第9話「時計の針と、失われた記憶」

三秒。

 止まった世界に、微かな変化があった。わたしの手のひらにある、壊れた目覚まし時計の秒針が、カチリ、と音を立てて、一ミリだけ動いた。


 その小さな音は、静止した世界に響き渡る。ホームにいる人々も、広告も、鳩も、何もかもが固まったままだ。まるで、秒針の動きだけが、この世界の真実であるかのように。


 「環ちゃん……」

 天宮夜々(あまみや やや)の声が、震えていた。彼女は、わたしの手のひらの時計を見つめている。その瞳には、信じられないという驚きと、そして、かすかな希望の色が浮かんでいる。

 「動いた……時計が、動いたの?」

 彼女は、自分の言葉を確かめるように、小さく呟いた。


 わたしは、何も言わずに、ただ頷いた。わたしも信じられなかった。何十回、何百回と繰り返された三秒のループの中で、この時計の秒針が動いたことは一度もなかったのだから。


 夜々ちゃんは、ゆっくりと、震える指で時計の秒針に触れた。ひんやりとした金属の感触。彼女の指が触れると、秒針はまた、カチリ、と音を立てて、さらに一ミリだけ動いた。

 「本当に……」

 夜々ちゃんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、喜びと、そして、何かを思い出したような、複雑な感情の涙だった。


 「この時計……」

 夜々ちゃんは、まるで大切なものに触れるように、壊れた目覚まし時計をそっとわたしの手から取った。

 「これは、わたしが持っていたものなの」

 彼女の言葉に、わたしは首を傾げた。だって、わたしが持っていたのは、あなたが私に渡した時計だ。でも、彼女は、まるでそれが初めて手にしたかのように見つめている。


 「どうして、あなたが持ってたの……?」

 夜々ちゃんは、不思議そうにわたしに尋ねた。その瞳には、今まで見てきた「すべてを知っている」ような光はもうない。純粋な疑問だけが宿っていた。


 わたしは、戸惑った。彼女は、自分がわたしにこの時計を渡したことを、忘れてしまっているのだろうか。

 「それは……あなたが私にくれたんだよ」

 わたしがそう言うと、夜々ちゃんの顔に、困惑の色が広がった。

 「わたしが……? そんなこと、一度もなかったはずなのに」

 彼女は、自分の記憶を探るように、眉をひそめた。


 その瞬間、わたしの頭の中に、ざわめきが起こった。今まで、当たり前のように繰り返されてきた三秒のループ。わたしだけが記憶を保持し、彼女は毎回「わたしを見つけた」と言っていた。でも、もし、彼女がわたしの言葉で、その「三秒のループ」を止めたのだとしたら……。


 「夜々ちゃん、もしかして……」

 わたしは、恐る恐る口を開いた。

 「あなたが、このループの『仕掛け人』だったんじゃないの?」

 わたしの言葉に、夜々ちゃんの体が、びくりと震えた。彼女の顔から、血の気が引いていく。

 「仕掛け人……? なんのこと……?」

 彼女の瞳は、恐怖に揺れていた。まるで、自分が言った言葉の意味が、理解できないかのように。


 そして、夜々ちゃんは、手に持っていた目覚まし時計を、そっとわたしの手のひらに戻した。

 「わたし、分からなくなった……」

 彼女の声は、か細く、今にも消え入りそうだった。

 「この時計、どうしてわたしが持ってたんだろう……。環ちゃんに渡した記憶も、ない……」

 夜々ちゃんの顔は、まるで記憶の空白に迷い込んだ子供のように、心細げだった。


 世界は止まったままだ。雨も降らない。止まった人々の中で、わたしと夜々ちゃんだけが、存在している。

 そして、わたしの手のひらの壊れた目覚まし時計の秒針は、カチリ、カチリ、と、ゆっくりだが確実に、動き続けていた。

 それは、過去から現在へ、そして未来へと、時間が進んでいることを告げているようだった。

 でも、彼女の記憶は、どこへ行ってしまったのだろう。

 このループが止まった代償に、彼女は何かを失ってしまったのだろう。

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