第2話 濡れた指と、小さな命
帰りの飛行機は、明日の午後だった。
東京に戻れば、またいつもの生活が待っている。仕事、通勤、言い訳の効かない毎日。
それを思うと、今こうして沖縄にいること自体が、どこか現実から脱線した一時の逃避のようにも感じられた。
──せめて何か、手元に残るものを。
そう思ったのかどうか、自分でもはっきりしないまま、秋色は潮溜まりの縁にしゃがみ込むと、透明なその生き物にそっと手を伸ばした。
頭の中では、いくつかの警戒心がちらついていた。
クラゲに刺されたら激痛が走るとか、正体の分からない生物には毒があるかもしれないとか──。
けれど、その小さなタコのようなものに指先が触れた瞬間、すべての思考は霧のように溶けていった。
それは驚くほどやわらかく、そしてひんやりとしていて──
「……気持ちいい」
無意識に、そう呟いていた。
炎天下の空気のなか、その感触だけが異質に、美しかった。
持って帰る──そう思ったのは一瞬だった。
けれど現実的に考えれば無理がある。
海の生き物の扱いなんて全く知らないし、手元に水を入れる容器もない。
気温も高い。このまま連れて帰ってもすぐに弱ってしまうだろう。
飛行機に乗せるのも難しい。
──やっぱりやめておこう。
秋色は立ち上がろうとした。
そのとき、小指に何かが絡んだ。
さっきまで動かなかったはずのあの生き物が、脚のようなものでそっと指に触れている。
逃げようとする動きじゃない。ただ、そこに留まろうとするような、ごくわずかな力だった。
秋色は、驚かなかった。
気味が悪いとも思わなかった。
ただ、少しだけ思った。
秋色は、その小さくて透明な生き物を両手ですくい上げ、海岸近くの宿へと戻った。
宿の部屋は古く、観光客向けというより、長期滞在者向けの簡素な造りだった。
部屋に着くころには、手のひらにあった海水はすっかり乾いていた。
けれど、生き物は弱った様子もなく、相変わらず静かに脈を打っていた。
──いや、ただ気づけていないだけかもしれない。
浴槽に置くにはうっかり排水口に落ちたら取り返しがつかない。洗面台も不安定だ。
何か代わりになるものはないかと部屋を見回すと、隅に置いてあった透明な水筒が目に入った。
去年の夏、コンビニでの出費を減らそうと思って買った、外出用のものだった。
その中にあの小さな生き物をそっと入れると、秋色はようやく思考の渦から抜け出し、落ち着いてそれを観察する余裕ができた。
自分の手をぺろっと舐めてみたが、感じたのは海水のしょっぱさだけだった。
本来、完全に透明な生物など存在しないはずだ。だが、その小さなタコのようなものは、水の中でふわりと浮かびながら、まるでその常識を否定するような姿をしていた。
もし秋色にもう少しでも海の生き物についての知識があれば──
こんなふうに、塩分のまったくない水に入れてしまうこともなかったのかもしれない。
海の生き物を真水に入れると、多くの場合、短時間で弱ってしまう。
体内の塩分濃度と水の浸透圧の違いによって、体液のバランスが崩れ、水を過剰に取り込んだり、逆に脱水状態になったりするためだ。
特に、海水に適応した無脊椎動物は環境変化に弱く、ほんの数分でも命に関わることがある。
透明な小さなタコが平然としているのは、奇跡的に順応力があるか、あるいは秋色がその異変に気づいていないだけかもしれなかった。
飼うつもりだった、恋をするまでは ヨスミ @yosumi2333
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