飼うつもりだった、恋をするまでは
ヨスミ
第1話 鼓動のような海
沖縄の浜辺に、一人で立っていた。
海は穏やかだったが、時折吹き抜ける潮風が、シャツの裾を無遠慮に揺らした。
白く崩れる波は形を定めず、それでも絶え間なく岸を打っては引いていく。
長山秋色(ながやま・しゅしき)は、ぼんやりとそれを眺めていた。
波の動きが、呼吸というよりも、どこか脈拍に近いものに思えた。
少なくとも、今の自分よりは、目の前の海のほうがよほど“生きている”ように見えた。
八月、東京はただでさえ息苦しいのに、彼はわざわざ沖縄まで来ていた。
新卒で入社し、夏季休暇を使っての旅行とはいえ、こんな真っ盛りに沖縄を選んだことを、周囲には少し呆れられた。
彼自身も理由ははっきりしていなかった。ただ、タイムラインに流れてきた沖縄の海の写真が目に焼き付いた。
見た瞬間、高一の合宿で行った海辺の景色がよみがえった。
あの時行ったのは千葉だった。
気温も今ほどじゃなかった。
それでも沖縄を選んだ。
千葉の海には──なんとなく近づきたくなかった。
この数年間、彼の人生は「終わったもの」で埋め尽くされていた。
秋色の高校時代は陸上部のエースだった。走ることがすべてで、大学進学も競技推薦で決まっていた。
だが、高三の春、練習中に左膝をひねり、前十字靭帯を断裂した。手術とリハビリで数ヶ月の入院。退院後も、全力で走ることは許されなかった。
復帰の見込みが立たないまま、推薦は取り消され、進路も変わった。
秋色は、それでも明るく振る舞った。周囲の期待どおりに「気持ちを切り替えて」前を向き、別の道を歩もうとした。競技に代わる何かを探しながら、表面上は淡々と日々を過ごした。
だが、それは続かなかった。
自分より才能がないと思っていた後輩がレギュラーの座を埋め、仲間たちは何事もなかったように大会に出場していた。
そのすべてが、じわじわと胸の奥を蝕んでいった。
大学に入る頃には、かつての部活仲間や昔の友達とも連絡を絶ち、家族との会話も減っていた。
今、こうして海辺に立っていても、足の裏に砂の粒と熱を感じるだけだった。
秋色は小さく砂をつま先で蹴ってみたが、海に入りたいとか泳ぎたいとか、そんな気持ちはもう湧かなかったし、湧いたとしてもきっと馬鹿みたいに思えた。
歩き出してみたが、海風は気休め程度で、直射日光の熱は容赦なかった。
足元の砂は裸足では歩けないほど熱を帯びており、サンダル越しにもじわじわと体力を奪っていく。
水分は摂っているはずなのに、額からは止めどなく汗が流れた。
──やばいな、これ、軽く熱中症かもしれない。
思考がぼんやりと霞んでいく中で、ふと、視界の端に何かが光った。
最初はただのペットボトルの破片かと思った。
だが、近づいてみると、それは干潮でできた小さな潮溜まりの中にいた──いや、正確には、「そこに在るようになった」。
最初は何もなかったはずの水面に、ぼんやりとした影が滲み出るように現れ、やがて透明なゼリー状の形を取っていった。
形はタコに似ていた。だが、どこか違う。
脚のようなものは八本ではなく、見るたびに本数が変わるようにも見えたし、体表は波の反射を受けて淡く揺らめきながら、静かに脈を打っていた。
誰かに見られることによって、ようやく“この世界に存在することを思い出した”──そんな印象すらあった。
秋色はその場にしゃがみ込み、目を逸らさずにじっと見つめた。
暑さも、汗も、視界の白んだ感覚も、どこかへ消えていった。
怖さはなかった。
ただ、なぜかその生き物が、とても寂しそうに思えた。
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