第8話「空白の時間、募る想い」
世界は、リセットされなくなった。
三秒のループは、本当に止まったのだ。ホームでスマホをいじる男子学生は、タップしようとした指を止めたまま固まっている。広告も、鳩も、何もかもが、まるで写真のように静止していた。
雨音は止み、空に架かった虹だけが、鮮やかな色を放っている。この静寂(しじま)の中で、動いているのは、わたしと、天宮夜々(あまみや やや)だけ。そして、わたしの手のひらに残された、壊れた目覚まし時計。
「環ちゃん……」
夜々ちゃんが、再びわたしの名を呼んだ。その声は、まだわずかに震えていたけれど、先ほどまでの絶望的な響きはなかった。
「世界が止まった……本当に」
彼女は、まるで夢を見ているかのように、ゆっくりと周囲を見回した。その瞳には、信じられないという感情と、しかし確かな喜びが混じり合っている。
わたしは、何も言えずに、ただ彼女の顔を見ていた。ループが止まったことで、ようやく世界が、そして彼女が、本当の意味で動き出したように感じられた。
「どうして……止まったんだろう」
夜々ちゃんが、もう一度、その疑問を口にした。
「わたしの……恋の代償、だったから?」
わたしは、彼女の目を見つめて、はっきりと頷いた。
「うん。たぶん……そうだよ、夜々ちゃん」
「だって、このループに気づいていたのは、あなただけだったんでしょ?」
わたしの言葉に、夜々ちゃんの瞳が大きく見開かれた。彼女の頬を伝う涙は、もう悲しみのものじゃない。解放された、安堵の雫だ。
「そう……わたしだけだった」
夜々ちゃんの唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
「この世界が壊れ始めたときから、ずっと、三秒のループの中にいたのは、わたしだけだったの」
彼女の言葉が、重く、わたしの心に響いた。それは、どれほどの孤独だったのだろう。どれほどの時間を、たった一人で耐え忍んできたのだろう。
「わたしは、世界が壊れるのが怖くて、ずっと隠れてた。でも、あなたを見つけた時、分かったの」
夜々ちゃんは、壊れた目覚まし時計を持ったわたしの手を取った。ひんやりとした彼女の指が、わたしの手の甲に触れる。その指先から、彼女の長い時間が、わたしの心に流れ込んでくるようだった。
「世界は、もう壊れてて、どうしようもないって。でも、あなただけは違った」
彼女の瞳が、まっすぐにわたしを捉える。その視線は、まるでわたしが、彼女の止まっていた世界のすべてであるかのように、強く、深く、まっすぐだった。
「あなただけが、わたしを見つけてくれた。この壊れた世界の中で、唯一、わたしに気づいてくれたのが、環ちゃんだった」
「だから、わたしは……この世界を終わらせたかった」
夜々ちゃんの言葉は、祈りにも似ていた。
「あなたに会うために、このループを終わらせたかった」
彼女の言葉が、わたしの胸に温かい熱を灯した。この壊れた世界で、彼女はわたしを「見つける」ために、孤独なループを繰り返していたのだ。
「ねえ、環ちゃん」
夜々ちゃんが、もう一度、わたしの名前を呼んだ。その声は、もう震えていない。
「この世界は、もう終わったの」
彼女は、空に架かった虹を見上げた。その横顔は、とても穏やかで、そして、どこか吹っ切れたような表情をしていた。
「でもね、新しい世界が、これから始まるんだよ」
わたしたちは、止まったホームに、ただ二人、立っていた。
雨音は完全に消え、時計の秒針が止まったままの世界で、わたしたちの呼吸だけが聞こえる。
わたしは、夜々ちゃんの目を見つめた。彼女の瞳には、まだ涙の跡が残っているけれど、それはもう、絶望の涙じゃない。新しい世界への、期待の光だった。
「新しい世界……」
わたしは、その言葉をゆっくりと口にした。
「うん。あなたと、わたしだけの、新しい世界」
夜々ちゃんは、微笑んだ。その笑顔は、雨上がりの虹よりも、ずっと美しかった。
わたしたちの指が、ゆっくりと絡み合う。ひんやりとした彼女の指は、もう震えていない。
その瞬間、わたしの手のひらにあった壊れた目覚まし時計の秒針が、カチリ、と音を立てて、一ミリだけ動いた。
それは、世界が止まってから、初めての音だった。
わたしたちの「永遠」が、今、始まる予感がした。
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