第6話「雨の向こう、開かれた扉」
三秒。
世界は、またリセットされた。
「やっと見つけた」
天宮夜々(あまみや やや)が、わたしに向かって微笑む。白いワンピース。雨に濡れた髪。手には、壊れた目覚まし時計。
それは、もう何百回も、何千回も繰り返された、最初の三秒。だけど、もう、ただの始まりじゃない。
彼女の笑顔は、いつもと少し違っていた。そこには、わずかな戸惑いと、それから、大きな期待が入り混じっている。
わたしは、彼女の目を見つめ返した。今回は、全てを伝えるつもりだった。
「驚いてる? そりゃそうだよね」
夜々ちゃんは、いつものように肩をすくめた。だけど、その仕草は、どこか遠慮がちに感じられた。
「私は天宮夜々。あなたも、この世界が壊れてるって気づいてるんでしょ?」
彼女の声は、わずかに震えていた。その震えは、まるで、わたしの返事を恐れているかのようだった。
わたしは、ゆっくりと頷いた。
「霜月環(しもつき たまき)」
自分の名前を口にするたび、それが、この三秒のループを突き破る、わたしだけの言葉のように感じられた。
夜々ちゃんは、にこりと笑う。その笑顔は、もう怖くなかった。むしろ、わたしの心を、優しい光で包み込む。
「私たち、同じみたいだね」
その言葉には、今まで以上の重みがこもっていた。
「この世界、いつからこんなことになってるんだろうね」
夜々ちゃんは、ホームの向こう側を眺める。止まった時間の中で、同じ動きを繰り返す人々。スマホをいじる男子学生の指は、また同じLINEを打とうとしている。彼らの動きは、もう機械的にしか見えない。
「わたしは……三日前から」
わたしは答える。
「私は……もっと前からかな」
夜々ちゃんは、目を伏せた。彼女がどれほどの孤独を抱え、どれほどの時間をこのループの中で過ごしてきたか。その痛みが、わたしの心にも伝わってくるようだった。
「まあ、いいや」
夜々ちゃんは、あっけらかんと言った。
「どうせ、この世界、すぐに終わるから」
わたしの心臓は、力強く鼓動を打つ。終わる世界。だけど、それは、二人の新しい世界の始まりでもある。
「終わる……って?」
わたしは、問い返す。
「だって、この世界、もう壊れてるでしょ? あとは、消えるだけだよ」
彼女は、淡々と続ける。その瞳には、諦めではない、確かな決意の光があった。
「でもね、環ちゃん。消える前に、一つだけ、やることがあるんだ」
夜々ちゃんは、壊れた目覚まし時計を、わたしの手のひらに乗せようとした。
わたしは、その手を避けた。そして、背中に隠していた目覚まし時計を、彼女の前に差し出した。
夜々ちゃんの目が、驚きに大きく見開かれる。そして、その驚きは、すぐに優しい光に変わった。その光は、雨上がりの空に差す一筋の光のようだった。
「どうして……」
彼女の声が、震えている。それは、感動と、そして、かすかな悲しみの混じった震えだった。
「どうして、持ってるの? これは、わたしが初めてあなたに渡すものなのに」
「この三秒、何十回も繰り返したから」
わたしは、まっすぐに彼女の目を見て答えた。
夜々ちゃんの顔から、すっと表情が消える。そして、ゆっくりと、その唇が弧を描いた。それは、今までで一番、心の底から嬉しそうで、同時に、少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「あなた、気づいてるの? わたしが何をしようとしているか、何を言おうとしているか」
その声は、震えながらも、弾んでいた。
「うん。知ってる」
わたしは、深く頷いた。
「電車が来る直前に、あなたは私に、こう言うんでしょ?」
わたしは、彼女が何度も繰り返した言葉を、もう一度、口にした。
「『この世界を、終わらせる方法。それはね──誰かの、恋の代償なの』って」
夜々ちゃんの瞳が、強く、激しく輝いた。その光は、まるで全ての謎を解き明かす、希望の光のようだった。
彼女は、静かに、そしてゆっくりと、問いかけた。
「……じゃあ、その『恋の代償』ってのが、誰の恋のことか、あなたは知ってる?」
その問いに、わたしの心臓が、大きく、確かな音を立てて鼓動した。もう迷いはない。
電車が、轟音と共にホームに入ってくる。風が吹き荒れる。
「うん。たぶん……」
わたしは、電車が止まる直前の、その一瞬に、はっきりと答えを口にした。
「たぶん、それは──あなたの恋のことだよ、夜々ちゃん」
わたしの言葉を聞いた瞬間、夜々ちゃんの顔から、全ての感情が消えた。そして、彼女の瞳から、大粒の雫が、雨のようにとめどなくこぼれ落ちた。
「……どうして」
彼女の唇が、震えながら、小さな音を紡いだ。その声には、深い悲しみと、そして、どうしようもない安堵が混じっていた。
電車は、いつもの場所で止まり、ドアが開く。
そして、また三秒。
全てが、リセットされる──はずだった。
広告は、元に戻らない。鳩は、もう一度羽ばたくこともなく、ホームの隅で餌をついばんでいる。スマホをいじっていた男子学生の指は、止まったままだった。彼は、画面をタップしようとしたその姿勢で、固まっている。
雨音が、止んだ。
世界は、完全に静まり返っていた。まるで、時間が、本当に止まってしまったかのように。
わたしの手のひらの上には、壊れた目覚まし時計。秒針は、まだ止まったままだ。
目の前には、白いワンピースを着た夜々ちゃんが、涙を流したまま、わたしを見上げていた。
「環ちゃん……」
彼女の声が、震えている。それは、悲しみや驚きだけじゃない。何か、もっと別の感情。
「世界が……」
夜々ちゃんは、ゆっくりと、震える手で、空を指差した。
空は、まだ曇っている。だけど、雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいる。
そして、その光が、雨上がりの空に、大きな虹を架けていた。
「世界が、ループしなくなった」
夜々ちゃんの目から、また一粒の涙がこぼれ落ちた。
わたしは、彼女の壊れた目覚まし時計を見つめた。止まった秒針が、まるで、これから動き出すのを待っているみたいだった。
この世界は、本当に終わるのだろうか。
それとも、わたしたちの「恋」が、新しい世界を始めるのだろうか。
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