冷蔵庫の中の女

チャッキー

冷蔵庫の中の女



 冷蔵庫の唸る音だけが、部屋の空気を震わせていた。

 その音が、いつから鳴っていたのか、彼には思い出せなかった。


「おい……勝手に入るぞ」


 声がして、ドアが軋みながら開いた。

 乾いた音を立てて、誰かが靴のまま部屋に踏み込んでくる。

 男は、奥のソファに座ったまま微動だにせず、ただそちらをじっと見た。


「……おまえか」


 やって来たのは、かつての知人だった。

 やけに細い影。左手にレジ袋。中身は、コンビニで買ってきた缶ビールと、つまらなそうな総菜。

 何より、開け放たれたドアの向こうには、人の気配がまったくなかった。


「久しぶりだな。こんなとこで何してやがる」


 そう言って、知人は部屋の中央まで歩いてきた。

 埃っぽい空気をかき分けるようにして、古びたテーブルの前に座る。

 ソファに座る男と、向かい合うように。


 返事はなかった。

 男はただ、煙草を取り出して火をつける。

 灰皿の中には、何本もの吸い殻。けれど、煙はなぜか、空中で消えるように薄く、重さがなかった。


「また……やってんのか、こういうの」


 知人は笑った。

 笑ったが、その目は笑っていなかった。


 部屋には、妙なものがいくつかあった。

 古い冷蔵庫がひとつ。電源コードは、確かにコンセントに刺さっているのに、ランプは点いていない。

 壁にかけられた時計は、午後三時十三分のまま止まっていた。

 そして、部屋の空気は、季節に合わずやけに冷たい。


「なあ、おまえ……この部屋、誰のだ?」


 知人がふと尋ねる。

 男は答えない。

 煙草の火を見つめたまま、じっとしている。


「……なあ」


 再び、問いかける声。

 だが男は、今度も口を開かない。

 ただ、視線だけが、ゆっくりと知人の目を見据えた。


 その視線に、知人が息を呑む。

 凍りついたように動きを止めた。


「……冗談だろ。なあ、マジで……」


 部屋のどこかで、「コトン」と氷の落ちる音がした。

 冷蔵庫の中か、それとも――。


「お前さ、さっきから妙に黙ってるけど……何か思い出したか?」


Bが訊ねた。冷蔵庫の上に置いた手を、コン、と軽く叩きながら。


Aは座椅子に沈み込んだまま、視線だけをゆっくりと彼に向けた。


「……いや。昔の話を、少し考えてただけだよ」


「へぇ、昔って?」


「大学の頃さ。ひとり暮らししてた部屋に、冷蔵庫があった。中古の、黄色っぽいやつ。やたら冷凍庫が強くて、氷が扉にこびりつくほどだった。……ふと思い出してね、あれも、こういう音がしてたなって」


Bは少し口角を上げた。「冷蔵庫の話か?」


「冷蔵庫の話だよ」


 部屋の空気が微かに揺れる。外からの音は、やはり聞こえない。

 時計の針は「8時12分」を指したまま、ピクリとも動かない。


「昔のことってのは、なぜか冷えて残るよな」とBは言った。「熱かったはずの思い出が、冷めてる。けど腐ってはいない。むしろ、冷たいまま保存されてるような」


「……詩人だな、お前」


「そうか?」


 沈黙。冷蔵庫が、グゥンと低いうなり声を上げる。


「なあ、A。お前、ほんとは思い出してるんじゃないか?」


「何をだよ」


「この部屋のことだよ」


 Aはゆっくりと息を吐いた。「……初めて来たと思ってた。でも、そうじゃない気がしてきた」


「だろ?」


「……冷蔵庫を見たときから、胸の奥がざわついてる。色とか、形とか。何か、知ってるはずなんだ」


 Bは冷蔵庫の前にしゃがみこみ、手のひらでその側面を撫でた。


「この冷蔵庫、捨てられなかったらしいよ。粗大ごみで出されかけたけど、何か不具合があって、収集車が持っていかなかった。それで……そのまま、処分屋の倉庫に眠ってたそうだ」


「誰がそんな話を?」


「誰が、って……まあ、俺が知ってたのさ」


 Aの眉がわずかに動いた。


「まるで、お前が冷蔵庫の歴史を全部見てたみたいな口ぶりだな」


「かもしれないな」とBは笑った。「俺さ、この冷蔵庫の中、覗いたことがある気がするんだよ」


 Aがわずかに身を乗り出す。「中を?」


「そう。……中には、何が入ってたと思う?」


 Aは答えない。


「ケチャップの染みがある。扉の内側、パッキンの隙間にこびりついた赤いの。けどな、あれ……本当にケチャップだったのかな?」


 Bの声は低く、ゆっくりと、冷蔵庫の音と溶け合っていった。


「なあ、A。あの日さ、お前、何を――」


 ゴン、と冷蔵庫の中で何かが落ちたような音がした。


 ふたりが同時に、扉のほうを振り向いた。


 中には、何も見えない。ただ、冷たい白い光が、わずかに揺れている。


「今、音がしたよな?」


Aの声がわずかに震えていた。

冷蔵庫の方を見つめたまま、口元だけが動いている。


「したな」

Bは立ち上がり、冷蔵庫の前までゆっくりと歩み寄った。

「……開けてみるか?」


「やめろ」


Aが即座に制止する。「……開けたら、何か、終わる気がする」


「何が?」


「わからない。けど、開けたらもう……戻れない」


 Bは立ち止まったまま、振り返った。その目は静かだ。

 まるで何かを知っている者の目。

 Aはそれを見て、またひとつ、嫌な予感が背筋を這うのを感じた。


「なあ、B。……お前、変じゃないか?」


「変?」


「俺がここに入ったときからずっと……妙に落ち着いてる。まるで、すべて知ってるみたいに」


「さあ、どうかな」


 Bはそう言うと、背後の冷蔵庫に手をかけた。

 小さな金属の取っ手が、彼の指に冷たく絡みつく。


「やめろって言ったろ!」


 Aが叫んだ瞬間――


 ガチャンッ!


