第7話「動き出した世界の、止まった雨」
三秒。
世界は、リセットされなかった。
広告は、駅のホームに貼られたままだ。鳩は、もう一度羽ばたくこともなく、地面をついばんでいる。スマホをいじる男子学生の指は、止まったままだ。彼は、画面をタップしようとした、その姿勢で固まっている。まるで、世界そのものが、巨大な写真になったかのようだった。
雨音が、止んでいる。
空はまだ曇っているけれど、雲の切れ間から差し込む光が、遠くの空に大きな虹を架けている。色彩豊かなその光景は、ループしていた世界では決して見ることができなかったものだ。
わたしの手のひらの上には、壊れた目覚まし時計がある。秒針は、まだ止まったままだ。だけど、この時計だけが、わたしの手にしっかりと残っている。
目の前には、白いワンピースを着た天宮夜々(あまみや やや)が、涙を流したまま、わたしを見上げていた。
「環ちゃん……」
彼女の声は、震えている。それは、驚きと、信じられないという気持ちと、そして、深い安堵が混じった声だった。
「世界が……ループしなくなった」
夜々ちゃんは、ゆっくりと、震える手で空を指差した。その指先が、虹の輝きをなぞるように動く。
わたしは、何も言えずに、ただ夜々ちゃんの顔を見ていた。彼女の瞳には、まだ涙がたまっていたけれど、その奥には、明確な光が宿っている。それは、今までループの中で見てきた、どの光よりも強い輝きだった。
「どうして……止まったんだろう」
夜々ちゃんが、疑問を口にした。その声は、震えてはいるものの、どこか、世界が動き出したことへの期待に満ちている。
「わたしの……恋の代償、だったから?」
彼女は、まるで、自分の言葉が信じられないかのように、小さく呟いた。
わたしは、小さく息を吸い込んだ。そして、夜々ちゃんの目を見つめて、ゆっくりと、はっきりと答えた。
「うん。たぶん……そうだよ、夜々ちゃん」
わたしの言葉に、夜々ちゃんの瞳が大きく見開かれた。
「だって、このループに気づいていたのは、あなただけだったんでしょ?」
わたしは、夜々ちゃんの言葉を繰り返した。それは、もう過去の言葉じゃない。今、この瞬間の真実だった。
夜々ちゃんは、静かに頷いた。彼女の唇が、震えている。
「そう……わたしだけだった」
その声には、途方もない孤独と、長い長い時間が含まれているようだった。
「この世界が壊れ始めたときから、ずっと、三秒のループの中にいたのは、わたしだけだったの」
彼女の言葉が、ゆっくりと、わたしの心に響く。
「わたしは、世界が壊れていくのを、何度も何度も、三秒ごとに見ていた」
「わたしは、世界が壊れるのが怖くて、ずっと隠れてた。でも、あなたを見つけた時、分かったの」
夜々ちゃんは、壊れた目覚まし時計を持った、わたしの手を取った。ひんやりとした彼女の指が、わたしの手の甲に触れる。
「世界は、もう壊れてて、どうしようもないって。でも、あなただけは違った」
彼女の瞳が、まっすぐにわたしを捉える。
「あなただけが、わたしを見つけてくれた。この壊れた世界の中で、唯一、わたしに気づいてくれたのが、環ちゃんだった」
雨が、本当に止んでいた。駅のホームの天井から、水滴が落ちる音もしない。
夜々ちゃんの指が、わたしの手の甲を、そっと撫でる。
「だから、わたしは……この世界を終わらせたかった」
彼女の言葉は、まるで、祈りのようだった。
「あなたに会うために、このループを終わらせたかった」
わたしは、夜々ちゃんの瞳の中に、自分の顔が映っているのを見た。その顔は、無表情なんかじゃない。少しだけ、驚いていて、そして、戸惑っている。だけど、その奥には、今まで感じたことのない、温かい感情が宿っていた。
そして、わたしは気づいた。この壊れた目覚まし時計が、彼女がどれだけの時間を、わたしを探し続けていたかの証だということに。
「ねえ、環ちゃん」
夜々ちゃんが、もう一度、わたしの名前を呼んだ。その声は、もう震えていなかった。
「この世界は、もう終わったの」
彼女は、空に架かった虹を見上げた。その横顔は、とても穏やかだった。
「でもね、新しい世界が、これから始まるんだよ」
彼女の言葉が、わたしの心に深く刻まれた。
壊れた目覚まし時計の秒針は、まだ止まったままだ。だけど、わたしたちの時間は、確かに動き出していた。
雨上がりのホームに、二人の呼吸だけが響く。
止まった世界で、二人の時間が、始まった。
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