第10話「止まった世界の、消えゆく記憶」
三秒。
世界は、ループしない。ホームにいる人々も、広告も、鳩も、スマホをいじる男子学生も、すべてが止まったままだ。まるで、時間が凍り付いたみたいに。
わたしの手のひらでは、壊れた目覚まし時計の秒針が、カチリ、カチリ、と微かに音を立てて動いている。その音は、静止した世界の中で、唯一の希望のように響く。
「夜々ちゃん……」
わたしは、天宮夜々(あまみや やや)の顔を見つめた。彼女の瞳は、恐怖と困惑で大きく見開かれている。
「この時計……どうしてわたしが持ってたんだろう……。環ちゃんに渡した記憶も、ない……」
彼女の声は、か細く、今にも消え入りそうだった。その声が、わたしの心を締めつける。
「夜々ちゃん、大丈夫?」
わたしは、思わず彼女の頬に触れた。ひんやりとした肌の感触。彼女は、わたしの手から逃げるように、一歩だけ後ずさった。
「ごめんなさい……環ちゃんって、誰だっけ……?」
その言葉に、わたしの心臓が、きゅう、と締めつけられた。まるで、誰かに鋭いナイフで刺されたみたいに。
「夜々ちゃん……! 私だよ、霜月環!」
わたしは、彼女の両肩を掴んだ。震えるわたしの手の中で、彼女の体が、震えている。
「私だよ、夜々ちゃん! 私たちは、この三秒のループの中で、ずっと一緒にいたんだよ!」
必死に訴えるわたしの言葉は、彼女には届いていないようだった。彼女の瞳は、まるで遠い記憶を探すかのように、焦点が定まらない。
「ループ……? 何それ……? 私、何も覚えてない……」
夜々ちゃんの目から、また涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみや恐怖だけでなく、自分自身が分からなくなってしまった、途方もない孤独の涙だった。
「わたし、どうしてここにいるの……? この人たちは、何……?」
彼女は、止まったままの周囲の人々を、まるで初めて見るかのように、怯えた目で見つめた。
わたしは、頭が真っ白になった。ループが止まった代償に、彼女は、この世界のことだけでなく、わたしのことまで忘れてしまったのだろうか。
「夜々ちゃん、思い出して! この世界は、あなたが止めたんだよ! 私の告白で!」
わたしは、もう一度、必死に呼びかけた。
その瞬間、夜々ちゃんの顔に、かすかな光が宿った。
「告白……?」
彼女は、まるで初めて聞く言葉のように、その単語を繰り返した。
「『恋の代償』って……わたしの恋のこと……?」
その言葉は、まるで深い霧の中から、かすかに光が見えたかのように、小さく、そして儚かった。
「うん! そうだよ、夜々ちゃん! あなただけが、この世界を止めることができたんだ!」
わたしは、彼女の言葉を捕まえようと、必死に頷いた。
「だから、あなたがこのループの仕掛け人だったんだよ!」
わたしの言葉に、夜々ちゃんの瞳が、わずかに揺れた。
「仕掛け人……? そんな……」
彼女は、もう一度、手に持った壊れた目覚まし時計に目を落とした。秒針は、カチリ、カチリ、と音を立てて動き続けている。その音は、彼女の失われた記憶を刻むように、無情に響いた。
「私……本当に、何も覚えてないの……」
夜々ちゃんの声は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
「でも……なんだか、とても悲しい。どうしてだろう……」
彼女は、顔を覆い、しゃがみ込んだ。その肩が、小さく震えている。
わたしは、どうすることもできなかった。この世界は止まったままなのに、夜々ちゃんの記憶だけが、まるで砂のように、指の間からこぼれ落ちていく。
わたしの手のひらに、夜々ちゃんから返された壊れた目覚まし時計がある。その秒針は、止まることなく動き続けている。
この秒針が、彼女の失われた記憶を、未来へと連れ去ってしまうのではないか。そんな恐れが、わたしの心を支配した。
雨は止んでいる。空に架かった虹は、鮮やかに輝いている。
止まった世界で、一人しゃがみ込む夜々ちゃん。そして、その横で、ただ呆然と立ち尽くすわたし。
わたしたちの「新しい世界」は、本当に始まるのだろうか。
それとも、この静止した世界で、彼女の記憶が全て消え去り、わたしだけが取り残されるのだろうか?
三秒先の、君との終わらない恋。 @ruka-yoiyami
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