 冷蔵庫の扉が、ゆっくりと開いた。


 冷気が、一気に部屋にあふれ出す。

 そして、その中から――


 ひとつの布切れが、床に滑り落ちた。

 白いワンピースの、切れ端だった。


「……これ……」

Aはそれを見下ろし、言葉を失った。


 その模様も、質感も、すべてを知っていた。

 それは――


「彼女の服だよ」


 Bの声が、背後から響いた。


「お前が――殺した、彼女の」


 Aは振り返り、Bの顔を見た。

 しかしそこには、もう「友人」の顔はなかった。

 彼の目は、深く、冷たく、そして――この世のものではなかった。


「……B。お前……」


「なあ、A。お前、覚えてるだろ?」


 Bはゆっくりと近づいてきた。

 冷蔵庫の奥では、なおも微かに何かが動いている音がする。


「彼女を殺して、バラして、この冷蔵庫に詰め込んだ。

 それでもまだ足りなくて、別の部屋に冷凍庫まで持ち出して――

 それが、ここだ」


「嘘だ……俺は……そんなこと……」


「でも、冷蔵庫は覚えてるよ」

Bは微笑んだ。「冷蔵庫は、全部、覚えてる」


 Aは頭を抱えた。

 脳裏に、何かが浮かびかけては、すぐに闇に沈んでいく。


「お前も、もうすぐ思い出すよ」

Bが囁いた。「……俺のことも」


「……え?」


 Bは少し笑った。そして、こう続けた。


「お前が殺したのは、彼女だけじゃない。……俺もだ」


 沈黙。

 冷蔵庫の中から、また音がする。

 ギシ……ギシ……と、何かがゆっくりと動くような音。


「けどな、A」

Bはさらに冷蔵庫の中に手を入れようとした。


「中には、まだ何かある。大事なもんが、な」


「――思い出せよ、A」


 Bの声は低く、けれど妙に優しげだった。

 まるで、古い友人が長い旅路の果てに再会したかのような声音だった。


「思い出せって言われても……そんなの、俺には……」


「でも、わかってるだろ。

 お前がこの部屋に来た理由も――この冷蔵庫が、ずっとお前を待ってた理由も」


 Aは顔を上げる。

 冷蔵庫の中には、まだ闇がある。

 奥の奥、そのさらに奥に、何かが潜んでいる。


「ほら、そこに……」


 Bが指を差す。


 Aは、意を決して手を伸ばした。

 冷たい冷気が肌を刺す。

 その奥で、彼の手が触れたのは――


 硬く、冷たく、そして人の手のような感触。


「っ……!」


 Aは手を引きかける。だが、引けなかった。

 何かが、引き寄せるように絡みつく。

 そして――


 ごとり。


 冷蔵庫の底が、ずるりと滑り、底板が外れる。

 その下には、さらにもう一段、密閉された冷凍スペースがあった。


「こいつは、特注だったな」


 Bが呟くように言った。


「死体を入れるための。……それも、二人分だ」


 底から現れたのは――


 男の凍てついた遺体。


 そして、

 その胸元にしがみつくように並べられた、切り刻まれた女のパーツ。


 顔、腕、太腿、指先。

 どれも丁寧に並べられている。


「嘘だ……これは……」


「全部、お前がやったことだよ。

 彼女を殺して、俺を殺して、それでも自分の記憶を偽った。

 だから、ここに戻ってきたんだ」


「戻って……?」


「ここは、ただの部屋じゃない。

 お前の罪が形になった場所だよ。

 ……お前は、自分からこの冷蔵庫を処分できなかった。

 だから、ずっと一緒にいたんだろ? 何度も引っ越して、場所を変えて、それでも――

 こいつを、手放せなかった」


 Aは、崩れ落ちた。


 冷蔵庫の中で、二つの遺体が、

 まるで抱き合うようにして重なり合っている。


「これが……俺の……?」


「そうだ。そして、だから――」


 バタン。


 突然、冷蔵庫の扉が、音もなく閉まった。

 そして――


 部屋のドアも、自動的に、鍵がかかる。


「な、なんだ……!?」


 Aが叫ぶ。


「開けろ! おい! B!!」


「……もう、無理だよ」


 Bの声が遠ざかる。


「ここは、そういう場所なんだ。

 一度、思い出したら……もう出られない」


「やめろ……! 出してくれ……俺は……!」


 部屋の電灯が、一つずつ消えていく。

 天井の蛍光灯、机の上の電球、壁の灯り。

 そして――


 最後に、冷蔵庫の奥から光が漏れ、また開いた。


 中の遺体たちが、まるで招くように、こちらを向いている。

 Aの足が、勝手に、そこへ向かう。


「やめろ……行きたくない……やめろ……」


「でも、もうお前は――俺たちの仲間だよ」


 Aの背後で、Bが微笑んでいた。

 その身体は、半透明になっていた。


「ようこそ、“冷蔵庫の中”へ」



終幕


 翌日。

 この部屋は、無人のまま見つかった。

 家具は整い、冷蔵庫も空だった。

 だが、電源を入れると――どこからか、小さな囁き声が聞こえたという。


 「寒いね……ねえ、まだ……出られないの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冷蔵庫の中の女 チャッキー @shotannnn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