文字は色褪せて判別しにくい。
肉屋のショーウィンドウに貼られたポスターが風に揺れ、そのリズムが一瞬、未放送映像の風鈴と重なった。
背筋をひやりと冷たいものが走る。
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